エッセイ集『あなたに褒められたくて』(集英社文庫)より一部引用
「日本文芸大賞エッセイ賞を受賞」
生まれ育ったのは筑豊炭鉱の近くで、炭鉱で働く人たちは、一日々
命を懸けて働いている為か、喧嘩、殺人が日常茶飯事の所であったが、
後にそのことが「任侠シリーズ」見事に生かされて、一躍、日本を代表する
俳優になった。
東筑中学の二年生のとき、アメリカは米軍と友に洋画が入ってきて、
映画は、ヴィヅィアン・リーやヘンリー・フオンダに憧れて。
スポーツはボクシングに夢中になり それは単なる憧れを通り越して、
学校にかけ合ってボクシング部を創立するところまでいった。
フェザ級の選手として六戦一敗の成績を残したまた英語クラブも創り
ボクシングが縁で、小倉駐在の司令官の息子と友達になった。週末のたびに彼の家へ遊びに行ったりして、
英語が堪能になった、また同窓生に敷田稔さんはがいた。
「敷田稔さんは、法政大学二年で司法試験に合格、検事正、最高検察庁検事や
法務省矯正局長を歴任した後、国際検察官協会(IAP)の副会長をはじめ、
国連犯罪防止世界会議の日本代表団特別顧問などを歴任」
祖先は鎌倉時代の執権北条家の一門である名越氏の一族・刈田式部大夫と言われた
北条篤時で、篤時の子孫が西国に移り、大内氏に仕えた後に北九州へ向かった。
当地で北条の名を捨て『小松屋』の屋号で
両替商を営み、後に筑前国藩主黒田家から名字帯刀を許されて小田姓を
名乗るようになった。江戸時代末期に『東路日記』を記した、
筑前国の庄屋の内儀・小田宅子(おだいえこ)は先祖にあたる。
小田宅子は、親しい歌仲間三名と誘い合わせて、東国への旅に出た。
まず船で大阪、堺まで行き、奈良を経て伊勢神宮へ詣でる。その後、
名古屋から中仙道をとって、木曽路を越えて善光寺にお詣りし、さらに妙義山から日光を回り、
江戸を経て、再び善光寺へお詣りして、六月十目故郷へ帰る。
日数にして約百五十日、延々八百里を何人かの供をつれた中年の主婦が
旅を続け、そしてこの旅から十年ほどのち、「東路日記」を完成させた方である。
墓碑銘にあるように、宅子は天性美貌の持主であった。
元来「小松屋」は代々美人の家系らしく、この地方の踊り歌の中には
「小松屋」の娘たちを唄ったものがあったとは底井野の小休英一氏の言である。
宅子の写真も、肖像画も残されていない今、宅子の美貌を
しのぶ手だては、「若くして」容姿艶麗 而して和歌を能くす」と書かれた墓碑銘、
それと土地の盆踊り唄に求めるしかない。
以上のことが、高倉 健 (たかくら けん、1931年2月16日 - )
俳優・エッセイスト、歌手。本名 : 小田 剛一 (おだ ごういち)の
今日の姿を残したのかもしれない。
一方の福島泰蔵の方は、調べると八甲田山雪中行軍を成功させた人物ということですから、高倉健が演じた主人公でした。(^_^;)
『八甲田山死の彷徨』新田次郎著を読み、映画『八甲田山』を観ましたが、福島のフルネームまでは記憶してなかったので、
分かり難かったです。
> 権力者は、常に己を保持する為に、罪のない人々の命を弄んで喜ぶようですが、?歴史上独裁者の末路は常に悲惨で終わります。
昨晩に、北独裁者の兄を暗殺というニュースが飛び込みました。 己の末期を象徴する暗黒劇ですね。
高倉健さんは、福島泰蔵の墓を訪れて花を手向けた様ですが、地元の方は、高倉健さんが来たとは思わず後日、大騒ぎになりました。