2015年5月21日(木)
今日は、今月のエッセイの例会で合評された作品。今回は、テーマが「別れ」でした。
もう、季節に合わないけれど・・・。(文中仮名)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「年賀状」
娘一家も引き上げ、静かになった居間で、私は、ざっと目を通しておいた今年の年賀状を読み直した。
すると、夫が生きていた頃のどっさりとした厚い束にはとうてい及ばないが、親戚を入れてのこの数十枚が、
今の私に残された縁の束かという気がしてくる。甥や姪たちからの賀状は、子供たちの
写真入りだから、年々大きくなる様子を楽しませてもらえる。学生時代の友人たちからは、「親が……」
「体調が……」といった一筆が添えられ、「同じ、同じ」と、自分の身に重なってくる。
おや?今年は、西先輩からの年賀状が無い。
西先輩は、大学のゼミや研究会の先輩だったから、思えば何十年のやりとりになるだろうか・・。
憧れの先輩だったら、かえって近づけなかったろうが、西先輩は、小太りでいつもにこにこしている
頼りになるお兄さんという感じだったので、私を入れて三人くらいの後輩が懐いていた。
ゼミのレポートの話、先生たちの裏話、就職の話、そして、飲み会や合宿と、おしゃべりをして過ごした
思い出の中で、一番の記憶にあるのは、生粋の江戸っ子だった先輩が、「ひ」と「し」の発音の区別が付かなかったこと。
実は、私も子供の頃、「しおひがり」なのか「ひおしがり」なのか、良く分からなかった。
きっと、周りの大人の発音が混乱していたのではなかったかと思う。なので、飲み会などで、他の先輩たちに、
「西、ちょっと、しおひがりって、言ってみろよ」と、言われ、赤くなった顔で、
「ひおし……、ひおし……」と、言いながら、自分で笑い出す西先輩に親近感を持っていたのだ。
先輩は大学院へ進んだので、私が卒業するまで、学内でも時々顔を会わせていた。その頃から、私は、
先輩に年賀状を出していたように思う。卒業後も、年に一度の近況報告を続け、結婚したこと、子供が生まれたこと、
引越しをしたことを伝え、先輩の年賀状には、高校教師になったこと、結婚したこと、下町から東京の郊外に
引越したことなどが綴られていた。なまじ恋愛感情などなかったおかげで、二十歳前後の熱い時代を共にした
先輩後輩としてその後は淡々と、年賀状の交換が続けられたのだろう。
その間、先輩に直接会ったのは、ゼミの先生の退官記念パーティと、ゼミの先生が亡くなられた後の偲ぶ会くらいだった。
背広姿の先輩は、変らぬお顔、変らぬ体型で、
「奥さんが大学教授になっちゃって、収入でも、業績でも、年でも、なんにも勝てない」
と、カラカラ笑って、私は、笑い方も変らないなと思った。
十年ほど前からか、先輩は社交ダンスを始めたそうで、それからは、ダンスの話を年賀状に書き込みあっていた。
多分、もうお会いする事も無いと思うけれど、先輩からの年賀状は、私の学生時代の余韻のようで、年の初めに、
「あれから、お互い、生きてきましたよねえ」と、肯く便りとなっていた。
その先輩からの年賀状が、来なかったということは……?
去年の暮に、ダンスの友人が、
「古希をきっかけに、賀状を失礼することにしました」
と、言いだした。西先輩もそんな気持ちになったのかもしれない。
人間関係の断捨離とばかり、私との細い糸もプツンと切ってしまったのだろうか。
手元の年賀状をぱらぱらと広げてみれば、もう何十年も、互いの近況を一方的に書きあう、会話になっていない
やりとりが続けられてきたとも見える。漆作家となった娘さんの作品の写真を載せたこの年賀状も、
返事を書くという律儀さで繋がっていたから、楽しめるともいえる。
ご縁の賞味期限って、いつまでなんだろう?
頂いた年賀状に心が動かされなくなったころなんだろうか……。
それでも、今年年賀状を頂いて、来年、こちらから出さないのも、いかがなものか……。
西先輩からは、その後、寒中見舞いが届いた。奥様のお母様が亡くなられたとのこと。
でも、喪中欠礼の挨拶状は頂いていなかったから、私の年賀状に、慌ててお返事を下さったのかな。
年賀状の止め時が目の前にぶら下がったような、それから目を反らしたいような気分で、
私は、その寒中見舞いを今年の年賀状の束の上にそっと置いた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
当日は、みなさんも心当たりのある状況のような感想をいただきました。
今日は、洋裁教室。Y子さんから、台湾旅行のお土産のハスの実をみんなでいただいたわ。
Y子さんは、箱のハスの実の写真と、実物を見比べて、「だいぶ違うね~」と、言うので、
頷いてしまいました・・。(^^;)
美味しかったよ・・。
今日は、今月のエッセイの例会で合評された作品。今回は、テーマが「別れ」でした。
もう、季節に合わないけれど・・・。(文中仮名)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「年賀状」
娘一家も引き上げ、静かになった居間で、私は、ざっと目を通しておいた今年の年賀状を読み直した。
すると、夫が生きていた頃のどっさりとした厚い束にはとうてい及ばないが、親戚を入れてのこの数十枚が、
今の私に残された縁の束かという気がしてくる。甥や姪たちからの賀状は、子供たちの
写真入りだから、年々大きくなる様子を楽しませてもらえる。学生時代の友人たちからは、「親が……」
「体調が……」といった一筆が添えられ、「同じ、同じ」と、自分の身に重なってくる。
おや?今年は、西先輩からの年賀状が無い。
西先輩は、大学のゼミや研究会の先輩だったから、思えば何十年のやりとりになるだろうか・・。
憧れの先輩だったら、かえって近づけなかったろうが、西先輩は、小太りでいつもにこにこしている
頼りになるお兄さんという感じだったので、私を入れて三人くらいの後輩が懐いていた。
ゼミのレポートの話、先生たちの裏話、就職の話、そして、飲み会や合宿と、おしゃべりをして過ごした
思い出の中で、一番の記憶にあるのは、生粋の江戸っ子だった先輩が、「ひ」と「し」の発音の区別が付かなかったこと。
実は、私も子供の頃、「しおひがり」なのか「ひおしがり」なのか、良く分からなかった。
きっと、周りの大人の発音が混乱していたのではなかったかと思う。なので、飲み会などで、他の先輩たちに、
「西、ちょっと、しおひがりって、言ってみろよ」と、言われ、赤くなった顔で、
「ひおし……、ひおし……」と、言いながら、自分で笑い出す西先輩に親近感を持っていたのだ。
先輩は大学院へ進んだので、私が卒業するまで、学内でも時々顔を会わせていた。その頃から、私は、
先輩に年賀状を出していたように思う。卒業後も、年に一度の近況報告を続け、結婚したこと、子供が生まれたこと、
引越しをしたことを伝え、先輩の年賀状には、高校教師になったこと、結婚したこと、下町から東京の郊外に
引越したことなどが綴られていた。なまじ恋愛感情などなかったおかげで、二十歳前後の熱い時代を共にした
先輩後輩としてその後は淡々と、年賀状の交換が続けられたのだろう。
その間、先輩に直接会ったのは、ゼミの先生の退官記念パーティと、ゼミの先生が亡くなられた後の偲ぶ会くらいだった。
背広姿の先輩は、変らぬお顔、変らぬ体型で、
「奥さんが大学教授になっちゃって、収入でも、業績でも、年でも、なんにも勝てない」
と、カラカラ笑って、私は、笑い方も変らないなと思った。
十年ほど前からか、先輩は社交ダンスを始めたそうで、それからは、ダンスの話を年賀状に書き込みあっていた。
多分、もうお会いする事も無いと思うけれど、先輩からの年賀状は、私の学生時代の余韻のようで、年の初めに、
「あれから、お互い、生きてきましたよねえ」と、肯く便りとなっていた。
その先輩からの年賀状が、来なかったということは……?
去年の暮に、ダンスの友人が、
「古希をきっかけに、賀状を失礼することにしました」
と、言いだした。西先輩もそんな気持ちになったのかもしれない。
人間関係の断捨離とばかり、私との細い糸もプツンと切ってしまったのだろうか。
手元の年賀状をぱらぱらと広げてみれば、もう何十年も、互いの近況を一方的に書きあう、会話になっていない
やりとりが続けられてきたとも見える。漆作家となった娘さんの作品の写真を載せたこの年賀状も、
返事を書くという律儀さで繋がっていたから、楽しめるともいえる。
ご縁の賞味期限って、いつまでなんだろう?
頂いた年賀状に心が動かされなくなったころなんだろうか……。
それでも、今年年賀状を頂いて、来年、こちらから出さないのも、いかがなものか……。
西先輩からは、その後、寒中見舞いが届いた。奥様のお母様が亡くなられたとのこと。
でも、喪中欠礼の挨拶状は頂いていなかったから、私の年賀状に、慌ててお返事を下さったのかな。
年賀状の止め時が目の前にぶら下がったような、それから目を反らしたいような気分で、
私は、その寒中見舞いを今年の年賀状の束の上にそっと置いた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
当日は、みなさんも心当たりのある状況のような感想をいただきました。
今日は、洋裁教室。Y子さんから、台湾旅行のお土産のハスの実をみんなでいただいたわ。
Y子さんは、箱のハスの実の写真と、実物を見比べて、「だいぶ違うね~」と、言うので、
頷いてしまいました・・。(^^;)
美味しかったよ・・。