アラ還のズボラ菜園日記  

何と無く自分を偉い人様に 思いていたが 子供なりかかな?

真説 国定忠治 平成弐拾八年 其の五

2016年08月23日 | 近世の歴史の裏側

水戸浪士反乱と高崎藩の出兵

元治元年(1864)二月二十七日 内紛に揺れる水戸藩では田丸稲之衛門を総帥に、

藤田小四郎ら脱藩百数十人の浪士が筑波山中腹の護持院に挙兵した 

六月十一日 幕府は高崎藩に水戸浪士を追討するよう出兵を命じた 

藩は止もなく六月二十三日、八百七十人の一番隊 二十五日に二百十人の二番隊が

野州(栃木県)に向かって出撃した。

藩主松平輝照を迎えて高崎城中で行われた部隊編制と結団式に高崎藩主祈願寺の

清水寺現職田村仙岳は「武運長久 勝利祈願」の守護札を用意 持参して出陣藩士

一人一人に配布した。 

ところが七月八日下野国下妻田町雲充寺に宿営していた高崎藩兵は、

藤田小四郎指揮下の浪士の急襲を受けて あわてふためき武器、弾薬等装備の荷物を

置き去りにしたまま遁走した。

この不様な敗走ぶりを見た人々は 「右京様(高崎藩主)は卑怯者」」と皮肉った。 

下妻雲充寺に残して来た武器、弾薬は高崎藩にとって敵の手にでも渡ったら

恥の上塗りである。

これを何とか取り返し 高崎まで持ち帰りたいと考えた。

武装した藩士では水戸浪士に見破られるということで、名乗りを上げたのが清水寺住職

田村仙岳と城下書肆店主沢本某である。

人足を引き連れて、非戦闘員を称して野州下妻まで行き、武器i弾薬その他を収容し

高崎まで運搬した。

高崎藩内における伯岳の覚えはますます高くなり 藩主輝馨の厚い信任を得る事と為った

のである。

                   つづく



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