またまた 佐野氏の本から。
やんちゃと言う言葉がありますね。その詳しい意味はともかく、やんちゃと悪いことをするというのは別物と言うことを念頭に・・・
木でもやんちゃの木のほうがよう育ちよる。それにちょっとやんちゃしている木のほうが使いやすいでっせ。 あんまり素直な木は、植えてもおもしろ味がないんですわ。
石でもそうでっせ。素直な石やったらおもしろ味がない。味がないんですな。やんちゃの木も石も使い方によって、ものすごくおもしろいものができる、その代わり使うほうに見る目がないとあきませんな。
にんげんもそうです。癖のあるやつを避けたがりますが、そうではなくて癖を利用すればいいんですわ。癖というのは使い方しだいです。同じような人間ばっかり集まってもおもしろうないでしょう。
今は使い分けると言うことが面倒だから、同じような素直な人だけを作りすぎているんですわ。そのほうが扱いやすいんです。数でかぞえればすみますから。寄せ植えの庭というのはそういうものです。日本の庭が美しく味があるのは、やんちゃさや癖をいかしているからです。
<中略>
わしが気をつけているのは、やっぱり個性を先に見抜いてやらんとということですわね。これはだめやけど、これはうまいことやるとかいう、それをやっぱり見抜いてやるのが、わしらのしごとなんです。 たとえば、小仕事と荒っぽい仕事との得手不得手がありますやろ。 それを見抜いてやると楽ですわ。木に登るのが上手な人とか手入れが上手な人とかね。
そういうことは、ちょっと仕事をさせたらわかります。庭を掃かせたら、いっぺんでわかりますわ。 こいつはずぼらか几帳面か、几帳面やけど時間がかかりとか、早いけどずぼらやとか、それも箒の持ち方ひとつでわかりますわ。
「掃除をさせてみる」とは、昔から言われていますね。
確かに最近の庭師さんは、刈り込みを頼んでも、良くて高枝バサミ、下手するとチェーンソウでバリカン刈りです。
当然、垣根だの植え込みの柘植などの形を作る木に穴が開いたりして・・・
それがちゃんとした職人さんだと、大まかには高枝バサミで刈り込んで、後は木の様子を見ながら剪定ばさみで仕上げていきます。
そういう仕事は、その時は穴が空いても、しばらくすると新芽が吹いて穴が消え、きれいな形になります。
考えなしに刈り込むと、新芽も出ずに枯れこんで、中がスケスケに見えたり枯れ込んで大穴が開いたりします。
で、仕事が終わると当然下に切り枝や葉が散りますね。
昔の職人さんは、大工さんにしても植木屋さんにしても、なめるように掃いて、仕事をした後を濁さなかったものです。あまりのきれいさに、普段の掃除が行き届いていない気になり恐縮してしまうくらい。
まさに「立つ鳥後を濁さず」です。
ところが今は角を丸く掃く式で、後は施主まかせ。
一度など「後の掃き掃除はお願いします」と、そのまま帰っていきました。
「二度と頼むか!!」であります(爆)
もっとも、今は植木屋さんでも大工さんでも、就業規則を守らなくてはならず、12時から1時間は昼休み、17時にはぴったり帰るのですから、仕方ない成り行きともいえます。
働く側には良いのでしょうが、職人と言う技を継承しようと思ったら、なかなかそんなものでは得られないと思うのですけれどね。
姉が住む実家には、小さな坪庭があります。
もう何十年前になりますか、姑が一大決心をして職人さんに手直しをお願いしました。
だれぞかの伝だったと思うのですが、年齢もそこそこいかれた職人さんでした。
昼には坪庭の縁側に座って、手弁当を食べて一休み。3時にはお茶をしていました。
昔は、お昼のお漬物と汁物とお茶、3時のお茶と茶菓子などは、施主が用意するものでしたねぇ。
ついでに座り込んで、毎日話し相手をしておりました。
その職人さん、実は京都のお寺などの庭園も手がけた方で、今は気が向いたときだけ気ままにしているとのこと。
4坪ほどの庭を、元の木を活かしながら、手前に蹲(つくばい)を配置したり、その下に白石を敷き詰めて小川に見立てたり。
一休みしながら、「あそこはこうがいいな」とか「ここは雨が集まるから、こうしたものを植えようと思う」とか、「つくばいの後ろから手前にちょうど良いベニシタンの十年物があるから、それを持ってこようと思う」とか、話を聞くのが楽しみでした。
おそらく姑のことですから、費用もあまりうるさくなく、日数もお任せであったのだと思います。
久しぶりに思うように出来る小さな仕事を、それは楽しんでおられた気がします。
木から小さな草まで、土の様子や日当たりや雨の当たり具合などを考えて、良くまぁこんな小さな部分にまでと思うような仕事をなさっていました。
自然の景色を作りながら、ちょっとしたところに遊びを入れた庭になりました。
もっとも、佐野氏ではないですが、庭は守りが必要です。
でも悲しいかな、その植木屋さんも今はなし、素人では庭守りも難しく・・・。
でも、かーさんの心の中には、職人さんというものがどんなものか、今でも残っておりますよ。
さて、閑話休題。
個性を見るというタイトルでしたね(^^;;
子供でもそうですね。 もちろん世間や保護者からの要望があるから、どうしてもそうなってきたわけですけど、「良い子」を作りたがる。
良い子を作るマニュアルみたいなものを当てはめて、同じような子を生産しようとする。
あるいは、同じマニュアルを使って、最低限これ位というレベル、あるいはよりよい成績の子を作ろうとする。
まぁ、言っちゃ何ですけど、品質管理と品質の向上といった、工場レベルの子育てをしているのが今時かと。
特に学校で。
そのラインに乗るのに、親子して苦労したりして・・・(--)
(あー もう子育ては十分:笑)
ところがもともとの素材が、ナマモノですからねぇ(^^;;
自然が作り出した、命のあるものなんですよ。
当然、遺伝子も多様で、性格も体質もさまざま。
それを型に当てはめていかないと、いまどきの世の中に生きて行くことに苦労する。
そういう世の中自体が、壮大な工場ラインのような感じがしています。
すでに親自体が工場生産の商品化しているのですから、もう今の世の中のどこがおかしいかなんて、分からないわけですよ。
どこか不条理がおきているようには感じても、それをどうしていったらいいかが分からない。
親は子育てに悩むし、どうしていいかわからない。
だからマニュアルに頼るし、人に頼るし、丸投げするし(--)
親がそんなだから、ラインに乗っている子供は手も足も出やしない。
どうにかそれに適応できればいいけれど、出来ない子は「品質×」のラベルを貼られて、規格外扱い。 B級品と言うわけですね。
せめて親が、どんな時でも子供から目を離さず、本心から理解して支えてやりたいと思えば、子供って言うのはちょっとやそっと曲がっても、あっち行ったきりと言うようにはならないと思うのですけどねぇ。
もっとも生き物のことですから、親がどうあっても手に負えないと言うこともありますけど(笑)
ともあれ、個性の違う生き物であると思えば、思うようにならないと嘆くこともないかと。
当然、きょうだい間で比べるなんてあってはいけませんね。
他人と比べられるのだっていやなのに、家族間で比べられたら身の置き所がありません。
またまた ウサギに当てはめる。
そうなんですよね。それぞれに個性があって、それを理解してやると、信頼関係を作るのもたやすいんですよね。
ウサギも個性が豊かです。体質や大きさや性格が、見事に違います。
自分のウサギがどんなウサギか、それを知るのを楽しみ、個性に合った世話の仕方をすればいいのだけど?と思うわけです。
もちろん飼い主のできることも、それぞれの家庭で違うわけですから、無理にマニュアルや規格に当てはめる必要もないわけで。
子供もウサギも、一番大事なのは「あなたが好きよ! とっても大事よ。生まれてきてくれて、ありがとう」という気持ちと、いつくしんで見守る事だと思うのですけれどね。
植物だって、見守ってそれが生きるに見合う環境にしてやれば、すくすく育つのですから、ましてや動物ならば、と言うものです。
また幸いなことに、ウサギというのは犬のような躾というのがいらない。
どこまでも甘やかしてかわいいかわいいで育てても、そうそう手を焼く悪い子にはならない。
第一、臆病な被捕食動物なのですから、叱るのは逆効果だと思うのですね。
ほめて育てる。困ったことをしたら、手を出せない様にするか、ウサギを移動させるか。
つまりコードをかじって困るなら、コードを何かで隠すか、コードを金網で包めばいい。
叱ったって、困ったことにしかならないんですよね。
猫かわいがりできるって、とっても楽チン♪
「それはたまたま、あなたが上手く行っているからよ」と言われる向きもありそうですが。
「それを言っちゃあ オシマイよ!」であります(^^;;;
やんちゃと言う言葉がありますね。その詳しい意味はともかく、やんちゃと悪いことをするというのは別物と言うことを念頭に・・・
木でもやんちゃの木のほうがよう育ちよる。それにちょっとやんちゃしている木のほうが使いやすいでっせ。 あんまり素直な木は、植えてもおもしろ味がないんですわ。
石でもそうでっせ。素直な石やったらおもしろ味がない。味がないんですな。やんちゃの木も石も使い方によって、ものすごくおもしろいものができる、その代わり使うほうに見る目がないとあきませんな。
にんげんもそうです。癖のあるやつを避けたがりますが、そうではなくて癖を利用すればいいんですわ。癖というのは使い方しだいです。同じような人間ばっかり集まってもおもしろうないでしょう。
今は使い分けると言うことが面倒だから、同じような素直な人だけを作りすぎているんですわ。そのほうが扱いやすいんです。数でかぞえればすみますから。寄せ植えの庭というのはそういうものです。日本の庭が美しく味があるのは、やんちゃさや癖をいかしているからです。
<中略>
わしが気をつけているのは、やっぱり個性を先に見抜いてやらんとということですわね。これはだめやけど、これはうまいことやるとかいう、それをやっぱり見抜いてやるのが、わしらのしごとなんです。 たとえば、小仕事と荒っぽい仕事との得手不得手がありますやろ。 それを見抜いてやると楽ですわ。木に登るのが上手な人とか手入れが上手な人とかね。
そういうことは、ちょっと仕事をさせたらわかります。庭を掃かせたら、いっぺんでわかりますわ。 こいつはずぼらか几帳面か、几帳面やけど時間がかかりとか、早いけどずぼらやとか、それも箒の持ち方ひとつでわかりますわ。
「掃除をさせてみる」とは、昔から言われていますね。
確かに最近の庭師さんは、刈り込みを頼んでも、良くて高枝バサミ、下手するとチェーンソウでバリカン刈りです。
当然、垣根だの植え込みの柘植などの形を作る木に穴が開いたりして・・・
それがちゃんとした職人さんだと、大まかには高枝バサミで刈り込んで、後は木の様子を見ながら剪定ばさみで仕上げていきます。
そういう仕事は、その時は穴が空いても、しばらくすると新芽が吹いて穴が消え、きれいな形になります。
考えなしに刈り込むと、新芽も出ずに枯れこんで、中がスケスケに見えたり枯れ込んで大穴が開いたりします。
で、仕事が終わると当然下に切り枝や葉が散りますね。
昔の職人さんは、大工さんにしても植木屋さんにしても、なめるように掃いて、仕事をした後を濁さなかったものです。あまりのきれいさに、普段の掃除が行き届いていない気になり恐縮してしまうくらい。
まさに「立つ鳥後を濁さず」です。
ところが今は角を丸く掃く式で、後は施主まかせ。
一度など「後の掃き掃除はお願いします」と、そのまま帰っていきました。
「二度と頼むか!!」であります(爆)
もっとも、今は植木屋さんでも大工さんでも、就業規則を守らなくてはならず、12時から1時間は昼休み、17時にはぴったり帰るのですから、仕方ない成り行きともいえます。
働く側には良いのでしょうが、職人と言う技を継承しようと思ったら、なかなかそんなものでは得られないと思うのですけれどね。
姉が住む実家には、小さな坪庭があります。
もう何十年前になりますか、姑が一大決心をして職人さんに手直しをお願いしました。
だれぞかの伝だったと思うのですが、年齢もそこそこいかれた職人さんでした。
昼には坪庭の縁側に座って、手弁当を食べて一休み。3時にはお茶をしていました。
昔は、お昼のお漬物と汁物とお茶、3時のお茶と茶菓子などは、施主が用意するものでしたねぇ。
ついでに座り込んで、毎日話し相手をしておりました。
その職人さん、実は京都のお寺などの庭園も手がけた方で、今は気が向いたときだけ気ままにしているとのこと。
4坪ほどの庭を、元の木を活かしながら、手前に蹲(つくばい)を配置したり、その下に白石を敷き詰めて小川に見立てたり。
一休みしながら、「あそこはこうがいいな」とか「ここは雨が集まるから、こうしたものを植えようと思う」とか、「つくばいの後ろから手前にちょうど良いベニシタンの十年物があるから、それを持ってこようと思う」とか、話を聞くのが楽しみでした。
おそらく姑のことですから、費用もあまりうるさくなく、日数もお任せであったのだと思います。
久しぶりに思うように出来る小さな仕事を、それは楽しんでおられた気がします。
木から小さな草まで、土の様子や日当たりや雨の当たり具合などを考えて、良くまぁこんな小さな部分にまでと思うような仕事をなさっていました。
自然の景色を作りながら、ちょっとしたところに遊びを入れた庭になりました。
もっとも、佐野氏ではないですが、庭は守りが必要です。
でも悲しいかな、その植木屋さんも今はなし、素人では庭守りも難しく・・・。
でも、かーさんの心の中には、職人さんというものがどんなものか、今でも残っておりますよ。
さて、閑話休題。
個性を見るというタイトルでしたね(^^;;
子供でもそうですね。 もちろん世間や保護者からの要望があるから、どうしてもそうなってきたわけですけど、「良い子」を作りたがる。
良い子を作るマニュアルみたいなものを当てはめて、同じような子を生産しようとする。
あるいは、同じマニュアルを使って、最低限これ位というレベル、あるいはよりよい成績の子を作ろうとする。
まぁ、言っちゃ何ですけど、品質管理と品質の向上といった、工場レベルの子育てをしているのが今時かと。
特に学校で。
そのラインに乗るのに、親子して苦労したりして・・・(--)
(あー もう子育ては十分:笑)
ところがもともとの素材が、ナマモノですからねぇ(^^;;
自然が作り出した、命のあるものなんですよ。
当然、遺伝子も多様で、性格も体質もさまざま。
それを型に当てはめていかないと、いまどきの世の中に生きて行くことに苦労する。
そういう世の中自体が、壮大な工場ラインのような感じがしています。
すでに親自体が工場生産の商品化しているのですから、もう今の世の中のどこがおかしいかなんて、分からないわけですよ。
どこか不条理がおきているようには感じても、それをどうしていったらいいかが分からない。
親は子育てに悩むし、どうしていいかわからない。
だからマニュアルに頼るし、人に頼るし、丸投げするし(--)
親がそんなだから、ラインに乗っている子供は手も足も出やしない。
どうにかそれに適応できればいいけれど、出来ない子は「品質×」のラベルを貼られて、規格外扱い。 B級品と言うわけですね。
せめて親が、どんな時でも子供から目を離さず、本心から理解して支えてやりたいと思えば、子供って言うのはちょっとやそっと曲がっても、あっち行ったきりと言うようにはならないと思うのですけどねぇ。
もっとも生き物のことですから、親がどうあっても手に負えないと言うこともありますけど(笑)
ともあれ、個性の違う生き物であると思えば、思うようにならないと嘆くこともないかと。
当然、きょうだい間で比べるなんてあってはいけませんね。
他人と比べられるのだっていやなのに、家族間で比べられたら身の置き所がありません。
またまた ウサギに当てはめる。
そうなんですよね。それぞれに個性があって、それを理解してやると、信頼関係を作るのもたやすいんですよね。
ウサギも個性が豊かです。体質や大きさや性格が、見事に違います。
自分のウサギがどんなウサギか、それを知るのを楽しみ、個性に合った世話の仕方をすればいいのだけど?と思うわけです。
もちろん飼い主のできることも、それぞれの家庭で違うわけですから、無理にマニュアルや規格に当てはめる必要もないわけで。
子供もウサギも、一番大事なのは「あなたが好きよ! とっても大事よ。生まれてきてくれて、ありがとう」という気持ちと、いつくしんで見守る事だと思うのですけれどね。
植物だって、見守ってそれが生きるに見合う環境にしてやれば、すくすく育つのですから、ましてや動物ならば、と言うものです。
また幸いなことに、ウサギというのは犬のような躾というのがいらない。
どこまでも甘やかしてかわいいかわいいで育てても、そうそう手を焼く悪い子にはならない。
第一、臆病な被捕食動物なのですから、叱るのは逆効果だと思うのですね。
ほめて育てる。困ったことをしたら、手を出せない様にするか、ウサギを移動させるか。
つまりコードをかじって困るなら、コードを何かで隠すか、コードを金網で包めばいい。
叱ったって、困ったことにしかならないんですよね。
猫かわいがりできるって、とっても楽チン♪
「それはたまたま、あなたが上手く行っているからよ」と言われる向きもありそうですが。
「それを言っちゃあ オシマイよ!」であります(^^;;;