◎忠治 江戸へ移送
逮捕された一味は、九月二十八日に一たん玉村宿に着き、
一応の取調べの上、十月十五日に同類八人とともに、
取調べのために江戸の勘定奉行所評定所に送られたが、波志江村の
昌楽寺のハルジという女性から、大正時代に開き出した資料によると、
唐丸籠七挺に七人を入れ、一番前が右衛門、次ぎの籠が境川安五郎
、三番目が、山王氏五朗だといっていたが、これはどうも怪しい。
二人は逃亡したはずである。四番目が不明、五番目が忠治、
六番目がお徳、七番目がお町だったそうだ。
お徳、お町は、龍の籠の隙間から、天保銭を撒きながら行ったという。
罪人が唐丸籠で送られる時に、施しと罪滅びしに沿道の者に散財する
風習のあったことは、小林一茶が草津温泉紀行に、目撃した話を
書いているのでもわかる。唐丸籠の両脇には、仲間の奪還を警戒して、
数十人の捕手が堅くまもり、鉄砲を持つ者もいたという。
ハルジさんの話によると、七名の唐丸籠を見送る時にみな泪を流して
別れを借しんだという。十九日に江戸に到着し、一応牢に入れられた。
つづく