映画「八甲田山」
雪中行軍随行大隊本部
山田少佐(第2大隊長):三國連太郎
隊の指揮系統を乱し、結果的に大量遭難の原因を作ることになる悪役。
倉田大尉:加山雄三
沖津大尉:玉川伊佐男
永野軍医:竜崎勝
田村見習士官:日和田春生
井上見習士官:仲野裕
進藤特務曹長:江角英明
今西特務曹長:井上博一
雪中行軍隊の家族・親族
神田はつ子(神田大尉の妻):栗原小巻
徳島妙子(徳島大尉の妻):加賀まりこ
斉藤伍長の伯母:菅井きん
少年時代の徳島:石井明人
案内人たち
滝口さわ(宇樽部村):秋吉久美子
沢中吉平(熊ノ沢):山谷初男
福沢鉄太郎(熊ノ沢):丹古母鬼馬二
沢田留吉(熊ノ沢):青木卓
大原寅助(熊ノ沢):永妻旭
その他
作右衛門(田茂木野村・村長):加藤嘉
滝口伝蔵(宇樽部村):花沢徳衛
鈴木貞雄(三本木の宿の主人):田崎潤
中里村の老人:浜村純
西海勇次郎(東奥日報記者):船橋三郎
興行収入 25億900万円 (1977年邦画配給収入1位)
《キャメラマン・木村大作の話》
「高倉健を呼んでこい」
一九三九年東京生まれ。
日本を代表する映画キャメラマン。五八年東宝撮影部にキャメラ助手として入社。
黒沢明作品で仕事を学び、七三年の「野獣狩り」から撮影監督。
高倉健とは『八甲田山』以降、多くの作品で一緒に仕事をしている。
因みに、長望遠のロングカット及びバストアップのキャメラワークが
黒沢監督作品及び、高倉健主演作品に、高い職人技を駆使していたが、
何故か2000年前後から、その職人技が自らの監督作品も含め少なくなっているのが、
私自身は寂しい。
『八甲田山』の撮影に入ったとき僕は三五歳で、終わったときには三八になっていた。
三年の間、あの一本にかけたんだ。キャメラマンとして世に出たいと……。
それで頑張ったんだ。自分でもよくやったと思う。もうあんな映画は二度と作れない。
雪のシーンなんか蔵王のスキー場の脇でも撮れるのに、
結局は実際の場所で撮ることになった。
あんまり過酷な撮影だったから脱走兵まで出たんだ。エキストラとして東京の劇団
から若手を三〇入くらい呼んだんだが、彼らが着ていたのは明治時代の軍服に、革靴でしょう。
よほど寒くて辛かったんだな。ある日、七~八人が逃げて戻ってこなくなった。
これはまずいと次の日から、脱走兵を見張る投まで作ったんだから。
健さんと言葉を交わすようになったのもあの苦しい仕事があったからだよ。
でも、あの頃の僕は映画に狂って働いてたから、しょっちゅう怒鳴りまくってた。
俳優さんの体を気づかうより、とにかくいい絵を撮りたいという一心で、
キャメラを回してた。
『八甲田山』のなかで、大ロングのカットがあったんだ。
キャメラをかまえていたところから健さんたちの隊が行進する場所まで歩いて三〇分くらいかかる。
僕としては晴れ渡った岩木山を中心に撮って、山裾のほうをちょこちょこと兵隊たちが動いていればいい、と、
そんな絵を想像した。僕のプランを間いた健さんは、
「ここまでロングの撮影なら棒を立てて、そこに帽子をかけとけばいいんじやないか」と、
笑いながら呟いた…・…
そう助監督から伝えられたのだけれど、僕は本人に歩いて頂かなくては、
他の俳優たちの演技にしまりがなくなると思った。それで、そんな早朝に山裾を、
歩くだけの撮影に三日間心底かけたんだ。終わった時に、
健さんの処まで走っていって、はあはあ言いながら「ありがとうございました」と
頭を下げたら、「木村さん、ぼんとに、これですべて終わりましたね」と念を押しながら苦笑されました。
もう一つあるんですよ。その次の日だったかなあ、健さんが先頭で歩くシーンと、
岩木山を狙うショットを撮らなぎやならなかった。山の天気だから晴れてる時間が短い。
雲が切れて太陽が顔を出しやっといい具合に山肌が見えた瞬間がきた。ところが、
健さんのメイクに時問がかかって、なかなか現れない。
「俺は山を撮りたいんだ。高倉健のメイクなんかどうでもいいから、早く呼んでこい」
まわりの奴に活を入れるつもりで、助監督にそう怨鴫ったんだよ。
あくまでもパフォーマンスだよ、本気じゃ無い。そしたら、なんとオレの言葉を健さんに
そのまま正確に伝えた奴がいてさ。内心、どうしようと思った。
すると、なぜかすぐに健さんか現場に現れたんだよ。
それで山のほうを見て、
「あっ、木村さん、これは僕の顔より山のほうかほるかに綺麗ですね」って言ったんだ。
それだけは覚えてる。
私自身も、この映画ほど、何度も何度も繰り返し観て泪した、
今後は二度と其れは無いだろう。
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