「絶対に大麻をやってない」のだとしたら、心当たりを聞いてみてはいかがだろう。逆にあの人には「大麻をやったの?」とちゃんと聞いた方が良い気がする。
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ぼんやりと思ったのだが、僕はオーストラリア旅行記を書いたのを始めに、かれこれ10年以上ネットで何かを書いている。いつまでこういったことを続けるのかは分からないが、20年経ち30年経ち50年経った頃、僕はもうこの世にいないかも知れないが、文章は残り続けるだろう。
現在でもすでに
南条あやの保健室とか故人のページになってしまっているものもある。このページは「このページの作者は亡くなっている」という認識で読者は文章を読むが、一般的なページを読む時は、当然、書いている人は生きていると思っている。現在は。
しかしこれが50年後になると見かたが変わるのではなかろうか。例えば2050年に2020年に書かれたブログを見る。このブログの作者は2020年に書くのを止めたのか、亡くなったのかどちらだろう。そういう見かたが普通になると思う。
たまに考えるのだが、人の生き死にはどこにラインがあるのだろうか。当事者視点だと簡単な話で、心臓が止まったり、脳死状態になったり、過去の記憶を辿れなくなったり…などが考えられるが、第三者から見た場合の死は、いまの考えにプラスアルファが存在する。
故人の形見があることによって、心の中に故人を蘇らせることができたり、日記などを読んで、生きていた時には分からなかった故人の新しい考えや思いを知ることができたりする。その状態は第三者にとっては生きていると言える状態ではなかろうか。その人が生きていた痕跡に触れると言うことは、故人を蘇らせる(心に)ことにはなりそうだ。そうなると「モーツァルトは今でも人々の心の中で生き続けている」なんて聞いたりしても大きく頷ける。
逆に第三者から見ても死んでいる状態と言うのは、生きていた痕跡が一切ない状態をさすのだろう。そう考えると死後100年経っても生きている人と言うのは偉人奇人極悪人などの普通じゃなかった人たちで、日々慎ましやかに生きていた人たちと言うのは死んでしまったと言うことになる。しかしこれからは無名人であっても、インターネットに痕跡を残す人が大勢いることだろう。
もし2100年に生を受けている人が僕の文章を読んで、何かを思ってくれると大変うれしい。