通勤の合間や昼休みに、源氏物語を読んでいるというお話はしましたが。
もっぱら私が読むのは田辺聖子著
「新源氏物語」で、要所要所は元のままの言葉遣いで、その他が現代語になっていて、古典に弱いかーさんでも頭にストレスがかからずに、平安の香りを楽しみつつストーリーを追う事が出来ます。
そして源氏物語を読めば続きが読みたくなって、息子の薫(と言っても、実は父親が違う)の話である
「霧ふかき宇治の恋」となりまして、「んで? このあとどうなるのよ!!」と多少欲求不満気味になるわけです。
それで本棚をひっくり返せば出てくるのが、
「私本源氏物語」となるわけです。
(リンクしてあるのは、版が新しいせいかしら?出版社は同じですが、表紙が違います)
これがもうおかしくて仕方ない。
ちょうど重厚な映画が終わった後の、テロップの隅に流れるメイキング影像。
ほら演技を失敗したところや、台詞を噛んじゃったところなんかが流れて、ちょっと笑いをとったり、俳優本来の人柄が覗き見えたりして、気分がほぐれるじゃありませんか。あれと同じ。
しかし現実は、若盛りのことゆえ、大めしぐらいの大酒飲み、酔えば反吐もお吐きになり、
「伴男」
「はい」
「フツカ酔いや。どないしよう」
と息も絶え絶えに喘いだりも、なさるわけである。
「そらしようまへんな」
・・・・・・・・(中略)・・・・・・
「フツカ酔いで死んだもんは居りまへん。辛抱しなはれ」
「クスリはないか・・・・・・」
大将は苦しみ悶えていられるが、正午をさかいに、次第に気分を持ち直し、顔色も頓によろしく、大きな放庇を二つ三つ、これがフツカ酔いのおさまる大将の微候、夕方にはもう、さっそうとして、
「車や、車を出せ!」
と、身支度をして女のもとへ行かれる、という寸法である。
<森の下草老いぬればの巻より>
「えらいこっちゃ、えらいこっちゃ」
と大将はあたふたと宮中から退出してきていった。
「頭の中将が、中将が」
そういいさしたなり、
「一条へいけ、一条へ」
えらくあわてていられる。
「えっ、一条とは。どこのお邸でおます」
行列は混乱してしまう。「角白」の名牛を追っていた牛飼の雉子丸までビックリする。
・・・・・・(中略)・・・・・・
「頭の中将が、いつのまにやら私をだしぬいて、典侍に言い寄ったらしい。あの男、なんでも私のする通り、マネしたがる。子供の頃からや」
ウチの大将は不興げである。
「あいつはちっとも独創性があれへん。私の一挙手一投足をまねている。何でも張り合おうとする」
「永遠の好敵手ですなぁ」
<おぼろ頭の春の夜の巻より>
という風に、いたって人間らしい裏舞台が展開されるのです。
でも楽屋オチのようなところがありますので、表のストーリーが分かっていないと、本当の面白味は半分も味わえないかもしれません(^^;;
表舞台を読んでいて、「まったくこの好きモノは!」なんて思ったり、「もうなんでこんなに女が女々しいのか」なんてイライラもしたりしますが、イメージ的には国宝級の絢爛豪華な屋敷づくりに、自然深き舞台設定で、登場人物は「霞を食っていきとるんかいな?」という風になります。
当然登場人物も、俳優の誰それに当てはまるはずもなく、ひたすら美々しい人間のイメージが出現します。
(もっとも芸能界に疎いかーさんには、誰と思い浮かぶべくもないのですが:笑)
それがこの作品になりますと、突然人間臭さがでてきますので、光源氏もどこぞの誰それなんて思い浮かんだりもします。
で、パっと思いつくのが十代中村勘三郎。
あの粋さと、平安時代には十人前の男ぶりと思われる顔と、どうどうとした押し出しが・・・
いやいや もうチョイこう・・・
ああ そうそう!! 藤山寛美さんや!
もう芸もぴか一。
顔つきと言い、粋さと言い、人間の弱さもかわいげも分かっている。
もうぴったりです♪
勘三郎さんは大大好きなのですが、やはりそこには東と西の違いがあるような。
光源氏がイナセじゃ あきまへん(笑)
私本源氏物語の光源氏は、どっか天然が入っていなければならないような気がするんですよ。
で、頭の中に寛美源氏が登場すると、これまたハマって大ウケなんですね(^^;;
舞台上でああのこうのとやっている寛美源氏が、まざまざと目に浮かびます。
と言う事で、通勤時間と昼休みは逃避の世界(^^;;;
家ではひたすら深夜3時過ぎまで、人形に励んでおります。
あと少し!
がんばるぞーーー!!
追記
このシリーズの挿絵が、これまた趣あってよろしいです。
表を読んでいると、作品作りのイメージがあふれてきます。
で、裏はひたすら美しくもひょうきんで(笑)