中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

南太平洋の島国ーオーストラリア (初めての海外旅行 5)

2017年01月28日 04時41分39秒 | 初めての海外旅行
0005
(カンガルー)

(オーストラリア)
南太平洋の島には猛獣のような動物は住んでいない。
恐ろしい動物といえば、クロコダイルくらいなもんだ。

定年になったら、カミさんを連れて世界中を旅する約束を
果たすために、旅行を始めた。

物の本によると、
世界の人々が、もっとも沢山訪問する国々のベスト3は、

1. カナダ
2. オセアニア(オーストラリア・ニュージランド)
3. 北欧(フィンランド・スエーデン・ノルウェー・デンマーク)
とある。

なぜ沢山の人が訪問するのだろうかと言うと
答えは簡単、世界で最も治安が良い国々である。
(日本は除いてある。)

そこで、まず初めに、オーストラリアに行くことにした。
何と言っても、カミさんと海外旅行するのは2回目。

多少冒険心もあって、二人だけで催行されるツアーを選んだ。
現地で、案内人が手助けしてくれる。

オーストラリアには、身近に見たこともない可愛い動物が沢山居る。
カンガルーにコアラ、ペンギンにペリカン。
手乗りの極彩色のインコに似た小鳥、ロリキータ。
ダチョウに似たエミュー。
海に行けば触ることが出来るシャチやイルカ。
忘れてはいけないのが羊。

ボクは人間以外の動物が嫌いで、
その上写真を撮られるのが嫌い。
夜行性のコアラを観光客に抱っこさせて
記念写真なんてまっぴら。

でも、カミさんは、コアラを抱っこして御満悦。
コアラの毛はどんな感触かボクは知らないが、
カミさんによれば
とても柔らかく良い感触だったとのこと。
0001
(コアラ)

次がグリーン色のトカゲ。これは見ただけで感触が悪そう。
でも、現地の人がトカゲを抱っこして、ニコニコしているのを見て、
カミさんが抱いてみたいという。
口元から蛇と同じように舌をぺロ、ぺロと出している。
カミさんは自分の干支が蛇年であることも手伝って、
平気で抱っこしている。すべすべして、つるつるして、
冷たくて、感触はよいらしい。

オーストラリアに行ったら、「最低三つは見てきなさい」と言う。
一つは、グレートバリアリーフ、
二番目はエアーズロック、
三番目にペンギンのパレード。

ボクが考えた三つは、
1.羊の毛皮剥ぎと、
2.ブーメラン飛ばしと、
3.羊の群れを囲いの中に追い込む犬、
と思った。
Relay6
(ブーメラン)

カミさんの三つは、
1.コアラを抱く、
2.手乗りのインコに餌付けする、
3.ペンギンパレードを見る、
と思ったらしい。

旅行はこんな考え程度が一番楽しい。

(つづく)
Lrg_122243131
(ロリキータ=手乗りインコ?)

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

飛行機の搭乗(初めての海外旅行 4)

2017年01月21日 04時22分16秒 | 初めての海外旅行
(飛行機の搭乗)

旅行社にお金だけ取られて、
海外旅行の行き先と日程は決まった。
出かけるのはカミサンとボクだけ。
頼りになるのはボク以外に誰もいない。
カミサンにいたっては外国語はもちろん、
自慢にはならないが日本語も余り得意ではない。

この時点では、習った英語とスペイン語と日本語の
トライリンガル(三ヶ国語話せる人)だと、ボクはうそぶいていていたが、
日本語以外はこれまでまともに使ったことがない。
なんだかんだ言っても、ボクは生粋の日本人。
日本語を使うのが当たり前で、
間違った日本語を使わないよう毎日心がけている。
最近の若い人が、
「その映画館までのアクセス教えて」なんて使うと、
「アクセス」じゃない「行き方」教えてでしょう、
と言うくらい。

まず手始めにデパートへ行って旅行用鞄を購入する。
とりあえずスーツケース一つと手荷物になるバッグを手に入れる。
カミサンはどのように着飾ったらよいか、服装の心配をしている。
嫁いだ娘を呼び出して、
一緒にデパートであれこれ見繕っているようであった。
あわただしい毎日が過ぎ、旅行の一週間前になり、
旅行社から「旅のしおり」が届いた。
それによると
出発日 〇月〇日、帰着日〇月〇日。
成田国際空港 第1ターミナルビル 北ウイング 
「××」カウンター〇〇時集合とある。

一つのスーツケースに二人分の着替えを入れて、
洗面用具、簡単な医薬品(
風薬、胃腸薬、外傷塗布薬、などなど、)もいれて、
空港で航空会社に預ける。
手荷物には両替したお金、クレジットカード、カメラ、
録音器、搭乗券などなどを入れる。
この時航空会社の方から、
飛行機は何番ゲートより何時に搭乗が始まりますので、
その時間までには搭乗ゲートにお越しくださいといわれていた。

早速、空港内にチェックイン。
まず手荷物検査、次に身体検査。
前回、会社負担で旅行した時は添乗員の方から、
金属が付いたものは お金から金具がついたベルトなども出しておいて、
別に通過させてくださいと、
多分言われていたに違いない。

十年近くも前のことで、
そんなことすっかり忘れて赤外線ゲートを通過すると、
ピッと音がしてやり直し。
そんなことを何回か繰り返し、やっとゲートを通過する。
搭乗口を確認して、時間が余っているから、
飛行場内の免税店を見学して歩く。

しばらくして搭乗口へ行ってみると、
予定の飛行機の発着予定がなくなっている。
この時は本当にあせった。
どこへどのように聞いたら、
自分が乗るべき飛行機の搭乗口がわかるのか、
飛行場へ入ってきた場所へ急いで戻る。
途中の通路にInformationがあり、
素敵な案内嬢がいる。
そこで搭乗券を見せて、どこから乗るのか聞くと、
飛行機の搭乗口が変わって、
Eの〇番ゲートへ行けと言う。

どうやって行くのか聞くと、
入ってきた場所を出て別の棟に行き、
可愛いお嬢さんにしては、
取り付く島もないご返事で、
Eの〇番ゲートへ行ってくださいと言う。
可愛いい素敵なお嬢さんだったのが、
急に「知ったかぶりしてぇ」と見下された応対に感じた。

飛行場と言うのは、入るのも面倒だが、
逆行するのはなお難しい。
普段は出入りがないような通路を、
何人かのガードマンにとがめられながら行くことになる。
離陸まで10分程しかないないのに、
何人かのガードマンにとがめられ、
目的搭乗口にやっと着く。
何のことは無い飛行機は遅れて離陸すると言う。

旅行社から離陸するまでに変わったことが起こったら、
連絡してくれと言われていたことを思い出し、
電話連絡をすると、
「あなたはどちらに電話されているのですか?
こちらは第二ターミナルですよ。
あなたは第一ターミナルから電話しているので間違いです。」と
にべもない返事。

(ふざけやがって、
どこのターミナルだろうと離陸搭乗口が変わって、
離陸時間が遅れるから、電話したのに、
変わったことがあったら電話くださいなんて、
言わなければ電話もしないものを)と、
このときばかりは本当に憤慨した。
初めての海外旅行を楽しみにしていたのに、
いろいろ不便があって、問題があったから電話してやったのに・・・

もっとも旅行慣れした人には、
(良くあることだよ)で済んでしまいそうなことであるが・・・。
(もちろん旅行から帰って、旅行社へ文句を言ったのは言うまでもない。
旅行社というのは、
こうした苦情を上手に処理する会社だと言うことが分かった。)

(海外旅行には良いガイドが必要)ということを
「旅立ち2」で書いたが、
それを痛感させられた出来事であった。





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

海外旅行を申し込む(初めての海外旅行 3)

2017年01月14日 04時20分36秒 | 初めての海外旅行
(海外旅行を申し込む)

さて、海外旅行といっても、
昭和60年(1985)に、勤続30年のご褒美で、
費用は会社持ちの海外旅行(殆んど日本みたいなハワイ旅行)を、
夫婦で一度しただけのパスポートがあるだけ。

この時は、旅行の段取りから、費用から、
航空切符の手配から、現地の観光からホテルなど、
あらゆる段取りは会社の総務課が引き受けてくれて済ませた。

今度はそうは行かない。
いざ自分で行くとなると、どのお国に行くのが良いのか、
そこから始めないといけない。
よく解らないので、観光業をしていて定年退職となった方が書いた
「定年後の夫婦海外旅行の秘訣」なる一冊を購入し、
その本に従うことにした。

ところが本を読んでいくうちに、行くべき国は書いてなく、
一般的なことが綴られているだけだと言う事が判った。

1.目的地は 綺麗で明るい、安心でき体力に応じている。
2.料金は自分にふさわしいこと、決して欲張らない。       
3.期間はベストシーズンとの境目。(料金が割安)          
  4.見所は決めておくこと。                                                      
 (a)ガイドブックで、
   (b)旅行社のカタログで、
        (c)在日政府観光局へ出向いて。
  5.気候気温の良い時期                                                           
6.良いガイドが必要                                                          
 7.最高でも2週間以内を一単位とする。                             
                         
およそこんなことが纏められていた。
これではどこへ行ったらよいか解らない。

そこで退職前の勤務先へ電話をかけて聞くことにした。
そうしたら日本でも安心できる旅行社を紹介され、
そちらに聞いてください、と言う。

何のことは無い初めから旅行社に問い合わせすればよかった。
本代が無駄になったと思ったが止むを得ない。
のちにこの本はボクより後に定年退職した人に差し上げた。

ここで言う目的地、キレイ、明るい、
安心な国はどうすれば判るかといえば、
早い話、世界中の人が、
旅行で一番沢山集まる国と言うことになる。
それは一体どこの国でしょうか?

それはオセアニア、カナダ、北欧と言う。
なぜこれらの国へ世界の人たちは旅行するかと言えば、
それは治安が良い国のベスト・スリーだからである。
納得!!

ちょっと待ってください。
ボクは日本人だから治安の良い国のナンバーワンは、
「それは日本だよ」と思って居る。
だけど、海外旅行をするのだから、
自分の国は省いてあるだけだと、思ってください。

と言う訳で、
まずオーストラリアに行くことに決めた。
南太平洋はオーストラリアとニュージーランドが近いから、
一度に両方訪ねたらどうかと思って、旅行社に尋ねると、
「別々に行っても旅行代金は余り変わりません。
かえって旅行日数が延びて疲れるだけです。」と言う。

それではオーストラリアだけで行くことにした。
初めてなのに
「案内は現地ガイドがします。成田から現地までは、ご自身で行って下さい。
飛行機が離陸するまでの間に、何か変ったことが起きたら連絡ください。
出発の一週間前に搭乗航空機、集合場所など詳しい冊子をお送りします。」
と言って、お金だけふんだくられて終った。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

海外旅行の予定105ヵ国(初めての海外旅行 2)

2017年01月07日 02時42分22秒 | 初めての海外旅行
(旅立ち 2)

外国旅行の訪問目標を105カ国と書いたら、
「何でそんなに経済力があるのですか、
余ほどお金持ちなのですね。」と、
随分金持ちであると思われたが、実際はそうではない。
お金を稼げるだけの能力を持っていただけのことである。

定年後にやりたいことを残しておいた。
しかし暇はあれど肝心の金が無い。
そこで1週間に2日だけ働き、
残り5日間やりたいことが出来る仕事は無いものかと探した。
希望を求めて探し回ったが、
そんな都合の良い仕事があるわけが無い。
半ば諦めて、現役時代の延長のようなフルタイムの仕事が見つかった。

面接に行くと、人事の方、
採用部署の係りの人、
採用部署の担当部長さん、
入れ替わり立ち代り面接を受けて、
最後に社長さんが出てきた。
随分大ごとになったと思ったが、
その際、本来の希望(週二日間働く)を述べた所、
先方が採用したいのは、
実は週二日働いてくれる人だったのである。
しかし、二日だけでは来てくれる人も無く、
やむを得ずフルタイムで募集することに
決めた矢先であった、と言う。


お互いの希望が合致してとんとん拍子に話は進んだ。
ところが仕事を実際には、
どのようにやるのかがよく解らないので、
「具体的に一日見学させて欲しい」と頼んだ。
この間はアルバイト待遇、時間給1750円。

翌日一日、仕事を見学した。
仕事の内容は、前時代的なやり方であったので、
その日のうちに五項目の改善をお願いして、
その改善が出来なければ仕事をお受け出来ないと、
改善要望書を提出した。

世界に冠たるアメリカの会社である。
しかも、この会社が商品を発明した先駆者で、
アメリカではこの商品を持って居ないと、
生活が出来ないとまで言われている。
当時は、世界のビッグスリーに入っている会社である。

2日目、社長がわざわざ現場にやって来て、
「すぐには出来ないが改善します。」
の約束の言質を取って、仕事をすることにした。
この仕事の収入がボクの計画の、
すべての旅行費用になった。

この話を友人にすると、
「お前、採用してもらう面接試験に行って、
注文をつけてくるなんて、
採用される側の身分だよ、
すごく強気だな」と言われた。

就職の採用試験は、大学を卒業した時と、今回で2回目。
学校を卒業したときは、
就職難で是が非でも職に有り付かなければならず、
必死であったが、
今回は自分に合った仕事を探そうとしたから、
気楽であった。

話を戻そう。
定年後の生活費は定年になった時点で、
年金+αで賄えるようにしてあった。
さらに言えばボクが55歳の時点で、
二人の子供は大学を卒業し、
定年の時には結婚して独立していた。
また住宅ローンも完了していたのである。

決して金持ちではない。
どちらかと言うと、人生の時間割を
きちんとこなしてきたことは確かである。

何歳までに子供を生み終え、
何歳までに住宅ローンを終える。
子供の結婚、独立にしても、
何歳までには独立するよう話をしてあった。
子供たちがパラサイト・シングルにでもなったら、
それこそボク達の老後は無い。

誰にも平等に与えられた時間を意識して、
その時間を一所懸命まじめに、
そして有効に使った者が人生を制する。

と簡単に書いたが、
実際の所ヨーロッパへ一つの旅行をするのに、
20年前には二人で百四十万円は必要であった。

(つづく)


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旅立ち(初めての海外旅行 1)

2017年01月03日 01時00分00秒 | 初めての海外旅行
(旅立ち)

「旅立ち」と言う言葉を見て、人それぞれ
思い出すことは異なる。

動物が成長して、親離れをする瞬間。

雛鳥が自分の羽根で飛べるようになり、巣立っていく時。

子供が学校を卒業、就職して、一人で生活を始める時。

娘が結婚した当日、「長い間お世話になりました」と挨拶をする時。

長患いの病人が、神の思し召しで「旅立つ」時、

などなど...

当たり障りなく、すぐ思い出すのが、

山口百恵さんの歌 「いい日旅立ち」。

ボクたち夫婦にとっては、ボクが定年退職をして、

カミさんとの約束、世界旅行を始めることになった時を指す。

わくわくして期待に胸躍るときのことを言う。

目標105カ国。

1996年のことです。

そして旅行を始めた。

(つづく)

山口百恵さんの「いい日旅立ち」
ヴォリュームに注意してください。






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

あとがき(旧中山道を歩く 335)

2012年07月07日 10時30分52秒 | 8.山城(京都府)の旧中山道を歩く(333~33
2004年3月27日、日本橋をスタートして、中山道を歩き始めた。
後になって気が付いたが、
3月27日は松尾芭蕉が「奥の細道」へ出立した日であった。
もっとも、芭蕉は旧暦で、ボクは新暦である。

どんな事でも、やるぞ!と決めたらとことんやりのけるのが、
たった一つのボクの長所。
普通は、雨が降ろうと、雪が降ろうと、風が吹こうと、
関係なく、がむしゃらに、実行するのだが、
歳をとった所為か、
今回は天気予報で気温や降雨について確認してから出かけた。

東京から埼玉に入るのに4日を要し、
埼玉を通過するのに7日、群馬を通り抜けるのに6日、
長野県は信濃が7日と木曾が8日で、
都合木曾11宿は15日必要であった。

軽井沢を過ぎてからは、それまで日帰りで歩いたのを、
一泊二日で進めるようになってからは、
連続する二日間、良い天気に恵まれる予報がなければ出かけなかった。
他に暑い日は避け、冬の雪の日も止めて、勿論風が強い台風も避けた。
孫の運動会、文化祭も避け、親せきのお祝いごとなどや、
友人の訃報にも配慮して、歩くのを中止した。

それから土曜日日曜日祭日は、乗り物の混雑、宿泊場所の混雑があって避け、
月曜日は歴史民族資料館、美術館、博物館が,
お休みの所が多いのでこれも避けた。
こうすると、一年に出かけられる日は限られてきて、
年に5~6日しか出かけることが出来ず、
京都三条大橋に到着するのに時間が掛かり、
足掛け9年の2012年4月24日まで、通算49日間必要であった。

平均25km/日歩き、中山道の付近にある史跡名所は、できるだけ訪ねた。
旧中山道は、今では国道に合流してしまった所、
国道から離れて山の中へ入っていく道路など、
さまざまで、道に迷い山深いところへ入り込んで、
背丈もある笹叢の中へ入って、
どちらへ出れば抜け出る事が出来るか、
遭難して命落とすのではと、不安な所もあった。

草むらは人の足跡があるようなという程度の道は、
道でなかったことを知った。
旧中山道とは言いながら、中山道は中山道で草道なら、
ちゃんとした草道があり、
道の形をなしている。

元大学の山岳部にいた人に、
山登りのコツを聞いて、
間違いと思ったらすぐ引き返す。
(下り山道で足を滑らし、
千尋の谷へ落ちるなんてことは幾らでもあります。
山が低いからと言って侮らないこと、
全体として上っているのに、下り道になっている、
あるいは、下りなのに上り道になっている、
というような時は気をつけ慎重に行動する。)
など注意事項を聞いておいて、
道に迷い込む事を避けられたこともあった。

江戸から数えて57番目の一里塚が52番目の一里塚と表示されている所、
案内板に、江戸日本橋から57番目の宿場なのに、
58番目と書いてあった垂井宿、
地方自治体の教育委員会に連絡して、
訂正をお願いする事もあった。

中山道は67次であるが、
通常 東海道の2宿を加えて、
中山道69次と言っている。
最後京都に入って、
三条大橋が江戸から言えば終点になる。

長い道のりであった。

大津から京都へ入るのに、
峠を二つ越えなければならない。
一つは、逢坂山、
芸道の神さまで百人一首の坊主としてしかボクは知らない
「蝉丸」の神社が二つも三つもある逢坂の峠、
もう一つは、日ノ岡峠で、
大津からこの峠を越えるのに花崗岩の「車石」を並べた。
荷車が峠のぬかるみに足を取られて難渋しないように、
荷車の車輪の幅に花崗岩を並べて、車を挽き易くした峠。

この峠に木喰上人(もくじきしょうにん)が、
井戸を掘りその水を、
旅人と荷を引く牛に振舞った。
中山道では、荷を運ぶのに馬50匹、
人足50人を各宿場に用意させたが、
京都には、馬に替わって牛に荷を挽かせた。

この日ノ岡峠の水場を「亀の水不動」といい、
旅人に振舞ったと言う井戸水が,
亀の口から今も流れ出ている。

この亀の水を受ける水鉢が、
なぜか東京の「椿山荘」の庭に置いてあった。
名前を「量救水(りょうぐすい)」といい、
石鉢の縁には、
「木喰上人 養阿 日ノ岡峠」と書いてあるように見える。
鉢の内側には、般若心経の262文字が刻んである,
というが確認できなかった。

京都に入って、平清盛に関係する六波羅蜜寺に立ち寄った。
平宗盛と清宗の墓を見て、哀れに思ったからであろうか。
六波羅蜜寺で、清盛の木像らしいと言うものを見て、
感激し平家物語を読もうとしているが、
未だ暇を見つけることが出来ないでいる。

三条大橋で首を曝された人は多いが、
現在では陽気な日当たりの人出が多い橋でしかない。
高山 彦九郎像が大津側にあり、
東海道中膝栗毛の「弥次郎兵衛と喜多八」像が,
京都側に建っている。

愉快な二人の珍道中を瞼に描きながら、
「中山道ひとり歩る記」の旅を終わりにしたい。
拙い文章のブログに、
長らくお訪ね頂いた皆さんに感謝申し上げると共に、
今後、中山道を歩こうとしている方々の,
参考になることを願っています。

2014年3月27日      hide-san

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日ノ岡峠と亀の水不動と三条大橋(旧中山道を歩く 334)

2012年06月28日 13時03分02秒 | 8.山城(京都府)の旧中山道を歩く(333~33


(分かり難い左折道路、人がいたら亀の水不動を方向を訊ねよう)

(三条大橋2)
三条通りを、東海道線のガードをくぐり左にある(みどりの径)入り口の先、
左折の狭い道路をはいる。
道なりに進むと、先ほどの(みどりの径)と交差するが、
なお先まで進むと、段違いの交叉点にでる。
この交差点も直進する。
狭い道で、これが本当に旧東海道かと思われるが、
進むと広い開けた場所に出る。
(ここでボクは亀の水不動は直進か右手の花屋さんに聞いた)
亀の水不動は直進で正しい。
道路はだんだん上り坂になる。日ノ岡峠に向うからだ。
民家の間を抜けて、峠道を歩くと左手に「亀の水不動」がある。


(みどりの径と交差する)


(その先の段違いの十字路を直進)


(狭い道を怪しみながら進む)


(開けた場所に出るが、疑心暗鬼で右手の花屋の叔母さんに道を聞く)


(民家の間を日ノ岡峠へ上り道)


(左手の「亀の水不動尊」)

この亀の水不動は、どこがどのように危険なのか解らないが、
危険で立ち入り禁止になって縄張りがしてある。
この亀の水不動について、「木食遺跡梅香庵址」として説明がある。
その前に木食上人とは、火食、肉食を避け、穀物をとらず草の根、
木の実だけをとる修業を受けた僧侶、木食上人という。

(木食上人 正禅養阿が心血を注いだ、
東海道日ノ岡峠の改修工事は、
三年がかりで完成した。しかも上人は、
峠の途中の木食寺梅香庵を営み、
道路管理と休息所をかねさせた。
掘り当てた井戸水を亀の口より落として石水鉢
(量救水(りょうぐすい)に受け、
牛馬の渇きを癒すとともに、
道往く旅人に湯茶を接待した。――後略)とある。
(京都石仏会)

解説の通り、亀の口から水が絶えず流れているが、
現在は水道の水だそうだ。
なお、量救水はなぜか東京の椿山荘にあるという。


(椿山荘にあった量救水(りょうぐすい)

亀の水不動を過ぎて、左手に石の階段が上のほうに繋がっているが、
ここに、法華宗 大乗寺の石塔がある。
階段が急だから先のほうに上りやすい道があると注意書きがしてある。
道路脇には、僅かな民家が肩を寄せ合って建っている。


(左手の階段)


(法華宗 大乗寺の碑)


(肩を寄せ合うようにして建つ民家)


(車の右手に見える「旧東海道」の碑)

道路わきの駐車場の隅に「旧東海道」の石碑があり、
道路に誤りがないと胸をなでおろす。
やがて、道路は右側の三条通り(府道143号線)と合流する。
合流箇所の左に小公園があり、
府道143号線開設の際発見された車石が、
荷車とともに展示してある。


(三条通と合流)


(発見された車石展示公園)


(当時の牛車の車輪)


(車石)


日ノ岡峠は、この先右に曲がり、
坂を下っていくと左手に京都浄水場の、
赤いレンガに囲まれた近代的な建物がある。
浄水場に沿って、道路は左折していく所に、
地下鉄「蹴上」駅があり、
ここを直進すると、南禅寺方向であると案内がある。
蹴上駅を左折する所に、ウエスティン・都ホテルがある。


(右に曲がり下り坂)


(赤いレンガの浄水場)


(赤レンガの浄水場の柵)


(左側の地下鉄「蹴上」の駅を左方向へ)

ここで旧東海道は右手の細い道に入るのであるが、
見るべきものは無く、(東山三条)の信号で合流するので、
広い三条通りをそのまま進む。

道路を道なりに進むと、
右手に「佛光寺本廟」が、「粟田焼発祥の地」の石柱がある。
また、右手には平安神宮の大鳥居が見え、
ついで左手に、「坂本竜馬 お龍(結婚式場)跡の碑がある。
京都らしい雰囲気の街並みの中を歩くと「三条白川橋」にでる。
ここには古ぼけた石柱で、
「是よりひだり、ち於んゐん ぎおん きよ水みち」とある。
(知恩院、祇園、清水道)と書かれている。


(佛光寺本廟)


(粟田焼発祥の地)


(右に見える平安神宮の大鳥居)


(「坂本竜馬とお龍」結婚式場跡の碑)


(道路は広く瀟洒な家が多い)


(白川橋)


(「ち於んゐん ぎおん きよ水みち」まで読めるでしょうか)

三条通りも以前京都に来た時よりも、道路が広くなって、
道路わきの家も瀟洒な家が立ち並んでいる。
(東山三条)の信号を過ぎると、(三条京阪)の信号。
いよいよ三条大橋で、中山道六拾九次の終着点である。


(広くなって歩道まである三条通り)


(東山三条の信号)


(三条京阪の信号)

三条大橋手前左手に「高山彦九郎正之」の裃をつけて正座し、
京都御所に向って拝礼している姿である。
高山彦九郎は、群馬県の出身で、十八歳の折より、
前後五回上洛したが、京都に出入りする折には、
この銅像のように、御所に向って拝礼した。――後略)(京都市観光課)


(高山彦九郎正之の像)

目の前に三条大橋はかかっている。
普段の日だというのに、人通りがある。
観光客が多いのであろう、橋を渡って左手に十返舎一九作
「東海道中膝栗毛」の主人公「野次さん喜多さん」の像がある。


(三条大橋)


(野次喜多の像)


ここ三条大橋は、中山道69次の終始点で、ここを出発したら、
次の宿泊地は守山宿泊まりと決まっていた。
逆に、日本橋を出発した人は、第一の宿泊地は桶川宿泊まりであった。

ボクは日本橋を出発して、
三条大橋に到着したのは49日目の13時ころ。
よくも来たものだと感慨深い。

これで「中山道ひとり歩る記」も、334回の連載でお終いとなる。
長い間読み続けられた方に、深く感謝いたします。

                           (をわり)

                      



コメント (19)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

山城の国へ入る(旧中山道を歩く 333)

2012年06月22日 13時45分45秒 | 8.山城(京都府)の旧中山道を歩く(333~33


(三又道路の中央にある魚屋さんを右へ)

(京都三条大橋へ)

日本橋を出発して、49日目でやっと京都に入った。
今日中には三条大橋にたどり着ける。
後残り6km足らずであろう。

国道1号線をまたぐ歩道橋を降りて進むと、
案内にあったように三叉路に出る。
中央に魚屋さんがあるところを右折する。
少し行くと車石の上を牛車が通る大津絵(?と思う)があり、


(車石の上を荷車が行く)

下に説明が書いてあるので紹介する。
(大津の京都を結ぶ東海道は、
米をはじめ多くの物資を運ぶ道として利用されました。
江戸時代中期の安永八年(1778)には、
牛車だけでも年間15894両通行がありました。
この区間は、大津側に逢坂峠、京都側に日ノ岡峠があり、
通行の難所でありました。
京都の心学者脇坂義堂は、文化二年(1805)に一万両の公費で、
大津八町筋から京都三条大橋にかけて約12kmの間に、
牛車専用道路として、車の轍を刻んだ花崗岩の石を敷き並べ、
牛車の通行に役立てました。これを車石と呼んでいます。)

その先の右手に「小関越(こぜきごえ)」の道標が見えてくる。
近づくと、表面に「三井寺観音道」とあり、
左面に「小関越」とあり、
右面には「願諸来者入重玄門」とある。

道標を過ぎしばらくすると、京都市の看板がある。
ここから京都市山科区に入る。


(右奥に小関越えの碑はある)


(小関越え、三井寺観音道の碑)


(右面に「願諸来者入重玄門」とある)


(三条通りがしばらく続く)


(京都市の案内)

しばらくすると六角堂の徳林庵がある。
あたかもお祈りの時で、六角道から読経の声が聞こえてくる。
南禅寺派 徳林庵と書かれている。
道路脇には、正面に南無地蔵尊とあり、
右面には伏見六地蔵と刻まれた石碑がある。


(六角堂の徳林庵)


(薄れかかった南禅寺派 徳林庵の文字)


(南無地蔵尊)


(伏見六地蔵の碑)

(おこしやす ‘やましな‘協議会)の案内によれば、
(京 東の門番 東海道の守護佛 山科地蔵徳林庵は、
旧東海道沿いに建つ寺院です。地蔵尊は小野篁作で、
1157年に後白河天皇の勅命により、
京の都の主要街道六箇所に安置された地蔵の内の1体です。
それ以降、京都に入る際の厄除けの場所、
東海道の門番として、今もなお多くの人が訪れます。
また、琵琶法師の祖として知られる人康親王、
蝉丸ゆかりの寺でもあります。)とある。

人康親王が十禅寺を開山して隠棲した所が徳林庵である。
その六角堂の裏手には六地蔵が前掛けをかけて整然と並んでいる。
また、説明にもあるように、人康親王と蝉丸の供養塔も並んでいる。
六角堂内の地蔵尊の前で、厳かに読経は続けられていた。
六角堂の隣には道路一本を隔てて、十禅寺の石碑が建っている。


(六地蔵が並ぶ)


(人康親王と蝉丸供養塔)


(十禅寺の石碑)


(六角道内の地蔵尊)

旧東海道を下ると、右手に「諸羽神社」の鳥居、
「九品山 来迎寺」の山門があり、
(山科駅前)の信号がある。
信号先右手には、メトロモールの立派な建物があり、
その植え込みに旧東海道の石碑と明治天皇御遺跡の石碑がある。
次いで、吉祥山安祥寺の石碑があり、弘誓山 當麻寺の門がある。


(「諸羽神社」の鳥居)


(「九品山 来迎寺」の山門)


(山科駅前の信号)


(旧東海道の碑)


(吉祥山安祥寺の石碑)


(弘誓山 當麻寺の門)

やがて左側に、(史跡 五条別れ道標)があり、
「左ハ五条橋 ひがし にし 六条大仏 今ぐ満(ま)きよ水道」
右面に「右ハ三条通」の石碑がある。
三条通りから五条大橋に抜ける分岐の石標になっているようである。

(史跡 五条別れ道標)の標識が解らない。
京都の人は解るが、それ以外の人には解説がないと解らない。
これでは道標といえない。
今ボクは三条通りにいる。
三条通りと五条大橋に行く道との別れ道、つまり、
分岐点ということである。


(五条別れ道標と「右ハ三条通」の石碑)

次に「左ハ五条橋」これは分かる。「左へ行けば五条橋だ」ということだ。
「にし ひがし 六条大仏」これは「西へ行っても東へ行っても六条」(?)
では無い。「六条の西、東本願寺へ行く道」という事だそうだ。
それで「大仏」とは、大仏がある方広寺のこと、「方広寺へ行く道」なのだ。
では、「今ぐ満(ま)きよ水道」は何かというと、
「今ぐ満」=今熊野(いまぐまのかんのんじ)観音寺を現し、
「きよ水」は清水寺(きよみずでら)に通じる道ということだそうである。
いずれにせよ、京都の人ならすぐ判るが、ボクには分かり難い道標である。
今熊野観音寺には、日本三大大仏と言われた立派な大仏があったそうである。

地理に明るい京都の人に解っても、道標の役にはたたない。
京都の事に疎いボクのような旅人の役に立たなければ、
道しるべにはなるまい。


(難しい道しるべ)

旧東海道は、左に緩やかに曲がり、
すぐ右に曲がりして三条通にぶつかる。
右手の東海道線の下を抜けると、
すぐ左に(陵が岡みどりの径)の遊歩道の入り口がある。
案内地図があるので、地図をよく見て、この(みどりの径)入り口の先、

初めての左折道路を左へ行く。
非常に解り難いが地図をよく見て、
旧東海道を進もう。


(左に緩やかに曲がる)


(街道の古い家を見ながら右へ曲がる)


(三条通りは右へ)


(すぐ東海道線をくぐる)


(左手のみどりの径にある地図を良く見て、亀の水不動へ)


(左の建物が切れたところの小路を左折)


(旧街道はこれを左折しよう誤りではない)
















コメント (10)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

走井 月心寺と追分(旧中山道を歩く 332)

2012年06月16日 10時03分18秒 | 7.近江(滋賀県)の旧中山道を歩く(285~3


(京阪電車:大谷駅)

(大津宿 8)
2012年4月24日快晴、気温24℃予定。
AM10時、京阪電車の大谷駅をスタートする。

無人駅の自動改札口を出て、旧東海道は左折する。
目の前には蝉丸神社の階段がある。
左折してすぐ京阪電車の線路と国道1号線を横断する歩道橋を渡る。
長いこと風雨にさらされているらしく、
歩道橋には錆があちこちに出ていて、
全体に赤茶けた色に染まっている。
歩道橋を渡り終えると国道1号線の左端の歩道を歩く事になる。


(歩道橋)


(国道1号線の左端の歩道)

大津市は算盤と大津絵が名高いそうであるが、
ソロバンも大津絵も、最早、時代から忘れ去られそうなものである。
国道に沿って歩いていくと、左手に大津市のソロバンの説明がある。
(大津市算盤(ソロバン)の始祖・片岡庄兵衛、
江戸時代、東海道のこの付近で売られていた大津算盤は、
慶長十七年(1612)片岡庄兵衛が、明国から長崎に渡来した算盤を参考に、
製造を始めたものと伝える。
同家は以後、この碑の西方にあった一里塚付近(旧今一里町)で店を構え、
幕府御用達の算盤師になったという。
なお、昭和初期まで、
この碑の場所にも同家の御子孫が住まわれていた。)とある。(大津市)


(大津市ソロバンの案内がある家)

算盤師の家の先に浮世絵にも描かれた月心寺があるが、
今は無人らしく寂れて扉も閉まったままである。
月心寺の表札も薄くなっており、読み取るのにやっとの状態である。
もちろん、有名な走井の溢れるような清流も見る事は叶わなかった。


(月心寺の家の前)


(殆んど読み取れない月心寺の表札)

石垣の塀をたどっていくと、
塀の内側に「明治天皇駐〇〇」の石碑が見える。
その隣に山に登る階段があるが、
これがどこへ繋がっているのか分からない。
階段の右横は清水が流れる溝になっており、街道からの上り口に、
「右一里丁 左大半町」と彫られた石碑がある。
このあたりに一里塚はあったのかもしれない。
中山道の134番目の一里塚で、
東海道から見れば123番目の一里塚だったはずである。


(塀の内側に見える「明治天皇〇〇」の碑)


(隣に見える階段はどこへ通じているやら)


(石碑)

その先石垣の中に階段がある。
登っていくと、「瑞東山 月心寺」の表札がかかっている門がある。
先ほどの月心寺は料亭の方の月心寺かと、勝手に決め込んで登っていくと、
階段はまだ続き、上りきったところに、お堂がある。
お堂の左奥には、茶室と思われる東屋があり、
東屋の手前に四角の井戸がある。
これが走井の井戸かと、半ば疑いながら写真に収める。
走井の井戸は、水鉢の横に「走井」と書いてあるし、
料亭の中に存在するから、これが広重が書いた
「走井の井戸」ではない。

東屋は正面から見ると、「う(雨)花亭」の額が掛かっている。
この「雨花亭」の前に、大きな手水鉢が置いてある。
やはりお茶室であったように思われる。


(石垣の中にある階段)


(瑞東山 月心寺の門)


(門の先の階段)


(お堂)


(お堂の先に見える東屋)


(走井の井戸と間違えた井戸)


(広重描く浮世絵「大津」の走井(左下)


(東屋の正面には「う(雨)花亭」の額が掛かっている)

境内には、五輪塔がいくつもあり、
きっと名のある方のお墓であろう。
そのほか境内にある石造物も、
いずれも古式でいわれの在るもののように思われる。
月心寺を出て、一路1号線に沿って進む。


(五輪の塔)


(五輪の塔2)


(五輪の塔3)


(境内1)


(境内2)

道路は下り坂で、狭い歩道を進むが、やがて道路は右に曲がり、
東海道線をガードで潜り抜けるのが見える。
その手前でおばちゃんが、草取りをしていた。
「こんにちは」と挨拶をして、通り抜けようとすると、
「旧街道を歩いているのですか?」と訊ねられる。
「ハイ」と答えると
「東海道は、そこのガードをくぐり、三階建ての交番を左折して、
追分を右へ行き、歩道橋を渡り進みます。
歩道橋には東海道の案内がある歩道橋を渡ります。
この間、同じように東海道を歩いている方にも教えました。
その方は、私の写真を撮って、コンピューターに東海道のことを
書いているので、見てくださいと、名刺までもらいました。」
「それでは、もうパソコンに載っていましたか?」
「まだです。今か今かと、待っている所です。」と言う。
「じゃあ楽しみにしていてください」と言ってお礼を述べて別れた。
ボクがPCに載せる訳でもないのに、
(楽しみに)なんて余計な事を言ってしまったと、思った。
以前通った方は東海道を歩いている人、
ボクは中山道を歩いている。
いずれどこかで接点があるかもしれない。

道路を進み、おばちゃんが言ったとおり、
左手に三階建ての交番があるので、交番手前を左折する。
左折してすぐ右手に「南無妙法蓮華経 佛立寺」の石塔がある。
なお直進する。
道路は左方に登りながら曲線を描いて行くと、道路は突き当たり状態で、
二又路になる。突き当たりにある「京都右 左宇治」の看板横に、
石柱がある。
正面に「みぎ 京みち」、左側面に「ひだり ふしみみち」、
右側面に「柳緑 花紅(やなぎみどり はなくれない)」が彫られている。
伏見街道への分岐点――つまり大阪道の追分である。
普通、東海道53次を東海道57次という場合、
ここから大阪までは、伏見、淀、枚方、守口の四宿を加えることになる。


(下り坂の東海道、右は1号線、その隣の高架は東海道線)


(東海道線の高架下をくぐる)


(東海道をくぐるとすぐある三階建ての交番)


(右に折れたすぐ右にある佛立寺)


(道路は右に曲がりながら上る)


(二股道路に出る)


(正面に右京都、左宇治の案内)


(左ふしみみちの碑)


(柳緑 花紅)

東海道は「みぎ 京みち」を進むと、追分町である。
追分町について大津市の案内看板によると、
(この地は江戸時代、東海道と伏見街道(奈良街道)の
分岐点に当たっていました。
追分の名は、このような街道の分かれ道で、
馬子が馬を追い分ける事から来たものです。
なお、江戸時代、この付近の街道沿いには、髭茶屋町、
南北追分町、追分町の三か町が並んでいました。)とある。


(追分町の案内)

道を進むと右手に櫓を乗せたお寺の門がある。
「放光山 閑栖寺」がある。
車石と大津絵、蓮如上人御蔭道中御立寄処で知られる。
車石は大津から京まで、
大八車の両輪にレールのように花崗岩に溝をつけ、
その花崗岩のレールの上で車を引いた。
ぬかるみの山道を引くより、
石の上を引いた方がはるかに楽で、早かったに違いない。
国道を施設するにあたり、大津から京まで、
大量の車石が発掘されたといわれる。
その車石が展示されている。


(櫓の載っている門)


(放光山 閑栖寺)

また、大津絵については、
「大津絵の源流 
       追分絵

追分の絵師もしらしな
         けさの春


元禄二年 和風」の石碑があり、

車石の上を荷を運ぶ大津絵が展示してある。
また、「従是西寺領(これよりにしじりょう)」の石碑もある。
(ここから西はお寺の知行地である)の石碑で、由緒ある寺院とみうけられる。


(展示されている車石)


(大津絵の元は追分絵の石碑)


(大津絵)


(ここから西はお寺の知行地)

閑栖寺を後に進むと、旧道は国道1号線が平行接近して行く。
国道をまたぐ歩道橋が二つあるが、
最初の歩道橋手前には「旧藤尾小学校跡地」の碑が建っており、
その左には、旧東海道の案内が電柱の上部に、でかでかと張られている。
この歩道橋には、おばちゃんが言った「東海道」の案内は無く、
渡るのはこの歩道橋ではない。
東海道と案内がある歩道橋を渡らなければならない。
道路を直進すると、先のほうに右へカーブして歩道橋が見える。

近づくと歩道橋の手すりに旧東海道の案内がある。
歩道橋をわたり、道路の向こう側を降りようとする所に小さく、
旧東海道左への矢印案内がある。

この歩道橋の先に、大津市と京都の分岐点がある。


(旧藤尾小学校敷地跡の碑)


(碑の先に見える歩道橋は渡らない)


(電柱の上にある旧東海道の案内)


(もう一つの歩道橋、上る前に東海道は登ると案内がある)


(歩道橋にある旧東海道の案内)


(歩道橋渡りきった先にある東海道は下るlの案内)



コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

芸道の神さま 関蝉丸神社(旧中山道を歩く 331)

2012年06月12日 10時10分37秒 | 7.近江(滋賀県)の旧中山道を歩く(285~3


(関蝉丸神社下社の碑)

(大津宿 7)
関蝉丸神社の蝉丸は、百人一首の中の一人で、ボクは子供の頃、
坊主めくりで(トランプのババ抜きのような遊び)、
この蝉丸が坊主であった。

百人一首にある歌は、
「これやこの ゆくもかえるも わかれては
            しるもしらぬも 逢坂の関」である。

謡曲「蝉丸」では、
(幼少から盲目の延喜帝(醍醐天皇885~930)第四皇子 蝉丸の宮を、
延喜帝は侍臣に頼み、僧形にして逢坂山にお捨てになった。
この世で前世の罪業の償いをする事が、
未来への助けになるとあきらめた宮も、
孤独の身の上を琵琶で慰めていた。
一方、延喜帝第三皇女 逆髪の宮も、
前世の業因強く、遠くの果てまで歩き回る狂人となって、
逢坂山まで来てしまった。
美しい琵琶の音色に引かれて、偶然にも弟の宮 蝉丸と再会し、
二人は互いの定めなき運命を宿縁の因果と嘆きあい、
姉宮は心を残しながら別れていく、
という今昔物語を出典とした名曲が謡曲「蝉丸」である。
蝉丸宮を関明神祠と合祀のことは定かではないが、
冷泉天皇の頃、日本国中の音曲芸道の神と勅し、
当神社の免許を受けることとされていたと伝えられる。)
(謡曲史跡保存会)


(「これやこの・・・」の歌碑)

境内には、紀貫之の歌碑がある。
逢坂の 関の
     しみずに影
       見えて
いまやひくらむ
      望月の駒」
                          貫之



(紀貫之の歌碑)

蝉丸神社の本殿左横には、国の重要文化財「時雨灯籠」がある。
石灯篭については、
(時雨燈篭の名称で知られる六角形の石燈篭です。
六角形の基礎には単弁の蓮華座を彫り、
その上に立つ竿の中ほどに蓮華と珠紋帯をつくり、
六角形の中台には花入単弁の蓮華が彫られています。
六角形の火袋は簡素なもので、火口を一ヶ所と小さな丸窓を設け、
壁面も上部にだけ蓮子(れんじ)を彫っています。
六角形の笠もうすく、蕨手(わらびて)はよく古式を留めています。
最上部の宝珠と請花は後補。――後略)よある。(大津市教育委員会)
鎌倉時代の特色を持った石燈篭として貴重なものらしい。
鎌倉市の寺院へ行ったらよく見てみよう、と思った。


(蝉丸神社の本殿)


(本殿左横にある石灯篭)


(時雨灯篭)

勿論、蝉丸の歌碑もある。
蝉丸神社下社を出て、旧東海道を進むと、踏切を越える。
右手に見える安養寺を過ぎて、
道路は上り坂を国道一号線と合流する。
交通量はここから格段に増えるので、充分注意が必要である。
合流地点に信号があるので、進行方向の道路右側に行く。
次の蝉丸神社上社が道路右側にあることになっているからだ。
左側には狭いながらも、歩道が付いているが、
右側には、歩行者用の白線で仕切られているだけで、
少し歩くのに恐ろしく感じる。


(旧街道をまた踏み切り)


(安養寺)


(合流直後の1号線、白線で囲まれた恐怖の歩道)

車におびえながら歩くと程なく蝉丸神社上社が右側にある。
階段を上がった所に本殿はある。
次に同じく右側に、(逢坂山 弘法太子堂)がある。
この先には歩道が確保されていて、すこし歩きやすくなるが、
すれ違う車の量が減る事は無い。


(関蝉丸神社上社)


(上社の神殿)


(太子堂)


(太子堂本殿)


(この先歩道が確保されいくらか安心)


やがて信号にでて、国道1号線の道路は左へ、
そして旧東海道は右への脇道に分かれる。
分かれ道の右角に、「逢坂山関跡」の碑と「
逢坂常夜灯」が並んで建っている。
蝉丸の歌にある「逢坂の関」である。
ここは小公園になっていて、トイレも用意してある。


(逢坂の関と常夜灯)


(逢坂の関の小公園)

逢坂の関については、京の都を守る重要な関所である三関
(鈴鹿の関、不破の関、逢坂の関)の一つとして、
弘仁元年(810)以降、重要な役割をしてきましたが、
平安後期からは徐々に形骸化されその形を失ってきました。
逢坂の関の位置については、現在の関蝉丸神社上社の周辺にあったと、
言われていますが、いまだその位置は明らかになっていない。

また、百人一首では、蝉丸の和歌のほかに、清少納言の
夜をこめて 鳥(とり)の空音(そらね)は はかるとも
            よに逢坂の 関はゆるさじ
」(後拾遺集)

があるそうだが、昔の人は難しい歌を詠むものだ。
浅学のボクには意味がよく解らない。

清少納言は「枕草子」を著わした才媛で、知識が豊富すぎて、
故事などを織り込んで歌を詠むから、
ボクのような凡才には、とても理解に苦しむ。

歌の意味は、
(夜がまだ明けないうちに、鶏の鳴きまねをして、人をだまそうとしても、
函谷関(かんこくかん)ならともかく、逢坂の関は決して開きませんよ。
=だまそうとしても、決して私はあなたに逢いませんよ。)という意味。

(*)鶏鳴狗盗の故事:(史記にある故事):
          猛嘗君が秦国を脱出するに当たって、
          函谷関を通ろうとしたが、鶏が朝を告げるまで関を開かないので、
          家来に鶏の鳴き声を真似させ、だまして関を開かせた。)

妙なところへ脱線してしまった。
国道一号線から分かれて、脇道に入るが右手に逢坂の関跡を見て、
坂を下っていくと右手にもう一つの蝉丸神社があり、
左手に京阪電車の大谷駅がある。

蝉丸神社は右手の石段を4~50段登った所にある。
石段下には、三条まで続いたという車石の花崗岩が展示してある。
少し行くと左手に京阪電車の大谷駅(無人駅)の改札かある。


(国道1号線と別れた旧東海道の脇道)


(蝉丸神社)


(階段を登った所に本殿はある)


(展示してある車石)


(京阪電車「大谷駅」)

時間はPM14時のため、本日はこれで帰京する事にした。
家に着いたのは21:10であった。
本日の歩行数48516歩=約30kmであった。


コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする