忠治 関係者の処分
此の頃世良田村に幸助、木崎宿に左三郎、馬太郎、太田宿に苫吉という
道案内がいたが、忠治が病倒して逃げ隠れ出来ない。
そのため八州様の「御手配御見遣可貰含を以て」
忠治方から国定村の次郎右衛門と八寸村の七兵衛から、
木崎宿の左三郎世良田村の幸助に九両と、世話料一両が渡された。
幸助は左三郎、馬太郎、苫吉へそれぞれ三両ずつ遺ったわけである。
しかし八州方への内頼みが出来ないうちに、忠治は召捕られてしまった。
つまり、賄賂を渡そうとしたが、間に合わず贈賄未遂で捕まったのである
しかしその代償は大きかった、処罰の結果は、まちと徳は「押込み」、
忠治が病気になった時に、賄賂を贈り見逃がしてくれるように
運勤した時に勤いた国定村の次郎右衛門と八寸村の七兵衛は
「所追放」、同じくその賄賂を受取り、木崎宿の道案内左三
郎に渡した世良田村の幸助は「過料三言文」、それを受取った道案内の
木崎宿の左三郎と馬太郎は左三郎「軽追放」、馬太郎は「江戸十里四方追放」、
忠治の妾まちを、忠治の弟友蔵の籍に入れ、また忠治が中気になった時
これを面倒見てかばった国定村の村役人であった又兵衛、助兵衛、勇右衛門、
和吉は、又兵衛「過料五貫文」に、助兵衛外三人は「過料三貫文」、
まちの兄庄八は、妹を忠治の妾としたということで
「過料三貫文」、田部井村名主西野目宇右衛門は「死罪」、
その妻ゆうと子の宇三郎は「急度お叱り」、田部井村役人の
長右衛門、平八、伝右衛門は、宇右衛門の家へ忠治を隠した
ことを知らなかったということで「急度お叱り」。
国定村の清五郎は忠治一味の博徒であり、発病した忠治を隠したこと
捕方買収などの罪で重い「遠島」(島流し)、喜代松は死後であったので、
「中追放」の執行なしとなった。
苫吉をのぞいた三人は、忠治お仕置きのあと、江戸池田播磨守から、
この年十二月二十六日に判決があって、幸助は過料銭五貫文、
左三郎は百姓の身分で軽追放田畑欠所、馬太郎は店借だったので
江戸拾里四方追放の処分になった。