導入の「神と人が同居する」
とする折口信夫の芸能説がまさに、今日の講義のすべてを物語っていたのではないだろうか。
生まれ育った花巻は遠野にも近く、
日々の暮らしの中に芸能が生きていた時代を体験している者として極めて共感出来る言葉である。
テーマパークのフェスティバルとは違うまさに神と人が同居する祭の姿がまだまだのこっていた。
祭の仕切りは代々、その地域の年寄りに口伝され継承されていた。
かたくななまでに型は引き継がれるべきものとしてあったはずなのだが、
無惨にも今は型は崩れ、形無しになってきている現実もある。
それは生活環境の変化と共に引き継いで行くべき人々の身体構造が変わった事、
ライフスタイルが快適になった分、身体と魂がナマダラになり神との共存が難しくなったからのように思う。
それはわがふる里に限った事ではないだろう。
まれびと論への指摘は興味深いものがあった、
確かに世界を見渡せば、その文明の起源は確かに共通するものがあるように思う。
地母神信仰はまさに命をうみだすものへの畏怖、畏敬が根源にあり、
農耕稲作との関わりから誕生した芸能もその文脈の上にあるもののように思う。
わがふる里の詩人、宮沢賢治は森羅万象なべてに、命を観、人格化し言葉をかわす、
「狼森と笊森、盗森」においては大地の恵みへの感謝として捧げものをし、祭をするプロセスが描かれている。
そこには異形の神の存在もある。
ここで描かれる神にはまれびとのニュアンスがなくもない。
彼は生涯をかけて、この自然への畏怖、畏敬の念を書きつづった。
森羅万象に神が宿るということ、
その曰く言い難い存在としての神への畏れ敬いを見失ったときから、型は崩れ、社会そのものもぐずぐずになる。
その上からも今こそ私たちは芸能の狭間からその極みを掬い取り、
その輝きを魂の滋養として味わい、
良き振る舞いとして社会に還元することを心すべき時の到来と覚悟するべきではないだろうか。
その事を日本の伝統芸能の可能性と思いたい。
幸い我々は八百万の神を信奉し、
その神のお姿を仏教の僧形で描くことにもためらいをもたずにきた歴史がある。
その大らかさをこそ戦争の絶えない世界に対して、
新たな文化として発信し、芸術立国としての誇りと実践力を育みたいものと思う。