福島大尉の幼年時代
この時代、文部省、県村などに学校設立資金は無く、その土地土地の有力者が自発的に、出資して設立された。
郵便制度と同じである。
この制度のもとに、「福甚」の全額出資により新田郡平塚村に小学校が設立されたのは、明治七年である。正式には第一大学区(栃木県管内)第四十二番中学区新田郡平塚村第三十一番小学校だった。
福島はこの小学校に入学した。学校は「福甚」の荷物小屋を改造したもので、
「福甚」と目と鼻の先の利根川べりにできた。教師は渋沢高津間で、一人だけだった。
翌年、校名は公立小学校平塚学校(平塚小学校)と改称された。世良田村尋常高等小学校の前身である。
福島はそれ以前、 隣り村の世良田村に、私塾「還水堂」があった。
福島はわずか数えで五歳で、還水堂に弟子入りした。
「福甚」から還水堂まで、幼児の足で三十分位の距離だった。福島は一人で通った。
弟子はあまりいなかった。ほとんどは大人で、そのなかで福島は、漢書素読を学んだ、
福島はつづいて、のちに小学校の教師となる平塚村の渋沢嘉津間にも師事した。
渋沢は本宮が赤城山にある赤城神社の分社の一つ、平塚村の赤城神社の神官で、
関八州では漢学者として知られていた。
福島の漢学の素養は、渋沢嘉津間に師事することによって、基礎がかたちづくられたといっていい。福島はこの師から、
四書五経の素読を学んで、著名な漢詩の清書や吟詠も
教わっていた。
このように福島は小学校が出来るよりも前に、まだ数え五歳から二人の師に学び、
学問に目を開き、漢学の基礎を身につけていた。小学校で学ぶようになってからも、
一人で渋沢嘉津間のもとに通い続けた、
後年、福島は多くの漢詩を遺しているが、このころ培われたものなのである。
現代の 数え五歳は何を学んでいるのだろうか?
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