○忠治ついに召捕りお縄に
嘉永三年八月二十四日、忠治の居場所がわかったので、
八州役人中山誠一郎、羽倉外記、関畝四郎が三方から忠治召捕りに向い、
結局、関畝四郎の手によって召捕られた。そのとき忠治のそばにいた
名主宇右衛門、お町、お徳、子分の清吾ら十余人を召捕ったという。
そのほか忠治の弟友蔵、安五郎、沢吉、清蔵らがいたが、
これは風をくらって逃げてしまった。・
赤城録に言う、忠治の乾分は七・八百人があり、集れと言えば、
一日に四百人の乾分が集まり、十日あれば四千人が集ったとある。
半身不随で所在はやがてお上にわかってしまう。八州役人の踏込みは眼前で、
何故この必死のときに四百人の乾分を集めて、なぜポデーガードしなかったの
であろう。
さらに四千人で忠治を守れば、八州役人といえども手の出るものではない。
赤城録を書いた羽倉外記は、一度も忠治を見ていないし、
取り調べも行なっていない。そのため世間の風聞を書き留めたのであるが、
いずれにしても一番早い忠治伝で、当時はかような文章が本当のように、
思いこまれたらしい。ただ一つ、忠治一党の処刑記録だけは、
その任務にあったので、これは信じてよいであろう。
つづく