中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

インド独立の父ガンジーの墓―ラージガート(インド紀行 最終章)

2025年03月06日 04時38分59秒 | インド紀行(生きるを訪ねて)
(これは2006/03/ に作成した記事であることを
               頭に入れてお読みください。)


(インド独立の父 ガンジーの墓=ラージガート)

ネパールはインドと違って、
街の雰囲気ががらりと変わると、前回書いた。
お釈迦様の生誕地として、観光地であるのに、
しつこい物売りに悩まされないし、
物乞いにも出会わなかった。

第一国境を越えて入国するのにごく簡単に終わったことだ。
検査官がバスに乗り込み、
ひとりひとり眺め回してパスポートを預かっていき、
検印してすぐ返してくれた。
観光客はバスに座ったままですんだ。
観光地であるから、みやげ物やがずらりと並んでいるが、
しつこく買ってくれと、付きまとわない。

公衆便所を使ったが、
出口にチップを入れる箱が置いてあり、
その中に0.2ルピー入れれば事は足りる。

その箱の前には、トイレ掃除をする子ずれの女が、
一人が用を足すたびに、トイレ掃除をするのである。
この仕事で給料を貰っているのか知れないが、
用を足し出てきた人にチップを要求して手を出すわけでもない。
インドとは様子が違っていた。


(トイレ前の子供)

英国植民地から独立を果たしたインドを、
マハトマ・ガンジーを差し置いて語ることは出来ない。
今、世界で民族が独立を果たそうとすると
血みどろの戦いが想像される。
インドの独立を勝ち取ったガンジーは、
ハンガーストライキを実行して、
(水は補給したが、絶食ストライキを決行)
無血で英国からの独立を成し遂げた。


(ガンジーと九人の弟子たち像)

インド独立の父としてインド人から尊敬を集めている。
「インドが誇る偉人です。」と
ガイドさんは本当に誇らしげに胸をたたいた。

ボクが
「世界の偉人ですよ」
とヤジを入れると、

ガイドさんは照れ笑いしたのが印象に残っている。
続けて「ガンジーはノーベル平和賞を貰いました?」と聞いたら、
ガイドさんから「貰っていない」と首を振った。

ガンジーほどの偉人がノーベル賞を貰っていないのは不思議で、
後で調べてみると、
ノーベル賞の受賞を三回も断っていることがわかった。

どこかの国で、「○○○ー森」とかの小説で
ノーベル賞の時期が来ると、
こんどこそ自分が受賞するとばかり、
衣装まで取り寄せて待っていた人とは
(これはこれで立派な人であるが)
やはり人格が違うように思える。

もともとヒンズー教が圧倒的多数のインドでは、
死後は火葬されガンジス川に流されるため、
お墓が見当たらない。
(仏教徒のお墓はあるが、仏教徒は全人口の2%に過ぎないというから、
 ほとんどないに等しい)

しかし、皇帝や王様などの墓は、記念碑として残されるという。
デリーの中にある広大な公園の一角に
ガンジーの記念碑はある。


(ガンジーの記念碑があるラージガート)


(ガンジーの墓)

広場の中央にある四角の記念碑は、
中央から途絶えることのない火が灯し続けられ、
ガンジーの業績が輝き照らし出されている。
ガンジーを慕う人々が絶え間なく訪れ、
手を合わせて帰っていく。


(ガンジーの墓を訪ねるインド人の流れは絶えない/ボクのビデオから)

記念碑の前で写真を撮っているのは、
観光客ぐらいしかいない。

この公園に来てから気づいたのは、
あれだけしつこく付きまとった物乞いや
物売りが見当たらなくなったことである。

どうしてであろうか?
ガンジーの偉業をたたえる場所には、
物売りも物乞いも偉大な功績に圧倒されて、
手出しするのに尻込みしているのであろうか?
立ち入り禁止のお触れでも出ているのだろうか?

不思議である。

この旅は、
玄奘三蔵を偲び、
釈尊を偲び、
ガンジーを偲び、
毎日をどのように生き延びようかと
必死にもがくインド人を偲び、
わが身になぞらえて、
「生きる」を訪ねる旅になった。

(シバ神像)

(なお、ヒンズー教の神様、
シバ神像の石像をご覧になりたい方は、
東京都港区新橋にある松岡美術館を紹介します。
数点のシバ神像の石像をご覧いただけます。
シバ神像が手にもつゴム印のようなものは、
下部の板の部分は女性性器を現し、
柄の部分は男性性器を表現しているといいます。
美術館でシバ神像をよくよく見ると、
女性の裸身を抱き、
時には左手で乳房を持つエロティックなものもあります。
性行為を神聖なものとして表現、
あるいは子孫繁栄を願う霊験あらたかな
神様として表現したのか。それは皆さんが決めて下さい。)

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生きるを訪ねて(インド紀行12)

2025年03月04日 05時15分11秒 | インド紀行(生きるを訪ねて)
(これは2006/03/ に作成した記事であることを
               頭に入れてお読みください。)


(釈迦 生誕地 ネパールのルンビニ)

(釈迦生誕の地 ネパールのルンビニ)
毎年春になると四月八日の花祭りの時期が来る。
子供のころ、悪がきが少しは精神修養になるだろうと
通わされた日曜学校でも、
このときはお釈迦様の像の足元に花飾りでびっしり埋めて、
頭からお茶をかけるお祝いをした。
黄金のお釈迦様像は、片方の手を天に向け、
一方の手で地面を指している。
釈迦生誕後すぐ歩き「天上天下唯我独尊」と言ったといわれる。
その姿である。


(生まれた直後の像)

そのお釈迦様が生まれた地が、
ネパールのルンビニというところである。
訪問の順序が逆であるが、
この旅の最後の訪問地が釈迦の生誕地となった。
インド国境からネパールに入るのであるが、
街の雰囲気ががらりと変わる。

インドでは沢山の人がうようよしており、
生活のために右往左往して、落ち着きがなかったが、
国境を越えてネパールに入ると、人の数が格段に減り、
人々も落ち着いてゆったりした行動をとっているように思えた。

史跡は大きな建物で覆われ、
室内に入ると日干し煉瓦の土台跡が見渡され、
その一角に生まれてすぐ歩いたという、
子供の足跡がガラス箱に囲まれて展示されていた。
この場所にお釈迦様が立ち、
天と地を指差して「天上天下唯我独尊」といったというが、
にわかには信じられない。


(生誕直後の足跡)

「天上天下唯我独尊」というと、
その解釈をこの何十年もの間、

「この世で我のみが、もっとも尊い人間だ」

という意味だと思っていた。

しかし、仏教学者のガイドさんの解説に寄れば、
「この世で、われわれ人間はそれぞれお互いに、
かけがえのない尊い存在である」と言う

人間の尊厳を表したものであるという。

考えてみれば、お釈迦様として後世に残る教えを説いた人が、
「俺が一番偉い」なんて云う訳が無い。

ガイドさんの言うとおりだと思った。


外に出ると空は晴れ渡り、
東のはるかかなたには、世界の屋根といわれるヒマラヤ山脈が、
冷厳な白い姿を見せている。
釈迦が生まれた建物の回りに聳える巨大な菩提樹の葉陰で、
修行僧が瞑目し、赤い僧服を身にまとい、
一心に読経していたのがとても印象的であった。


(巨大な菩提樹)


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祇園精舎(インド紀行11)

2025年03月01日 04時20分07秒 | インド紀行(生きるを訪ねて)
(これは2006/03/ に作成した記事であることを
               頭に入れてお読みください。)


(祇園精舎の鐘)
平家物語の冒頭、
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり...」の
祇園精舎は、

釈迦が説法を行ったところで、
ここで釈迦は24回の雨季を過ごしたとの説明を受ける。

インドで雨季とは年間何回あるのであろうか?
年に一回であれば24年いたことになるが...
今は、綺麗に整備された公園の中に、
祇園精舎の跡が残っているが、仏教徒の聖地として、
信者の訪問が絶えない。


(祇園精舎の跡/ボクのビデオから)

(祇園精舎、釈迦が説法をした中壇)

バラやそのほかの花びらが、
祇園精舎のレンガの上に敷き詰められて、
足の踏み場もない。
この日も、沢山の仏教徒や修行僧の訪問があり、
干からびた花びらは、
捨てられ新しい花びらが敷き詰められていく。
橙色の花びら、赤い花びらがびっしりと敷いてあり、
神聖な場所のイメージを強く感じる。


(釈迦が説法したバラの花を敷き詰めた祇園精舎の最上段)

後方に、途中まで発掘した祇園精舎が続くが、
これは関西大学の教授が、
これ以上発掘しても意味がないと止めたという。
広大な敷地を掘り進めれば、
まだまだ広がりを見せることを容易に想像できる。


(掘り進めて広すぎたため止めた祇園精舎の跡)

しかし、日本人には有名な祇園精舎の鐘は、
見渡しても見当たらない。
祇園精舎の跡地に立てば、どこかから聞こえてきそうに思える。
祇園精舎を後にして帰路に向かう途中、
ちょっとした林の中にその鐘はあった。



(祇園精舎の鐘)

観光バスを止め、
鐘楼まで数十メートルの脇道を入ったところにそれはあった。
この鐘は祇園精舎の鐘ではあるが、
昔のものを再現したものでなく、何のことはない、
平家物語の冒頭にある文章に魅せられた経済大国の小金持ちが、
やむにやまれず、寄付した鐘であるということであった。


(鐘を突きに集まる人達)

それにしても、やはり日本人ツアー客は競って、
その鐘を鳴らしに鐘楼を昇ったのは云うまでもない。
もちろんボクも鐘を突きに鐘楼を昇った一人である。

ご~~~んんんん~~~~!

夕暮れの平原に響き渡る鐘の音は、
寂しい「諸行無常」の響きが伝わっていた。



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釈迦入滅の地クシナガルと沙羅双樹(インド紀行10)

2025年02月27日 04時25分20秒 | インド紀行(生きるを訪ねて)
(これは2006/03/ に作成した記事であることを
               頭に入れてお読みください。)



(釈迦入滅の地クシナガルと沙羅双樹)

平家物語の出だし、

「―――沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす...」

は有名であるが、
この沙羅双樹というのはシャラの木をさし、
夏ツバキの別名。
夏の時期に、沢山の美しい白い花をつけ、
見事に咲いたかと思うと、
椿の花のようにぽとりと、
あっけなく花が落ちる。
沢山咲いて、またたく間に沢山落ちていくので、
木の根元に雪が積もったように白く見える。

この様子をさして、
「盛者必衰の理をあらわす」と述べたに違いない。
なるほど、「おごれるもの久しからず」である。

このシャラの木が二本、
釈迦が入滅した場所の両側に植わっていたという。
そのためであろう、
日本では寺院の本堂の入り口の左右に植えられていることが多い。
つまり本堂は極楽浄土を意味し、
その入り口には沙羅双樹が植えられているということになる。


(ニルバーナ寺院)

最近、会社の正門前の左右に、
このシャラの木が植えられているのを見かけるが、
(神聖なる場所に入る)を意味しているのであろうか?

さて、副題に(釈迦入滅の地)と書いた。

この文字をはじめて見たとき、
「入滅」とはどんな意味なのか疑問を持ったが、
そのままにしておいた所、

今度は、「釈迦が涅槃に入った...」
という文章に出会った。

入滅」も「涅槃に入る」も同じ意味と思った。

普通の言葉に直せば、
「死亡」の難しい表現であろう事は推測できたが、
どうもスッキリしない。
そこで今回初めて辞書を引き、はっきりさせることにした。

広辞苑(第四版)によれば、
【涅槃=(梵語)ニルヴァーナ
   =吹き消すこと、消滅の意。
   ・煩悩を断じて絶対自由となった状態。
   ・仏教における悟り。
   ・入滅。
   ・ブッダまたは聖者の死。

「入滅」=涅槃に入ること。
     釈尊の死。
 広くは高僧の死をいう。】とある。

つまり涅槃も入滅も同じ意味を持っているということが判った。
普通の人間なら「死亡」ということである。
クシナガルの地に釈迦が死んだ場所があり、
そこをニルヴァーナ寺院という。
全部日本語で書けば「涅槃堂」ということだ。


この堂の中に巨大な釈迦の涅槃像が横たわっており、
中では読経の見事な低音の声が響いていた。
音を表現できないのが残念である。


(横たわる釈尊像)

カメラを向ければ、10ルピーといわれるが、
お布施であるから出しても出さなくても良いとは、
ヒンズー教の信者であるガイドさんの話。

その寺院の裏手に、
釈迦の遺骨を納めたストゥーパ(卒塔婆)があり、
左右に沙羅の木があったとされるが、
今は違う木が植えられている。
(注:ストゥーパは、記念塔、供養塔、仏舎利塔、墓を意味する)

(中央が釈迦の墓)

両側に沙羅双樹の木が立っていた所に今は違う木が植えてある。 

ところで、釈迦の命日は何時だったのか気になったので、
ガイドさんに聞いてみた。

「日本では何時になっているのですか?」
と逆に質問を受けた。
実はこのガイドさん、最初に紹介されたとき、
仏教学をデリー大学で学んだ仏教学者と紹介されていた。

「インドでは死亡時期については不明とされています。」という。
それが正しいのかもしれない。

ボクが知っている範囲では、
西行法師が詠んだ有名な歌に、

・ねがわくば 花のもとにて 春死なむ
          そのきさらぎの もちづきのころ

というのがあって、
その意味は
「どうせ死ぬのなら春の桜が盛りの旧暦2月15日ころに死にたいものだ、
 お釈迦様みたいに」といっているから、

「日本では3月15日ということになっています」と答えたら、
「ああそうですか」と言ったいた。
本当のところは、果たして何時なのであろうか?

また疑問が増えてしまった。
やはり勉強は死ぬまでついて回るらしい。


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霊鷲山、竹林精舎(インド紀行9)

2025年02月25日 04時29分17秒 | インド紀行(生きるを訪ねて)
(これは2006/03/ に作成した記事であることを
               頭に入れてお読みください。)


(霊鷲山、竹林精舎)
玄奘三蔵法師が、皇帝に当てた手紙の中で、
霊鷲山、竹林精舎を訪ねたと書いているが、

霊鷲山の山頂は、
釈迦が弟子達に自分が悟った真理を説いた聖地であり、
「竹林精舎」は、
釈迦が長い期間滞在した場所である。

(竹林精舎)

(竹林精舎横の池)

これらの場所は、沢山の観光客、仏教徒が訪れるためか、
土産物屋が並び、いつものことであるが、
観光客一人に物売りが一人ついてうるさく感じる。

この物売りが、入れ替わり立ち代りしつこくアプローチしてきて閉口する。

(霊鷲山 山頂までの道のり)

山頂までの道のりは比較的なだらかで、じわりと汗ばむが、
修行僧とすれ違ったり、野生のサルに出くわしたり、
途中で土産物屋さんに呼び止められたり、
ただ昇るだけでなく、変化があって、
健康であれば昇ることはたやすい。
上り下りの間中しつこく物売りがついて歩くのが煩わしいだけである。

(野生の猿)

山頂の一角が仕切られており、
今にも崩れそうな聖地を思わせる土台だけが残っているが、
その場所からの見晴らしは、
さすがに神々しく感じられた。
ちょうど夕日が山上にきており、
その美しさは、
釈迦の時代も今も同じだったろうと感激した。

その山のふもとに竹林精舎はあるが、
時の王が、釈迦の教団に寄進したもので、
今では塀で囲まれた美しい公園になっている。

竹林精舎の近くに日本山妙法寺があり、
今から80年前の1936年に、
釈迦の一生を描いた壁画が、
日本人により描かれている。
仏教を修行する人たちの宿泊所も備えており、
ボクたち日本人観光客が訪れると、
お茶の接待にあずかった。

(日本山妙法寺の鐘)


住職が在宅であれば説法が行われるというが、
残念といおうか、助かったといおうか、
あいにくお留守で、不謹慎であるが、
ホッと胸をなでおろし安堵したのはボクだけでなく、
ツアー客全員同じ思いであったに違いない。

日本人の仏教への関心は、およそこんな程度である。
以前カンボジアのアンコールワットを訪ねたとき、

20歳前後の女性ガイドさんから、

「日本は、大乗仏教ですか、小乗仏教ですか?」

と問われたとき、ハタと困った。返事が出来ないのである。
ボクは、15歳のとき弟を失い、
母を22歳で、父を翌年の23歳で亡くし、
当然仏式で葬式を行ったが、
ただ仏式で行ったというだけのこと。

仏教については、悪がきだった小学生のころ、
精神修養をかねて隣の日蓮宗のお寺の日曜学校に行かされた。
我が家の宗旨は、浄土真宗であったが、
そのお寺で、毎日曜日、
日蓮宗の法華経を朗読させられたことぐらいしか
仏教についての知識がない。
二問中一問を選択する問題であるから、
間違っても旅の恥はかき捨てと、「小乗仏教」と答えたら、

「ブ~~、大乗仏教です」と馬鹿にされた。

ボクを含めて、およそ日本人くらい宗教にうとい人種は世界に少ない。
正月は神社に初もうでし、
キリスト教のクリスマスを祝い、
8月は仏式のお盆休み、
そのうちラマダンの断食をして日が落ちると、
ご馳走をたらふく食べてドンちゃん騒ぎのイスラム、
そして都合が悪くなると
「それは神の思し召し」とばかり
「インシャ・アッラー」といいかねないのである。

カンボジアから帰国後仏教について、
それなりの勉強を試みた。
徹底して勉強した後、今までの不謹慎で、罰が当たったのか、
すぐ上の姉が亡くなり、長姉が夫を失い、
いずれも仏式で葬式は営まれた。
それにしてもいろんな疑問をいだき、
よく勉強した。

みなさん!
次の問題に答えられますか?

真言宗や天台宗はなぜ仏教なのに密教というか?

お経には何が書かれているか?

大乗と小乗仏教との違いとか?

そして親鸞が説いた浄土真宗でいう南無阿弥陀仏は
どういう意味を持っているか?

また、法然が説いた浄土宗でいう南無阿弥陀仏とは
どう違うのでしょうか?などなど...


(祈る仏教の修行僧)

脱線してしまったが、
インドから中国を経て、
朝鮮から日本に伝わった仏教については、
ボクが考えるよりもっと奥深いものがあることを、
噛み締めている現在である。

そしてインドの仏教聖地を訪れる修行僧の祈りの声と、
彼らが持つ澄んだ瞳には、誰をも寄せ付けない、
奥深い仏教への帰依が伺われた。


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玄奘の悲願(インド紀行8)

2025年02月22日 04時44分19秒 | インド紀行(生きるを訪ねて)
(これは2006/03/ に作成した記事であることを
               頭に入れてお読みください。)


(玄奘の悲願)
玄奘三蔵は17年の歳月を経て、
故郷の唐の国へ帰るが、
出国の際 禁を破って脱出したため入国するに当たって、
国に入る許しを得る手紙を皇帝に送っている。

(ラン展から)

切々と訴える手紙の一部を紹介したい。

【沙門玄奘は申し上げます。
(昔から、学者は知識を求めて遠方まで出かけていることを、
例を挙げて説明している、だから玄奘も天竺へ赴いたと説く。
その一部を省略。)
インドにおいて釈迦が衆生に利益を与えた神々しい跡とか、
教えに深く通じた高僧たちが明らかにされた、
類まれな高説にいたっては、これらが大変遠方にあるからといって、
手をこまねいて慕い訪ねないでおられましょうか。
釈迦が西域にお生まれになって教えをおこされ、
残された教えは中国に伝わり、優れた経典がやってきました。
しかし、それでもなお、十分というわけではなく、
欠けたところがあります。

わたくしは身も命もかえりみず、
以前から常にこの方面の学問を訪ねようと思っておりましたが、
とうとう貞観三年四月(630年)をもって、
国の決まりをおかし、
ひそかにインドへ旅立ってしまったのであります。
みはるかすかぎりの砂漠を踏み渡り、
切り立った雪深い高山を越え、
ウズベキスタンの山間を抜け、
イシクルコのような波濤に洗われた道を通過し、
長安の都からはじめ、王舎城の町に終わる旅でありました。

その間に通った道は二万キロ以上。
風俗は千を持ってかぞえるほど異なり、
困難危険は万を持ってかぞえるほどでありました。
しかし、人間の知恵でははかり知れない天の威力によりすがって,
もっぱらこれをたのみといたしましたので、
どこに行ってもわずらいもなく、手厚くもてなされ、
身も苦しまず、みな望みどおりになったのであります。
とうとう思いをとげて「霊鷲山」を見、
釈迦が悟りを開いた菩提樹を礼拝いたしました。

(ラン展から)

見ることがかなわなかった仏跡を見、
聞くことがかなわなかった経を聞きました。
全世界の不思議を見尽くし、
自然のはぐくみを見極めもいたしました。
陛下の徳が行き渡っていることを述べたたえ、
異なった風俗のひとびとの陛下に対する思いを啓発いたし、
へめぐり歩いて17年。(以下省略)】

トルファンまで来てこの手紙を出した。
なぜ皇帝に手紙を出したかと言うと、
持ち帰った経典を翻訳するには、
国の力が必要であったからといわれる。

(インドの夜景)

当時、翻訳するのに記載する紙が高価であったことと、
657巻の経典を翻訳するには、
記録係、翻訳者、書き写す者など大勢の手が必要であったのと、
657巻にわたる膨大な経典の翻訳が、
一生かけて完了させるのは時間的に余裕がなかったからである。
玄奘の悲願である、仏典の翻訳はこうして始まり完成した。

二十世紀に入り、戦火による焼失を免れるため、
敦煌の石窟の壁に塗りこめられた経典が発見されたいきさつは、
井上靖の小説「敦煌」に詳しく掲載されているが、
一部はイギリスの探検家オーレル・スタインが、
また一部はフランス人のぺリオが、
残りを中国の軍隊が没収していった。
経典類は全部で四万点余であったという。

世紀の宝物であろう。


(インドの夜景)

しかし、こうして仏典は中国語に翻訳され、
日本に伝わった。

偉大な事業であった。

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玄奘も学んだナーランダ仏教大学遺跡(インド紀行7)

2025年02月20日 04時50分24秒 | インド紀行(生きるを訪ねて)

(これは2006/03/09 に作成した記事であることを
               頭に入れてお読みください。)



(玄奘も学んだナーランダ仏教大学遺跡)

ツアーの三日目は、
いよいよ待ちに待ったナーランダ仏教大学遺跡を訪ねる。
七世紀に中国を脱出し、長い困難な道のりを越え、
仏教の経典を求めてやってきた玄奘三蔵が、
抱いていた仏教への疑問を解決し、学僧数千人を集めて、
講義をした大学跡である。

ナーランダ仏教大学遺跡は、石で建造された巨大な礎石だけが残る。
講義室、学生の宿舎は四人一室で起居し、勉学に励んだ跡が残る。


(講義室の教壇は一段高くなって居る)

部屋の4隅には、四人分の本箱といわれる場所があるが、
当時の本は一体どんな形をしていたのであろうか?
すでに紙が発達していたのか、
絹に書き込んだものだろうか、
もし木簡であったとすれば、本箱が小さすぎる。
絹であればなおのこと、紙で作られた本でも高価すぎて、
学僧の手に入るものではない。

教壇は現在の小学校にあるほどの大きさはあるが、
講義室は小学校の半分程度の大きさであるが、
沢山の講義室、宿舎が並び、
学校の大きさは三平方キロに渡るというから、
相当な広さであったに違いない。

もちろん、講義室には机もなかったが、
学僧は地面に座って講義を聞いたのであろうか?
田舎の村を訪ねると、小さな黒板を日陰に立てて、
子供達十人ほどが車座になって、
教師らしき人の声に合わせ、なにやら復唱する声が聞こえたが、


(子供たちの授業風景)

ガイドの説明によれば、田舎の小学校だというから、
ナーランダ仏教大学でも、同じように学僧たちは、
地面に座って講義に聞き入ったに違いない。

玄奘三蔵は、経典657部を携え、唐の都に帰っていった。
脱出後17年の後であったという。
故郷に帰った玄奘は、
経典の翻訳に一生をささげるつもりであったが、
時の皇帝は国防のため、
当時明らかでなかった西域の国々
(中央アジアやインド)について知識が必要であったため、
玄奘に「西域記」の編纂を命じた。
これが有名な「大唐西域記」である。

話は変わるが、
その昔、ボクが子供のとき、絵本ではなく、
文字だけの本を初めて買ってもらったのが「西遊記」であった。
三蔵法師に孫悟空、猪八戒、沙悟浄の活躍に
胸躍らせた記憶が焼きついている。

玄奘三蔵法師の伝記「慈恩伝」を面白おかしく物語にしたのが,
この「西遊記」である。
いつか、孫悟空の歩いた道を歩いてみたいと思った夢が,
実現できるとは思っても見なかった。
玄奘が学んだナーランダ仏教遺跡を訪ねることが出来たことは、
実に感慨深い。


(ナーランダ仏教遺跡)

なお、余談であるが、
玄奘の遺骨は第二次世界大戦中に南京で発見され、
その頭骨が日本に持ち帰られて、
さいたま市岩槻区(元の岩槻市)にある、
慈恩寺に埋葬されており、
その一部は、ノーベル平和賞を受賞した 時の首相 佐藤栄作氏により、
台湾の玄奘寺(慈恩寺)に分骨された。


(岩槻区の慈恩寺)


(玄奘の遺骨が埋葬されている場所)
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釈迦が悟りを開いたブッダガヤ(インド紀行6)

2025年02月18日 04時44分19秒 | インド紀行(生きるを訪ねて)
(これは2006/03/03 に作成した記事であることを
               頭に入れてお読みください。)

(釈迦が悟りを開いたブッダガヤ)
ブッダとは、悟りを開いた人をさす。
ガヤはヒンズー教の聖地を意味する。
つまり釈迦が悟りを開いた場所をさす。

この地には、美しいマハーボーディ寺院があり、
その裏手に釈迦が悟りを開いたという場所がある。
菩提樹の下である。


(菩提樹の木)

現在の菩提樹は4代目といわれる。
この菩提樹は石の玉垣に囲まれ、
木の根元に、釈迦が座って瞑想をした。


(釈迦が座った台座)


(祈る修行僧)

インドは98%がヒンズー教で、
約2%が仏教徒と聞いていたが、
訪ねたときはAM8:30ころでも、
さすが仏教徒の聖地、大勢の白装束の信者が菩提樹を取り巻く
石垣の周りでお祈りをしていた。

考えてみたら総人口十億人の2%は2千万人であるから、
大勢の人がいるのもうなずける。

マハーボーディ寺院内には、
ガラス張りの箱の中に金色の釈迦が蓮台に座していた。
黄金で鋳造した(あるいは金箔かもしれない)
東大寺の仏像を小さくしたものを想像していただければよい。
その黄金の仏像の前で数人の僧侶が、
良く響き渡る声でお経を上げていたのが印象的であった。


(マハーボディ寺院1/工事中であった)


(マハーボディ寺院2/工事中であった)

建物の外、境内は広く石と芝生で仕切られた美しい庭園の様になっており、
あちこちで修行僧がお祈りをささげる姿を垣間見ることが出来た。
釈迦はここで悟りを開いたといわれる。
悟りとはどんなことであろうか?

いつ死んでも良い心構えが出来ていることであろうか?
もっと具体的にすると、
生きるうえで悔いの無いベストな生き方をし、
生きている間は自分がどんな状態であれ、
どこまでも他人を思いやることが出来、
死後は必ず極楽(または天国)に行けると信じることなのだろうか?


(寺院内のガラス内の釈迦像)

人は生まれると、
その瞬間から「死」に向かって歩いていく。
しかし、人によりその時期だけが明白でない。
時には生まれてすぐ亡くなる人、
生まれて数ヶ月で心臓を取り替えなければ生きて行けないことが判る人、
難病で死期を宣告された人、
100歳を越える人、人それぞれである。

しかし、人生は全うしなければならない。
釈迦は、8万四千通りの極楽への道筋を記し、
それをお経にした。

そのお経が中国に断片的にもたらされていたので、
不明な点が多く、仏教を学んだ玄奘三蔵法師には理解できない部分があり、
どうしてもその不明な部分を解明したくなった。
中国の高僧を訪ね歩いても、
玄奘の持つ疑問を解決することが出来なかった。
玄奘は、法を犯して天竺へ渡り、
釈迦が悟りを開いたブッダガヤの菩提樹の下を訪れた。

(菩提樹の下で祈る修行僧)

また、釈迦が教えを説いた
「竹林精舎」「王舎城」
「霊鷲山」にも訪れ、自らの疑問に答えを出し、
657巻の経典を持ち帰った。
どうやらインドのボクの旅は、
西遊記の玄奘三蔵法師の足跡を訪ねる旅でもあった。


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インドの紅茶(インド紀行5)

2025年02月15日 05時54分15秒 | インド紀行(生きるを訪ねて)
(これは2006/03/01 に作成した記事であることを
               頭に入れてお読みください。)


(インドの紅茶)
インドの南端のスリランカをはじめ
インドの紅茶は有名である。
イギリス領であったインドからイギリスに紅茶は輸出され、
英国でティータイムが発達した。
イギリスではお茶(Tea)と言えば紅茶(red tea)を指し、
日本では緑茶(green tea)をさす。

紅茶を緑茶と区別して、
日本人に分かりやすいように

「English tea or Japanese tea ?」
あるいは
「Red tea or Green tea ?」

「紅茶、緑茶、どちらにしますか?」とCA(キャビン・アテンダント)に英語で訊かれる。

違いは、紅茶は発酵させて作るのにたいして緑茶は蒸して作る。
インドの紅茶は産出する地名により名前がつけられているが、
香りが異なり人によって好き好きがある。

ダージリンはヒマラヤ山脈の麓にあるダージリン地方で取れる紅茶を指し、
ボクはこの紅茶はレモンティーにしていただくのが好きである。
もう一つはアッサム州で採れる紅茶をアッサムティーと呼び、
この紅茶は香りが強くミルクティーでいただくのが、
ボクは好きだ。
インドでは上質の紅茶はすべて英国に持っていかれるので、
残りもののくず紅茶をインド人は戴く。
お茶の入れ方を工夫していただくが、
これをチャイと呼んでいる。

最初にチャイをいただいたのが、
観光名所での土産物屋さんの中であった。
やや大振りのぐい飲み様の器にミルクティーが入っており、
少し甘味が入っていて生姜の味がして美味しい。
ちょうど喉が渇いていた時間帯でもあったので、
美味しくいただいた。
ぐい飲みのような、土器を返そうとすると差し上げますというので、
日本に持って帰り、お酒を飲むのにちょうど良いと思い、
ティッシュペーパーに包んでバッグに入れた。

プロフィールページに書いてあるが、
ボクは焼き物に大変興味がある。
蔵書の中で、一冊で一番高価な本が焼き物(陶器)の本であるし、
各窯場の焼き物(陶器)を収集する悪趣味も持っている。
お茶碗では高価すぎるし、置場所をとるので、
もっぱらぐい飲みを買い集めている。
それぞれ違った窯場のものが、70個前後あると思う。
また、外国では、陶器でなく磁器(ボーン・チャイナ)になるが、
コーヒーカップかティーカップを買ってしまう癖がある。
高価なものは、
デンマークのロイヤル・コペンハーゲンのティーカップは数種類あるし、
イギリスのウェッジ・ウッドや


ドイツのマイセン、
オランダのデルフト焼き、
ハンガリーのヘレンドなどなど。
一客でうん万円するものばかり。
これらの器で紅茶をいただき、至福の時間を過ごす。

話がそれてしまった。
焼き物についてはまたの機会にお話したい。

元に戻して、
チャイは強い紅茶の香りのする牛乳であることを知ったのは、
インド旅行中、トイレ休憩のときであった。
インド人のトラック運転手が一休みするという、
いなかの茶店に寄った。

用を早めに済ませて茶店でうろうろしていたら、
厨房らしきところで小さな鍋に
牛乳をタップリ入れたところから見ることになった。
牛乳を火にかけ煮立てると、紅茶の葉をタップリ入れる。
その後お砂糖を適宜入れて終わり。
チャイの出来上がり。


(チャイ作りのインド人)

そこからが問題である。
そばにいた少年にあごをしゃくって、
土間に重ねて置いてあったドロだらけの土器
(ボクがぐい飲みと思った)を持ってこさせた。
汚れているので洗うのかと思ったら、
少年が汚れた指先で、その土器をこすり始めた。
土器からはドロやほこりがぱらぱら落ちていく。
これで清めたつもりなのだ。
15個ほどをお盆の上に並べると、
鍋に作ったチャイを次々と注いでいった。
注ぎ終わるや、少年が汚れた手で一個ずつお客に配っていく。
ボク達夫婦と若い添乗員さんとインド人のガイドがこれを見ていた。
添乗員さんがガイドになにやら聞いていた、
きっと(これ飲んでおなか壊さないだろうか?)
であったに違いない。

ガイドさんが首を縦に振るのが見えた。
添乗員さんが、
「チャイはいったん煮立ててありますので大丈夫です」と言う。
それを聞いてボクは飲んでしまったが、
カミさんは捨ててしまった。

さて、そのときも器は差し上げますと言う。
そんなに沢山いらないから返すと、
少年がそれをどんどん地面にたたきつけて壊して捨てている。
チャイの土器はそんな値打ちであったが、
この土器もやがて自然に帰る、
そんな仕組みになっているのかと感心した。

インドでは、排泄物も野外で、
これは鳥や動物の餌になり、あるいは植物の肥料になり、
やがて循環してまた人の役に立つことになっている。

ヒンズー教の教えの中に、
自然への回帰という教えでもあるのだろうか?
貧しい人たちが多いのに、盗まれないように鞄に気をつけろとか、
変な人に声をかけられたら注意してくれとか、
荷物を手から離さないようにとか、
治安にかかわる注意は何一つなかった。
インドでは子供のころから、
物乞いすることはあっても盗むことは恥辱とでも
教えられているのであろうか?
日本の中学までの年齢までは義務教育であるというから、
貧しさから抜け出そうとする若い人たちが、
懸命に勉強し仕事をして、近い将来のうちに、
ニートが多い日本を凌駕する日が
やってくるように思えてならない。


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ペナレスの沐浴(インド紀行4)

2025年02月13日 07時47分53秒 | インド紀行(生きるを訪ねて)
(これは2006/02/17 に作成した記事であることを
               頭に入れてお読みください。)


(ぺナレスの沐浴)
ヒンヅー教の聖地ぺナレスで、ガンジス川の沐浴風景を見学した。
陽が昇る前の薄明かりの中を見学用の舟に乗る。
沐浴は、川岸で行われるので舟で流心まで出て岸のほうを見学する。

ヒンヅー教では、死者は火葬され、
その灰をガンジス川に流されて終わる。
したがってインドには(ヒンヅー教では)お墓がない。
火葬場があるわけでなく、川べりに死者は運ばれてきて、
薪などを積み上げその上に死者を乗せて、
火をつけて燃やす、死者の体はのけぞり動き、
やがて灰になる。
そして灰はガンジス川に捨てられて終わる。


(煙立つ火葬のシーン/ボクのビデオから)

火葬のシーンにカメラを向けてはならないとされる。
沐浴シーンは、カメラに納めてよいが、
男性も女性も同じ場所で着替え、
インド更紗かと思われる薄い布地を身にまといガンジス川に入る。
日の出を狙ってお祈りをする。
合わせた両手を顔の中央にあて、
そのまま太陽に向かってお辞儀をする。
一回、二回、三回と礼をするとその都度、
体も顔も水にもぐってしまう。
何回繰り返すのか分からないが、
やがて金色の壷にガンジス川の水を汲んで終わる。


(ガンジス川の沐浴1)


(ガンジス川の沐浴2)


(三度水に潜って礼をする人達)


(一人で沐浴する、金色の壷にガンジスの水を汲み終わる。)

そうしている間に、真っ赤な太陽は昇り、
ガンジス川が赤く染まる。
舟に乗った観光客は、しきりにカメラのシャッターをきる。
団体を乗せた舟は、二人の屈強な男性がオールで漕いでいる。
その舟を狙って、商魂たくましい物売りがやってくる。

精霊流しのように、ロウソクを立て火を灯したもの、
写真に撮ってはならない
死者の火葬シーンの絵葉書や
ヒンズー教の神シバ神像の人形もある。
ヒンズー教の聖地ぺナレス(インドの現地語でバナーラス)
の荘厳なシーンに圧倒されて、
ひたすら現世で生きている幸せに感謝し、
灰となって流される人の冥福を祈るばかりであった。


(真っ赤な太陽が昇る)


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