(下諏訪宿本陣・岩波家の門構えと、左に見える明治天皇の石碑)
(下諏訪宿2)
スタートとなる本陣家を訪ねる。
道路にはみ出た下諏訪宿本陣の看板が目に付く。
その看板の下に立つと、古い門構えと「明治天皇御小休所」の石碑が、
そして門内のよく手入れされた庭がまぶしく光って見えた。
門をくぐり飛び石伝いに中に入ると玄関があり、奥の壁に
その昔宿泊された大名の名が書かれた看板が並んでいるのが目に付く。
入館料金四百円也の見せ場といおうか。
(母屋に続く飛び石、庭が綺麗に手入れされている)
本陣に宿泊されると必ず大名や公家様の名を書きだしたとは、
島崎藤村の「夜明け前」で読んだが、その実物を見るのは初めての体験である。
墨こん鮮やかとはこのことだ。
(玄関に置かれた宿泊者の名札?)
看板には右から、
米沢中将泊
加賀宰相旅宿
彦根少将宿
仙台中将寓
越前前中将室休(越前前藩主:松平春獄の奥様のことか?)
尾張大納言殿宿
松平加賀守旅宿
××××××
ボクのつたない知識では、最後の一枚は読むことができない。
現代でも旅館の前に黒地で白く大きく書いた
「○○様ご一行」と本人が見ると恥ずかしくなる看板の元祖なのであろう。
ひょっとすると旅館側では、お迎えするお客様を大名か公家として扱い、
お客様に優越感を味わわせる積りなのかもしれない。
この玄関の左手に古ぼけた小机が置いてあり、
ここで入館料を徴収するのであろうが、誰も居ない。
開館9時とあったので問題は無いはずである。
時代劇の見過ぎで、
「たのもう」と大声を出したら、消え入りそうな声で
「少しお待ちください」と聞こえる。
お手洗いにでも入っていたのだろうか、
しばらくして、頼り無さそうな白髪のばあちゃんが出てきて、
「いらっしゃいませ」という。
「四百円ですね!上がってよろしいのですか?」とボク。
「どうぞ」というが、なんか頼りない返事で、
少し躊躇したが、靴を脱いで、
いつもはしないのに靴脱ぎのうえに脱いだ靴を
帰りに履きやすいように向きを変えて揃えたら、
数人のお客さんが来た。
「こちらです。入場料は」とボクが案内すると、ばあちゃんが
「座敷に進んでください。後で説明しますから」という。
このばあちゃんが説明を?するのかとやや頼りなく思ったが、
いざ説明に取り掛かると、立て板に水を流したごとくに話し出す。
この本陣の庭は「中山道随一の名園と言われるので、立ち寄って見よう」と案内書にある。
(通された座敷:茶室)
玄関から奥に通ると、縁側の角の柱を取り払った座敷があり、
これが茶室で、その前には滝から流れる池があり、
滝の奥には社があって池の手前には平らな石があり、
そこに座してお祈りをすると言う。
(美しい庭園、左の柱は庇で支えているので座敷には角の柱が無い)
ばあちゃんの説明によれば、
「この庭は、日本各地の名石を集め自然の地形の利用して
作庭された本格的築庭式石庭園で、東西の山や諏訪大社秋宮の森を借景にして、
間に何も見せないよう、深山幽谷の趣に作庭されていますが、
今は向こう側に家が建ちその借景も見えません。
滝の水は諏訪神社秋宮の南方を流れる承知川上流より取り入れ、
本陣用水として石垣で囲まれた屋敷の周囲を流れていたが、
その水の一部を屋敷中央に通し池の水に用いている。
春のつつじ、新緑、初夏のアヤメ、さつき、秋の紅葉、
雪景色と四季折々に見所を変えます。
池は心字池をかたどっており、滝の隣にある低潅木のサツキは2m余あり、
成長の年月の長さを物語るとともに庭の歴史の長さを物語っている。」
この茶室で皇女和宮様や明治天皇がお茶を召し上がり、
ご休息になった場所であるという。部屋は11畳と奇数の畳部屋が二部屋続き、
一方の部屋の隅には和宮様がお使いになった茶道具が陳列されている。
(和宮ご使用の道具)
東京大学の建築史教授によれば、
「本陣岩波家の客室と庭ほど洗練された京風数寄屋造りは、
京都の大工によるもので、他に類を見ない大胆な構成美の創造は、
並みの工匠の成すところではない。
細部の洗練さは桂離宮を思わせる」
と絶賛している。
(古い土蔵)
座敷の奥の間に入ると納戸のように感じるが、
窓ガラス越しに見える土蔵は江戸時代から続くものだそうで、
古風な年月を忍ばせる扉が二箇所、口を開けていた。
敷地面積千八百坪、主屋建坪二百八十坪あったといわれる。
その大きさは通常の宿場町の本陣の二倍に近い。