**6月 1日 黒岩涙香の作品の17作目「人外境(にんがいきょう)」を現代文に直したものの連載第50回までを掲載しました。
**新聞「萬朝報」に明治29年(1896年)3月 7日から明治30年(1897年)2月26日まで連載されたもので、作者 アドルフ・ペローの「黒きビーナス」の訳です。
**例によって登場人物は日本人の名前に成って居ます。
**原文が難しい漢字や漢字の当て字を多く使っていること、旧仮名表記なので、現在の漢字や仮名表記に直しました。
**難しい漢字の熟語は読みずらいかも知れませんが、文中に()と《》で読みと意味を記しました。
**人外境(にんがいきょう)のあらすじ (6)
**スーダンのハルツームに着いた芽蘭(ゲラン)夫人はここで色々な人と会い、芽蘭(ゲラン)男爵についての情報集めていた。
**一方茂林と平洲はそれぞれ、芽蘭夫人から声が掛からなくなっていたことに不信感を持って居た。
**芽蘭夫人はアフリカ内地のモンパト地方出身の黒人から芽蘭男爵の手紙を受け取っていた。 **その手紙は芽蘭男爵が1872年にボンゴーの先のモンパト地方で書いた手紙だった。 **芽蘭夫人は今まで、芽蘭男爵が1871年10月にボンゴーという所で亡くなったという知らせを信じていたのだった。 **芽蘭夫人は、アフリカに芽蘭男爵の墓参りに行った後、茂林、平洲両人のどちらかを夫にすると約束をして二人を同行させていたのだ。 **芽蘭男爵がアフリカで今も生きて居ると信じた芽蘭夫人は、結果的に茂林と平洲を騙してアフリカに連れて来た事に成ったのを悩んで、二人をどうしようかと迷って疎遠にしていたのだ。 **芽蘭夫人は芽蘭男爵が生きて居るので、茂林、平洲どちらかの妻に成るという約束が果たせなくなったので、二人にフランスに帰ってくれと言い渡した。 **この「人外境」の話が荒唐無稽な話に思えたので、話の信憑性を確かめるため、リビングストンの「リビングストン探検記」やスタンレーの「暗黒大陸」を読んで見た。リビングストンの探険は1850年代、スタンレーのアフリカ探検は1870年代だった。この「人外境」がかかれたのが1890年代で、小説なので創作した部分も多いと思われるが、「人外境」に書れを連れったているアフリカの実態は「リビングストン探検記」、スタンレーの「暗黒大陸」に書かれている事とあまり変わっていなかった。
155回と長い小説だが1850年代のアフリカの様子が分かる話なので、コロナ騒動で外出自粛とも相まって訳す事にした。
1850年代のアフリカはこれくらいの理解度だったのかと再認識した。
今から150年前のアフリカはこんなだったのかと思う事ばかりだった。
黒岩涙香の「人外境」を読む方は下の
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直接「トシのウォーキング&晴耕雨読」の「人外境」に入る方は、下の青文字「人外境」からお入りください。
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他に、鉄仮面、巌窟王、ああ無情など黒岩涙香の16作品を掲載しています。コロナウェルスで図書館も閉館に成って居ます。ぜひこの際、黒岩涙香の作品を読んで見て下さい。
まだ、噫無情(ああむじょう)を「銀の皿」を盗む話だと思って居る方はぜひ下の青文字「ああ無情」クリックし、お読みください。
今、毎週日曜日の夜、11時からNHKで「レ・ミゼラブル」を放映して居ますが、黒岩涙香のこの「ああ無情」を読んだ方が、映像で見るよりももっと情景が鮮明に目に浮かんで来ます。黒岩涙香の文章の描写力のすごさを感じます。
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