東京のアートシーン探訪
「アートでコモンズ再生!」に江戸一本締めで礼讃。
はじめに
東京のアートシーンがかくも多様で深く、拡がりのあるものだったとは!現場を歩くことでその事をつぶさに実感出来たことが何よりの大きな収穫であり、現代アートに対する先入観をも見事に翻す事となった。
それもやはり、コンダクターの用意周到なセレクションがあればこその事だと痛感する。
美術館、貸し画廊、企業メセナ、個人美術館、NPO運営のアート拠点、コマーシャルギャラリーを見学したが、それぞれがその特性を如実に顕現しており、現代のアートシーンを万遍なく網羅していたのではないだろうか。
それぞれに、その場の物語があり、魅力あふれる人がいる。その全てに言及したい欲望にかられる。
現代アートが如何に身近で魅力にあふれる物であるかを再認識させてくれ、現代美術という新世界への扉を押し開いてくれた印象深いギャラリーについて2~3言及したい。
1. セレクション現代アートで新世界への扉が開く
初日に訪れた「貸しギャラリーなつか」、二人の彫刻家は極めて紳士的であり、最初の垣根に、身構えずに向き合えた。そのおかげで、静かに新世界への扉をこじ開けることなく、自然に押し開かれていったように思う。
作家本人から制作の意図や石を彫るとはどういう事なのかを伺い、ギャラリーのオーナーからこの銀座の貸しギャラリーの変遷や経営上のノウハウなども聞かせてもらい、現代アートは忽然と現代アートになったのではなく、この銀座という場で時を経ながら現代アートとよばれる物に自然になったのだという側面を感じた。
確かにかつて銀座にあまたあった投資目的の絵画を販売していた画廊とは全くスタートを異にしているという印象がある。
だからこそ、現代を生きる人のアートを育てる事が出来たのだろう。絵画販売を目的とする画廊にはなし得なかった事だ。その事も起因してなのか、多くの画廊が淘汰されたように聞く。
企業メセナとしてのメゾンエルメスにしろ、資生堂にしろ、アーティストを称揚し育てるという視点を持っている、さらにそれらを世の中に開陳していくという社会的貢献にも寄与している。(社会 という概念も一概には語れないものがあるが)
現代アートに於いて、作家本人はもとより、彼らを愛し、育てる人と場があって成立するものでありその両者の関係性のありようで、アートの質も意味も変化する要素を孕んでいるように思う。
個人ギャラリーを見るに、「高橋コレクション日比谷」は明確にアートへの信仰は世界共通のものだとし、礼拝の場としての巡礼地となることを願っている。
「ギャラリー古今」のコンセプトには美術を展示することで個人が社会の中で快適に適応する状態を創出する可能性を探りたい、としている。
「小島びじゅつ室」は作家本人と実に丁寧な年月を重ね、用意周到な展示に漕ぎ着ける。無名な人を世に送り出す事を使命感にしている節も感じられた。
その意気込みは、加藤泉初期作品展 『加藤泉という作品』におけるオーナー小島先生のコメントにもうかがえる。
「作家の初期作品に限れば、無名性の悲しみと、描きたいという強い意思が描かれていた」
共通するのは社会との関わりを視点に据えていること、作家とコレクターとの間にとても濃密な関係性が築かれていることだ。
現代アートはともすると非常に限られたマニアックな一部の人々のもののように思われがちがちだが、極めて社会的な存在であり、コレクターと作家の関係性が近代的人間関係の中に築かれていて、妙にウレシイ気持ちがした。
そのような関係性は、コマーシャルギャラリーとしての「TARO NASUギャラリー(真島竜男展)」においても感じられた。
このような社会とのつながりという点でその事をもっとも顕著にトータルに創出している空間、まさに私自身の問である「何故アートを学びはじめたか?」に対する明確な答えをもらえたのが「アーツ千代田3331」であった。
2. 学ぶだけのアートから生きる糧になるアートへ
事前レポートの中での問いかけ
「誰もが参加することができるような、なにか流動的な生そのもののような芸術。それが日々、日常のものであり、かつ創作者と鑑賞者が交換可能な芸術。文字どおり、それは万人のもの。実はアートに決定的にかけているのは、この次元だ。」
まさにこのことを具体に実現している場が「アーツ千代田3331」 であった。ここに希求していたアートが見事に顕在している!その喜びで胸がたかなった。
聞けば2010年6月にオープンしたてで、旧練成中学校をそのままリニューアルし、
施設の改修及び運営は、区が公募で選定した運営団体「合同会社コマンドA」が行っている。以下がそのミッションである。
ちよだアートスクエアは、文化芸術プランの重点プロジェクト名であり、ソフトとハードの両面をさしています。 アーツ千代田3331は、運営団体が決定した施設の名称です。
◎「ちよだアートスクエア」とは
1.目的:文化芸術を通して人々の生活の質を高めることを目的に、様々な自己表現の場や交流の機会を広く提供する。
まさに社会の概念である「他者と共により良き集団的な生を築くにはどうしたらよいかを考え、それを実現しようとして作り出した観念であった。」をこの場を活用することによって、より豊かなコモンズを形成するために成立したといえるのではないだろうか。
先にのべた、企業メセナ、個人ギャラリー、コマーシャルギャラリーにも社会とのつながりが色濃くあった。
現代アートとはむしろかつてのように作品として鑑賞する、経済的価値を生む代物からより良い集団的な生を築くために存在し始めていると言っても過言ではないのではないか。
最初に運営団体であるコマンドAに創立の経緯などを伺いたく問い合わせをしたところ、何と一時間10万円という法外な金額を言われ腰が引けてしまった。
つまり、一人一人にその都度対応していたのでは大変な事から、大勢の人でやってきて、その10万円もシェアーすれば、相互にロスも無いのではないかというような意図のようだった。確かに頷けることではある。いちいち来る人ごとに対応していたのでは少ないスタッフや独立採算での運営であれば、いたしかたのないことではあろう。
行政側から聞いてみようと問い合わせると、そこはお役所、流石に懇切丁寧に経緯や、根本にあるのは「千代田区文化芸術基本条例」であることを説明してくれた。しかし、運営面を聞くに殆どコマンドAに丸投げのような気がしないでもない。
言葉を変えればアウトソーシングというのだろうが、練成中学の賃料を一般的価格よりも低く抑えているというだけの事らしい。後は旧校舎から交流スクェアーとして再生させる際にバリアフリー化等にかかった費用2億円の拠出があったのみで、後の企画運営すべてがコマンドAにまかされているのが現状のようだ。委託費なども一切無しである。
よって説明に要する費用として10万円という価格が出てくるのかもしれない。
何事にも明暗はつきものなのだろうが、あらゆる苦労を背負わされた形になるのではと少し危惧する気持ちも湧いた。その分、自由な裁量が出来るし、喜びも深いとは思うが。
何度か現場に足を運び、これからの展開を見守り続けたいし、俄然、わが江東区でも
実現できるものならしたいと思う。
その為にも活き活きとした、地域拠点であり続けて欲しいと心から願う。
おわりに
「前略 すべての人々が作り、品評しあう中で偉大な芸術が生み出されないというのは全くの偏見です。機会の大小が異なるだけで、そこにはやはり切磋琢磨が不可欠だからです。同時に、誰もが作り手になるということは、いい加減、勝手気儘にやればよいというのではありません。逆です。作り手と見手が交換可能である分、批評はむしろ適格且つ応酬的になるでしょう。けれども同時に、そこにはよき競争に特有な溌剌さも芽生えることでしょう。後略」
まさにこの鏑木の言葉の中に美術にとっての好ましい環境が凝縮されているように思う。
探訪したすべてのギャラリーにその要素を嗅ぎとることが出来た。
京都造形芸術大学の理念として掲げる芸術立国をもって、「戦争」 のない平和で調和にあふれた世界を実現することにもつながることだ。
当学で学ぶ至福は、まさにそれであろう。その学びをこそ、自らの足もとで幾ばくかでも種を蒔き、耕しまさに「藝」という漢字の語源に相応しい働きをしてゆけたならこれに優喜びはない。
そのきっかけを作ってくれた今回の授業はまさに千載一遇の好機をもたらしてくれた貴重な時間であった。
「アートとは、ひとりひとりの人間がいまここに存在しているという驚きそのもの。」と言う椹木の言を肝に銘じて三年間の学びを今後に活かしてゆきたいと切に願う。
「アートでコモンズ再生!」に江戸一本締めで礼讃。
はじめに
東京のアートシーンがかくも多様で深く、拡がりのあるものだったとは!現場を歩くことでその事をつぶさに実感出来たことが何よりの大きな収穫であり、現代アートに対する先入観をも見事に翻す事となった。
それもやはり、コンダクターの用意周到なセレクションがあればこその事だと痛感する。
美術館、貸し画廊、企業メセナ、個人美術館、NPO運営のアート拠点、コマーシャルギャラリーを見学したが、それぞれがその特性を如実に顕現しており、現代のアートシーンを万遍なく網羅していたのではないだろうか。
それぞれに、その場の物語があり、魅力あふれる人がいる。その全てに言及したい欲望にかられる。
現代アートが如何に身近で魅力にあふれる物であるかを再認識させてくれ、現代美術という新世界への扉を押し開いてくれた印象深いギャラリーについて2~3言及したい。
1. セレクション現代アートで新世界への扉が開く
初日に訪れた「貸しギャラリーなつか」、二人の彫刻家は極めて紳士的であり、最初の垣根に、身構えずに向き合えた。そのおかげで、静かに新世界への扉をこじ開けることなく、自然に押し開かれていったように思う。
作家本人から制作の意図や石を彫るとはどういう事なのかを伺い、ギャラリーのオーナーからこの銀座の貸しギャラリーの変遷や経営上のノウハウなども聞かせてもらい、現代アートは忽然と現代アートになったのではなく、この銀座という場で時を経ながら現代アートとよばれる物に自然になったのだという側面を感じた。
確かにかつて銀座にあまたあった投資目的の絵画を販売していた画廊とは全くスタートを異にしているという印象がある。
だからこそ、現代を生きる人のアートを育てる事が出来たのだろう。絵画販売を目的とする画廊にはなし得なかった事だ。その事も起因してなのか、多くの画廊が淘汰されたように聞く。
企業メセナとしてのメゾンエルメスにしろ、資生堂にしろ、アーティストを称揚し育てるという視点を持っている、さらにそれらを世の中に開陳していくという社会的貢献にも寄与している。(社会 という概念も一概には語れないものがあるが)
現代アートに於いて、作家本人はもとより、彼らを愛し、育てる人と場があって成立するものでありその両者の関係性のありようで、アートの質も意味も変化する要素を孕んでいるように思う。
個人ギャラリーを見るに、「高橋コレクション日比谷」は明確にアートへの信仰は世界共通のものだとし、礼拝の場としての巡礼地となることを願っている。
「ギャラリー古今」のコンセプトには美術を展示することで個人が社会の中で快適に適応する状態を創出する可能性を探りたい、としている。
「小島びじゅつ室」は作家本人と実に丁寧な年月を重ね、用意周到な展示に漕ぎ着ける。無名な人を世に送り出す事を使命感にしている節も感じられた。
その意気込みは、加藤泉初期作品展 『加藤泉という作品』におけるオーナー小島先生のコメントにもうかがえる。
「作家の初期作品に限れば、無名性の悲しみと、描きたいという強い意思が描かれていた」
共通するのは社会との関わりを視点に据えていること、作家とコレクターとの間にとても濃密な関係性が築かれていることだ。
現代アートはともすると非常に限られたマニアックな一部の人々のもののように思われがちがちだが、極めて社会的な存在であり、コレクターと作家の関係性が近代的人間関係の中に築かれていて、妙にウレシイ気持ちがした。
そのような関係性は、コマーシャルギャラリーとしての「TARO NASUギャラリー(真島竜男展)」においても感じられた。
このような社会とのつながりという点でその事をもっとも顕著にトータルに創出している空間、まさに私自身の問である「何故アートを学びはじめたか?」に対する明確な答えをもらえたのが「アーツ千代田3331」であった。
2. 学ぶだけのアートから生きる糧になるアートへ
事前レポートの中での問いかけ
「誰もが参加することができるような、なにか流動的な生そのもののような芸術。それが日々、日常のものであり、かつ創作者と鑑賞者が交換可能な芸術。文字どおり、それは万人のもの。実はアートに決定的にかけているのは、この次元だ。」
まさにこのことを具体に実現している場が「アーツ千代田3331」 であった。ここに希求していたアートが見事に顕在している!その喜びで胸がたかなった。
聞けば2010年6月にオープンしたてで、旧練成中学校をそのままリニューアルし、
施設の改修及び運営は、区が公募で選定した運営団体「合同会社コマンドA」が行っている。以下がそのミッションである。
ちよだアートスクエアは、文化芸術プランの重点プロジェクト名であり、ソフトとハードの両面をさしています。 アーツ千代田3331は、運営団体が決定した施設の名称です。
◎「ちよだアートスクエア」とは
1.目的:文化芸術を通して人々の生活の質を高めることを目的に、様々な自己表現の場や交流の機会を広く提供する。
まさに社会の概念である「他者と共により良き集団的な生を築くにはどうしたらよいかを考え、それを実現しようとして作り出した観念であった。」をこの場を活用することによって、より豊かなコモンズを形成するために成立したといえるのではないだろうか。
先にのべた、企業メセナ、個人ギャラリー、コマーシャルギャラリーにも社会とのつながりが色濃くあった。
現代アートとはむしろかつてのように作品として鑑賞する、経済的価値を生む代物からより良い集団的な生を築くために存在し始めていると言っても過言ではないのではないか。
最初に運営団体であるコマンドAに創立の経緯などを伺いたく問い合わせをしたところ、何と一時間10万円という法外な金額を言われ腰が引けてしまった。
つまり、一人一人にその都度対応していたのでは大変な事から、大勢の人でやってきて、その10万円もシェアーすれば、相互にロスも無いのではないかというような意図のようだった。確かに頷けることではある。いちいち来る人ごとに対応していたのでは少ないスタッフや独立採算での運営であれば、いたしかたのないことではあろう。
行政側から聞いてみようと問い合わせると、そこはお役所、流石に懇切丁寧に経緯や、根本にあるのは「千代田区文化芸術基本条例」であることを説明してくれた。しかし、運営面を聞くに殆どコマンドAに丸投げのような気がしないでもない。
言葉を変えればアウトソーシングというのだろうが、練成中学の賃料を一般的価格よりも低く抑えているというだけの事らしい。後は旧校舎から交流スクェアーとして再生させる際にバリアフリー化等にかかった費用2億円の拠出があったのみで、後の企画運営すべてがコマンドAにまかされているのが現状のようだ。委託費なども一切無しである。
よって説明に要する費用として10万円という価格が出てくるのかもしれない。
何事にも明暗はつきものなのだろうが、あらゆる苦労を背負わされた形になるのではと少し危惧する気持ちも湧いた。その分、自由な裁量が出来るし、喜びも深いとは思うが。
何度か現場に足を運び、これからの展開を見守り続けたいし、俄然、わが江東区でも
実現できるものならしたいと思う。
その為にも活き活きとした、地域拠点であり続けて欲しいと心から願う。
おわりに
「前略 すべての人々が作り、品評しあう中で偉大な芸術が生み出されないというのは全くの偏見です。機会の大小が異なるだけで、そこにはやはり切磋琢磨が不可欠だからです。同時に、誰もが作り手になるということは、いい加減、勝手気儘にやればよいというのではありません。逆です。作り手と見手が交換可能である分、批評はむしろ適格且つ応酬的になるでしょう。けれども同時に、そこにはよき競争に特有な溌剌さも芽生えることでしょう。後略」
まさにこの鏑木の言葉の中に美術にとっての好ましい環境が凝縮されているように思う。
探訪したすべてのギャラリーにその要素を嗅ぎとることが出来た。
京都造形芸術大学の理念として掲げる芸術立国をもって、「戦争」 のない平和で調和にあふれた世界を実現することにもつながることだ。
当学で学ぶ至福は、まさにそれであろう。その学びをこそ、自らの足もとで幾ばくかでも種を蒔き、耕しまさに「藝」という漢字の語源に相応しい働きをしてゆけたならこれに優喜びはない。
そのきっかけを作ってくれた今回の授業はまさに千載一遇の好機をもたらしてくれた貴重な時間であった。
「アートとは、ひとりひとりの人間がいまここに存在しているという驚きそのもの。」と言う椹木の言を肝に銘じて三年間の学びを今後に活かしてゆきたいと切に願う。