○忠治の手配各所に亘る 其の壱
なを、円蔵らを召捕った、車坂(峠)は標高1970mで、アサマ2000パーク
スキー場の近くで当時は、獣道と推定される。
また、同じ様な廻状が各地に達せられたらしく、沼田市下川田にも同じ様な、
ものが村の留書に遺っている。
国定村無宿
忠次郎
日光無宿
円 蔵
赤堀無宿
相 吉
右之者召捕に付、関東御取締郷出役様より被似付四方日々
相かため供人足代其外諸入費惣乄て
金弐両参歩弐朱 弐拾壱貫四百弐文
廿四ケ封惣高割にて
此割合高壱石に付 四歩五朱
八百四拾弐文 当 村
弐貫六百七拾五文 屋形原
五貫五百七拾弐文 下川田村
四貫四拾四文 今井村
右之通糸井封名主大惣代藤右衛門殷方へ差出申候
とある。この辺も毎日人足を出して警戒に当ったことがわかり、
越後方面へ逃走する気配もあって特にこの方面心きびしく網を張ったもので
あろう。その費用は一切村方で負担したのであることもわかり、
江戸時代の矛盾した一面がよく出ている。利根郡方面への他の記録に
よると、その年の十一月になっても忠治の行衛がわからず、次ぎのような
廻状がこの方面に出されたことを白沢村の鶴渕螢光氏が報告している。
(「群馬文化」昭和三十二年三号「国定忠治召捕方の回状」)より引用
国定村無宿忠次郎其の他同類召し捕り方に付、其筋の手配
申談置渓処、今以て同人行衛不相知、尤同類之内日光無宿
円蔵差押、明十九日差立候。右ニ付最早出張致シ居り候に
者不及候間。出口々村方に而者此上精々心掛、怪敷もの者
差押置、早速可申越旨談置、手配之者者引払候様可被致候。
自分共茂明日者伊勢崎町を一ト先引払候。此書付、早
々順達無洩落夫々可被申通候。以上
寅(天保十三年)十一月十八日
午の上刻
伊勢崎町御用先
関東御取締出役
富田良之前
中山誠一郎
勢多郡 水井 輪組
利根郡 平川
右出張惣代中
迫而真順能刻付を以早々可被継立候。以上
大急、御用内申遣渓間、乍厄介、所ニ順達可被下候。以上
寅十一月二十日 卯の上刻出
輪組村出張先
太惣代 藤右衛門
日影南郷村 小松村 根利村迄
右村々 名主役人衆中様
この廻状によってもわかるように、日光の円蔵はこの以前に捕えられて
いたことがわかり、また出役の中山誠一郎と富田錠之助が、十一月十九日まで
、伊勢崎を根拠として手配の指揮をしていたことがわかる。本気で対処した
一面がよく出ている。
埼玉県秩父市立図書館の下記の記録写しにも、忠治一味の逮捕手配書がある。
元秩父市立図書館長根岸万作氏の提供によるものである。これは、すでに
田村栄太郎、三田村鳶魚の二氏も引用ずみのものである有名な文書である。
内容は、勘助殺しのあった九月八目から九日後のものであって、その点でも
価値は高い。取締出役の石井多七郎から埼玉県般若村の組合村大惣代の
藤重郎に宛てたものである。この書状の包紙には
「御圧伏写。廻章、般若村名主藤重郎、四ケ所御寄場並御村々御役人中様」
とあり、天保十三年九月廿日の条に「御取締出役石井多七郎様御用筋ニ而皆野村
綱五郎外三人罷越侯ニ付かとや角蔵方江宿申達侯。且綱五郎左之廻状持参侯付披
見之上受印いたし遺ス」と前書きがしてある。まず、石井多七郎
の指令書が最初にある。
日影南郷村 小松村 根利村
現在の群馬県沼田市利根町日影南郷、根利は、62号線が通り122号線
(東国文化歴史街道)に交わり文献に、よれば戦国時代よりあり沼田から
日光への主要道であった。現在は、日影南郷に源泉100%掛け流し天然温泉
「しゃくなげの湯」が賑い、根利は夏場、道路沿いに大根、キャベツ、
トマトの店が有り標高1000m前後で栽培される為、害虫が少なく殆ど
無農薬栽培です。価格も格外は、大根30円以下、キャベツ50円以下と破格。
また、日本100名山「皇海山」の知る人ぞ知る近道の入口ですが、猿、熊、鹿に
度々お会いします。