中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

元庄屋のお屋敷・本亭旅館(旧中山道を歩く 136)

2008年07月02日 16時00分04秒 | 4信濃(長野県)の.旧中山道を歩く(110~1


(古い建物)

(和田宿5)
和田宿本陣が宿場の中心地であろう。
本陣を通り過ぎると時代を思わせる建物が続く。
やがて左側に「本亭旅館」の看板がぶら下がっているのが見える。
今日の宿泊旅館である。電話で予約したとき、
「古い建物の旅館です」と言われたが、
本当にこれが旅館?と思われる建物であった。
案内書によれば、もと庄屋の家を誰かが買い取って
旅館を営んでいるとあった。

武家政治の下請けとして村や町の代表者であった庄屋・名主の役割は、
村民町民の法令遵守・上意下達・人別支配・
土地の管理などの支配に関わる業務を下請けした。


(本亭旅館、年代ものの松、崩れかかった屋根)


(本亭旅館の屋根付段違いの黒板塀)

そのお屋敷は、予想はしていたが予想以上に古い建物であった。
いにしえの趣は玄関先の年代ものの松や、
その隣にある屋根が崩れかかった門、
それに続く屋根付の段違いの黒塀で十分感じられる。


(旅館のお向かいの脇本陣)

道路を挟んで正面がバス停と脇本陣になっているが、
その両方ともよく手入れされ真新しく感じるのとは好対照の古さである。


(車の後ろが本亭旅館入り口)

玄関の引き戸を開けて、案内を乞う。
昔ながらの高い上がりかまちの先が畳の部屋で、
左側の部屋の先に階段があり、
その奥に座敷が見える、ご主人と思しき人が出迎え
「いらっしゃいませ」。

右側にも部屋があり、板の襖?がその部屋の出入り口になっているようだ。
右奥はどうやら通路になっていそう。
正面奥の部屋の前にはよしずが架かっており、奥を遮断している。

昔とった杵柄で、玄関に入るなりそこまで観察した。
もちろん人を見る目は誰よりも鋭い。
宿の主人は温厚そうであるが、それでも客の足元をしっかり見る。
これも仕事のうちだからしょうがない。
変なお客にでも泊まられたら、宿泊代を頂くことはおろか、
挙句の果てにお金を添えなければならない時だってあるのだ。
それどころか心中でもされたら、お店の評判にもかかわる。

「電話で予約したH.B.ですが、今夜一晩お世話になります。」と言うと、
亭主よく観察したらしく、にこやかに安心したように、
「いらっしゃいませ、どうぞお上がりください」という。
もう夕方の5時近い。長久保宿から歩いて約8kmであるから、
普通の人は90分くらいで歩いてくるらしい。ボクも普段の散歩なら、
そのくらいの時間で歩くのである。
その道のりをボクたちは二人は倍の180分掛かって到着した。

「ずいぶんごゆっくりでしたね」と宿の亭主。
「史跡を見ながら、考えながら歩くものですから、
通り過ぎたところへまた戻ったりして時間が掛かりました。」とボク。

「長久保からの道のりは判りにくいですね。
どれが旧中山道かわからないところがありますね」
「案内は きちんとなっているはずですが」という。

きっと最新の案内は、薄いブルーの矢印で出来ているのだろうが、
古い案内板がそのまま残っているので、どちらを採ったらよいか判断に苦しむ。

「案内書に寄れば、和田峠もわかりにくそうですね」というと、
「お客様に聞くと、案内表示はきちんと出来ていると聞きます。
下諏訪宿まで5時間ほどで歩けるようですよ」と宿の亭主。
しかし22kmの山道を五時間で踏破できるとは、ボクの足ではおぼつかない。
第一標高差800mある山道だ。
碓氷峠の経験からどんなに早くても7時間は最低必要である。
山道は何があるか解からない。


(高札に書かれていた内容)

「高札場があるそうですが、それはどこですか?」
「この先200mほど右側です」
和田宿は、本日中に見学しておき、明日は和田峠の山道に専念したいので、
先に高札場を見学、正徳年(1711)の高札六枚などどこかに残っているらしい。
高札を読むと、
「旅人は笠などかぶりものを取るのが慣わしであった。」とあり、
思わず帽子に手をかけ、取ってしまった。
正徳年間の高札については、
当然法令遵守(今風に言えばコンプライアンス)の役目は庄屋にあるのだから、
今夜泊まる本亭旅館にその現物はあるに違いない。
そう考え高札を楽しみに旅館に帰る。


宿に帰り靴を脱ぐや亭主が待ってましたとばかり、
旅館内を案内しますという。
まず玄関を上がるとすぐ右のほうへ廊下を渡り左折して、
長い廊下を行くと突き当りの右がお手洗い、
これは水洗でなくポットントイレ。
その手前が洗面所(普段は共同であるが今日は貸切)その手前がお風呂、

「熱かったらどんどん埋めてください。湯上げタオルはお使いください。」
ゴルフ場のお風呂のように湯上げタオルが積み上げてある。
そこまで案内が終わると、次が食堂と紹介される。

本日の寝室は、二階への階段を上がって、
廊下を抜け西日が当たる角部屋に案内された。
もちろん部屋の仕切りは唐紙の襖。
通り過ぎてきた廊下脇の部屋は3室。
それに泊まる部屋の東側にもう一室ある。
廊下はミシミシ音がして、夜中にトイレに起きると、
この音でみんな起きてしまうだろうなと余計な心配をする。
今日はわれら夫婦以外の客はいないのに。

「夕食は七時ころから、朝食は朝の七時ころで、
どちらも用意が出来ましたらご案内します。」
「とりあえずお風呂をどうぞ」と言う。

部屋に入ると、もう布団が延べてあり、浴衣が置いてある。
汗をかいたので、早速風呂へ。


(本亭旅館)




和田宿と信定寺(旧中山道を歩く 135)

2008年06月29日 07時50分43秒 | 4信濃(長野県)の.旧中山道を歩く(110~1


(和田宿入り口)

(和田宿4)
和田八幡社で中山道は右のほうへ曲がって坂はさらに上っている。
道路の先を見ると周りの人家の様子が、
昔はこんなであったろうかと想わせる雰囲気――時代劇の宿場の街並みになる。


(「かわちや」ー歴史の道資料館)


(かわちや2)

清流が流れる依田川を渡った右手に「かわちや――歴史の道資料館」、
その奥に黒曜石石器資料館があるが、残念ながらPM16:00で閉館とある。
時計を見ると16時を僅かに回ったところであるが、これほど人の姿を見ないということは、
本日の訪問者は皆無に近いに相違ない。午後四時を待つように閉館しても仕方ない。

そもそもボクの都合で、しかも梅雨いりしたばかりの雨の合間を縫って、
前後は雨の予報で、たった二日間の晴れ間を、
これ幸いと出かけてきたのだから訪問者がいないのも仕方が無い。

旅館を予約したときも、おかみさんらしき人から
「中山道を歩かれるのですか?天候は大丈夫ですか?」と念を押されたくらいである。
後で判った事だが、
旅館の予約はボクたち夫婦二人以外に宿泊客は無かったなかったのである。
この梅雨のシーズンに中山道最大の難所である
和田峠(標高1600m)を下諏訪まで22km歩こうと思う人はいないに違いない。
もっと気象条件のよい時期を狙うのが普通だ。
気象庁の予報に加え、テレビに流れる低気圧の動きを判断して、
この二日間に雨はないと勝手にボクが判断して実行に移した。


(いにしえを想わせる街並み)


(古い家)


(古い家2)


(古い家3)

街道を進むと左側に和田宿本陣が再現されて見学可能であるが、
これも時間外で外から見るだけであったが、
見るからに重厚なつくりで、見学できないのは大変残念であった。
本陣正門前にある説明によれば、(要約ですが)


(本陣)


(本陣のご入門)


(本陣・屋敷)

「和田宿本陣は文久元年(1861)の大火で焼失してしまったが、
同年皇女和宮降嫁に備えて再建された。
その後明治期に座敷棟は丸子町龍願寺へ、
また座敷棟の前にあったご入門は丸子町向陽院へと移築された。
ここにある門は実測調査して作成復元した。
平成元年「潤いのあるまちづくり」優良地方公共団体表彰を受けて再建した。」
(長和町教育委員会)


(信定寺の本堂、裏山が和田城跡)

宿場をさらに進むと右奥に信定寺(しんじょうじ)があるのでよって見る。
信定寺は大井信定の「信定」をとって命名されたものであろう、
「信定の菩提を弔うため天文二十二年(1553)に建立された。
徳川時代、例幣使日光参詣の途中、和田宿に泊まり京都二条城殿祈願寺となり、
諸大名参詣する。
江戸時代十四代住職活紋禅師は幕末の士、
佐久間象山の師と仰がれ、その徳を慕い来るもの千余人、
象山と一対一で世界を語ったといわれる。寺の裏山は和田城跡」と
寺の由来に書かれている。


(信定寺の山門兼鐘楼)

また、鐘楼は二階建ての上の部分にあり、山門をかねている。
これに似た門は桶川宿の浄念寺にあったのを思い出す。
鐘の音は村の人々の心のよりどころとなってきたに違いない。
山門を兼ねたこの鐘楼は柱が細身、
やや腰高でいまにも倒れそうな不安定さを感じさせる。
屋根の上にシャチがいるのも、なにやらお城のようで、
裏山の和田城を連想させて面白い。

鐘楼門の右脇に虚空菩薩像が安置されている。
虚空菩薩とは、字のごとく虚空を蔵する。
つまり宇宙のすべての知恵と慈悲を蔵する仏であることから、
念ずれば記憶がよくなり学力が向上するといわれる。


(中央が虚空蔵菩薩)

しかしボクの経験からは、
学業は神仏を念ずるようでは、向上はおぼつかない。
人は生まれながら同じように平等にすばらしい能力を与えられている。
ただ、その能力を磨き続けることが出来るかどうかによって、
出来る人出来ない人の差がでてくると思う。

ことわざに「小人玉を抱いて磨かず」とある。
せっかく良い頭脳を親から貰って生まれてきたのに、それを磨こうとしなかった人と、
向上の意欲を持って磨いた人とでは格段の差が出来ることを知ってもらいたい。

70年経っていまだに磨き続けて、少々玉が磨り減って小さくなってきたが、
ボクの経験では磨き続ければ、招きもしないのに、
思わぬ幸運が向こうからやってくることを覚えておいて欲しい。

話が脱線してしまったが、
いずれまた時間を見つけて和田宿を訪問し、
歴史の道資料館も
黒曜石石器資料館も
本陣なども見学することにしようと思う。


(信定寺門前から見た道路)



若宮八幡宮と和田八幡社(旧中山道を歩く 134)

2008年06月25日 06時11分59秒 | 4信濃(長野県)の.旧中山道を歩く(110~1


(神社らしき杉の大木が見える、これが若宮八幡神社)

(和田宿3)
三千僧接待碑を通り過ぎてしばらくすると、左側に杉の木が数本
まとまって高く生えているのが見える。
田舎の神社や寺院がある証拠である。
近づくと神社手前の道路左脇に地下道が作られており、
「東餅屋(和田峠)地下道をくぐる」と案内看板が出ている。
地下道の左先にこの杉林はある。


(地下道)


(地下道入り口と案内表示板)


(子供の作品と思われる可愛い壁画)

地下道をくぐると、地下道の壁には近隣の中学生が書いたものか
草花の絵とその名前が描かれている。十メートルほどで地下道は出口になる。
何のことは無い道路を地下で渡るようになっているだけである。
地下で渡った道路は二車線の車道であるが、
きっと道路を車が数珠繋ぎで通って横断するのに危険を伴うか、
あるいは以前、この神社へ参拝するに当たって通行した人の死亡事故でも起きているのかもしれない。
(あるいは自治体のただ単に予算消化のために作ったものかもしれない)
しかし、今は車はおろか自転車も人も通らない。
静かな道路である。
朝とか夕方にはきっと沢山車が通るに違いない。
(どう見てもラッシュになりそうも無いが・・・)

さて、地下道を出ると中山道はこちらと矢印が下を向いている。
向いた矢印の方向を見ると、田舎のあぜ道よろしく草は生え放題の
農道が続き、その道路は山裾に入っている。街道にしては狭すぎる。
中山道はもともと2間の広さで造成されているはずであるから、
どうも農道に見える道とは違うと判断して、
広いほうの今まで歩いてきた延長線上を行くことにした。


(若宮八幡神社)

左脇の神社は若宮八幡神社と言い、
和田城主の大井信定父子の墓がある由緒のある神社である。

説明によれば、
「本殿は、一間社流造の間口1.5m、奥行き1.7mの大きさで
棟札には享保六年(1721)建立とある。――中略――
天文二十三年(1555)和田城主大井信定と武田信玄が矢ヶ崎で合戦、
信定父子始め、一族郎党ことごとく戦死しその父子の首級がここに埋葬された。」(長和町教育委員会)


(若宮八幡の反対側にある神社)


(埃だらけで苔むした何の神社か?)

道路反対の右奥の山すそに鳥居があるので寄ってみる。
杉林の前にある神社には、苔むした石の階段を上がらなければならない。
本殿を見ても何の神を祭ってあるのか良く判らない。
土地の氏神様であろうか?


(一里塚後跡の石碑まだ新しい)

道路を進むと、左手に「中山道一里塚」の石碑がある。
日本橋より49番目の一里塚(芹沢の一里塚)である。
この石碑はまだ新しく、最近建てられたもののように見える。
そのように考えると旧中山道は、さっきの草が生えた道なのかもしれないと疑念がわくが、
人の気配すらない田舎道では、どちらが正しいのか訊くことも出来ない。

進んできた中山道は右側に人家がありさらに右奥には山が迫っている。
やがて山との間に人家が無くなり、道路は山すそに沿って進むようになる。
左側に国道142号線と並行するようになると、道は急な登り坂となる。
二百メートルほどで道路は二股に分かれ、
左道路わきに「是より和田宿」の大きな石碑があるのが見えるので、左側の道を採る。
進むと右側に和田小学校、和田中学校があり、
その二つの学校の間に大きな石の鳥居があり和田八幡神社とあるが、
神社らしきものがその鳥居の奥に見当たらない。


(急な上り坂)


(左の道をとる)


(和田宿の立派な石碑)


(和田中学横の鳥居)

さらに進むと右側の一段高いところに八幡神社がある。
ここにも鳥居はあるが、先ほどの石の鳥居との関係が良く判らない。
神社が道路に接近しすぎているところを見ると、
昔は先ほどの大きな鳥居があったが、中山道を通すことになって、
鳥居だけ移動させたのかもしれない。

この八幡神社の境内にはこんもり盛り土をした土俵とけやきの大樹がある。
夏祭りにはちびっ子相撲でも開催されるのか、土俵の円は小さい。


(和田八幡社の鳥居)


(和田八幡の本殿と土俵)

本殿脇にある説明板によると、
「長和町指定文化財の八幡社本殿は、かって和田城主大井氏の
居館の鬼門除けに作られたとの伝承がある。
白木造り一間社流造の本殿は、間口1.7m、奥行き1.8mの大きさで、
蟇又に巴の紋所が入っており、妻の大瓶束が軍配団扇形となっているのが特徴である。
全体にすっきりした建築で十八世紀前期の建築と推定される。
拝殿と覆殿を併合した入母屋造りの建築も珍しい。」(長和町教育委員会)
とあるが何のことか良く判らない。

建築用語については、次のように調べましたので、ご覧ください。

建築用語の解説図を載せますのでご検討ください。


(建築用語の解説図)

・用語について

(本陣)

・一間社:(上の写真で、もし上に神社の屋根があるとして)両方の柱の上に横たわる桁の長さが一間あると一間社、三間あると三間社と言う。


(本陣のご入門)

・流造:門の屋根が直線でなく、流れるように反って流線型になってなっているのを「流造り」という。(上の写真)

・妻:屋根の山の形をした側を「妻」といい、上から下に屋根が下りてきた平らなほうを「平」という。

・妻入り・平入り:妻側に入り口がある建物を「妻入り」、平らなほうに入り口がある建物を「平入り」という。

・妻にある大瓶束(たいへいづか)とある「大瓶束」については下記URLを参照してください。

http://www.kcn-net.org/senior/tsushin/kokenchiku/mon/yotsuashi/taiheitsukashosai.htm


・入り母屋造り:妻の下へさらに屋根が続くのをいう。(写真下参照:妻の山型からさらに屋根が平らにつながる)







三千僧接待碑(旧中山道を歩く 133)

2008年06月21日 09時03分25秒 | 4信濃(長野県)の.旧中山道を歩く(110~1


(種を取るためであろうか、ねぎぼうずが見事だった。)

(和田宿2)
ミミズ道祖神の先に三千僧接待碑の石造群がある。
説明によれば、
「信定寺(しんじょうじ、和田宿にある)別院慈眼寺境内に建立されていたものが、
寛政七年(1795)この地に移された。
諸国遍歴の僧侶への接待碑で
一千人の僧侶への供養接待を発願して見事結願し、一躍二千を増やした。
三千の僧侶への供養接待を発願したと碑文に刻まれている。
碑を見れば誰の目にもわかるように
一千僧の「一」の字を三千僧の「三」の字に改刻した痕が歴然としている。
当時三千という僧侶への接待用の食べ物は米飯ばかりでは到底賄いきれないところから
麦飯、麺類、粟飯、ひえ飯等雑穀にても賄い、
更に天保年間の六年に渡る凶作続きの際にはジャガイモの粥などで
賄ったことがあると言われている。」(和田村・長野県・文化庁)


(三千僧接待碑)

なるほど、説明を読むとわかるが、「三」の数字が、
あまりにも上のほうに詰まって刻まれており、
「一」の上に「二」を足したことがよく判る石碑である。
集落を過ぎて行くと、大きな馬頭観世音の碑が一段高いところに見ることが出来る。


(馬頭観世音の碑)


(馬頭観世音の碑2)

一日に何人の僧に接待したのか良く判らないが、
少なくも天保の六年間とあるから六年以上はあったと思われる。
この碑が寛政七年(1795)にこの地に移されたとあるから、
そこから天保六年(1835)までと仮定しても、
実に40年掛かっている。

世界には、千円で何人もの子供の命が救われる地域もあるというのに、
日本では、たった一人の役人に数億円単位の接待をする会社があって、
検挙された事件があるが、少しはお布施にでもまわしてほしいものである。
金に目がくらんだ亡者どもを、どうぞ神様仏様、彼らを改心させてやってください。
そして不幸な子供たちに幸せを分け与えて下さいますよう、お願いします。

分相応の生活に満足し、毎日の生活の中から、
つめに火を灯すようにして倹約できたお金を蓄えて、
報われない子供たちに、寄付をしている人もいることを忘れないで欲しい。

三千僧接待碑の説明を見ながらそう思った。


(中央が虚空菩薩像)



みみず道祖神(旧中山道を歩く 132)

2008年06月17日 09時37分42秒 | 4信濃(長野県)の.旧中山道を歩く(110~1


(古い建物)


(街道の町並み)

(和田宿)
追分で左折した中山道は、しばらく古い家並みを通り抜け、
やがて国道に合流する。信号を渡った先に左和田宿5.9km、
東餅屋(和田峠)16.7kmの看板がるので進むと、すぐ次の案内看板にであう。
ここには東餅屋16.6kmとあり左折の矢印になっている。


(5.9kmの案内)


(左16.6kmの案内。後ろに見える広い通りへは行かないで手前の狭い道を行く)

国道を行かずに手前の狭い道を進む。
道路は国道と平行しており、途中道祖神がある大きな木の下を通過するが、
道は突き当たりになっており、道を間違えたかと思う。
しかし案内標識があり、その案内に沿って歩くと、国道に合流するようになる。
前方が開け景色がよく見渡せる。
田んぼと畑、先に町並み、その先に山が待ちうけている。


(木下の男女仲良い道祖神)


(前方に開けた景色)

合流した国道を歩くと、やがて「大和橋」の信号に出る。
道路はY字路になっており、案内書に寄れば、この信号を左折しその先を迂回して、
やがてまた国道に合流するようになっているが、
Y字路の右側の道を見ると
「中山道 これより 和田の里」の大きな石の案内があるので、そのまま国道のほうに行くことにした。


(「大和橋」の信号)


(中山道これより和田の里)


(萱葺きのバス停)

その先に茅葺の一軒家を小型化したバス停があり、
軒先に竹筒の先から清水が流れ落ちている。
カップも置いてあり、先客が水を飲んでいる。
冷たそうで美味しそうだったので、ボクも試す。
今日のカンカン照りにはもってこいの美味しさである。

この和田峠越えは、持病のあるボクの体を心配して、カミさんが同行している。
口うるさくて、心配性で、実際には足手間問いなのであるが、
ボクの身を心配してくれることに感謝して、同行してもらっている。
そのカミサンが、「お腹壊すから、一杯で止めて置いたら」と言う言葉に従った。


(鉄橋が見える「青原」の信号)


(水明の里)


(ブルーの案内看板)

さて、日照りの中山道を進むと、前方に鉄橋が見え、手前に「青原」の信号がある。
信号右側に「水明の里」の大きな案内表示と共に緑の芝生と石材を置いた公園がある。
公園脇に「中山道」と右矢印のブルーの案内表示があるのを見つけ、「青原」の信号を右折する。
今後はこのブルーの案内看板が和田峠の案内役になる。

すこぶる役に立った。

公園の奥には、休憩所のあずま屋と、旧中山道の地図が置かれ、
地図には「和田峠の東餅屋」先まで書かれたており、脇には石塔群が建っている。
この公園の脇を中山道は進む。


(石造群と奥に見える休憩所)


(木曽街道のマンホールの蓋)

どこまでも続く炎天下の田舎道をただただ進む。
両脇に民家はあるが、お昼寝でもしているのか、人が出歩いていない。
「木曽海道 和田」の浮世絵が描かれたマンホールを時々踏み越えていく。
和田宿までどこまでも同じマンホールの蓋が置いてある。
水量が豊富らしく、勢いよく流れる水の音が聞こえる。
さすが「水明の里」と名づけた土地と感心する。
このあたりは静かで、水の音と水田の蛙の合唱以外はあまり音が無い。
のどかな感じがするが、田舎道はほこりが無いせいか空気が綺麗で、
太陽光線もまともに降り注いでくるから、暑いことこの上ない。
道路わきに馬頭観音像に沢山めぐり合う。


(馬頭観音)


(馬頭観音2)

(馬頭観音3)

馬頭観音は江戸時代、馬の守護神として信仰された。
街道を往来する荷駄は馬の助けによるもので、馬なくして商いは広く行うことが出来なかった。
現代で云うトラックの役割を果たした。牛馬が流通に果たした役割は大きい。

しばらくすると「みみず道祖神」が左側にある。
この道祖神は、まだ新しい。

(かわいらしい姿のミミズ道祖神)

説明によれば、
「この記念碑は、ここ(みみず)地区に住む人々の希望により祭られました。
蚯蚓(みみず)は、土壌動物の代表で、みみずは枯れた落ち葉や木の枝をよく食べ糞をします。
その糞が「土」となり、生まれたばかりの土にはよく植物が育つのです。

少し残酷ですが、「ミミズの干物」を作り、解熱剤として煎じて使いました」とある。
日本語と英語と韓国語の説明がついている。

話としては面白いが、何のことは無い土地の名前を観光資源にしているのだ。
地方の活性化のための商業主義が見え隠れする。

もっとも、説明の最後のくだりはボクの子供のころ、
熱さましにミミズの干物を煎じて飲まされたことがあるが、
ミミズが煮干のようにカリカリに乾いていたことを思い出す。

よく効いて漢方薬として貴重なのであろう。







長久保宿本陣と「うだつ」(旧中山道を歩く 131)

2008年06月14日 09時21分11秒 | 4信濃(長野県)の.旧中山道を歩く(110~1


(長野新幹線 上田駅)

(2008年6月10日時の記念日(快晴、気温27度予想。
旧中山道を再スタートするに当たって)

日本橋から中山道を歩いて、順番では長久保宿から次は和田宿に入り、
その先の下諏訪宿に行くのが普通である。
和田宿から先は、標高1600mの和田峠があり、その峠は下諏訪宿まで、行程約22kmある。
標高1600mというものの、実際には標高差800mほどで、
それも12km歩くと峠に出るというから、
1mの高さを登るのに15mあるからそれほど困難では無さそうだ。
それにしても、山道を22kmというと、旧道を探し探し、
しかもボクのように史跡があれば立ち止まって、昔をしのび考えながら歩く者には、
どうしても丸一日が必要になる。
そのため前日には和田宿で一泊は必要であり、
今までのように、今日は天気がよいから出かけようなどと簡単にはいかない。
どうしても二日間好天に恵まれた日が続き、
しかもボク自身の用事の無いときでなければ出かけることができない。

昨年10月から立春までは日が短く、仮に朝早く出ても夕方17時には暗くなってしまう。
さらに3月ころまでは寒さと残雪に悩まされそう。
まして今年(2008)は天候不順で、4月になり少し暖かくなってきたと思うと、
今度は雪が降りなどして、出かける機会が無く過ごした。
好天が続く日は、ボクに所要があって出かけられず、とうとう5月も終わりに近づいた。
止むを得ず和田峠越えは後回しにして、その先に歩を進めないといつまで経っても、
旧中山道を完歩することはできない。

なかなか機会が無いと嘆いていた和田峠を歩くチャンスが、思ったより早く巡って来た。
条件は、天候に恵まれた二日間で、ボクの野暮用が無く、和田宿で旅館が取れる日、
しかもカミさんの用の無い日。
6月10・11日がその日に当たる。
そこで一度飛ばしかけましたが、やはり順序どおり旧中山道をたどりたいと思います。

日本橋を出てから通算二十五日目、長野新幹線 上田駅からバスで一時間。長久保宿に到着。)


(バス停 上田市は真田幸村の郷 六文銭の家紋が見える)

(長久保宿2)
田舎道では滅多に人に出会わない。会うのが珍しいくらいである。
長久保宿では、犬を散歩に連れ出している人に出会った。その時、
バス停の位置をお訊ねしたのである。男性は、
「この道を行くと、道路がT字路になり、
突き当たりに(よねや)左側に(濱田屋)の旅館があります。
(よねや)は営業していませんが、そのT字路を右折したところにバス停があります。」と教えてくださった。
そのバス停に14:30に到着した。中山道を少し戻ると、立派な黒門の家まで歩く。


(長久保宿のT字路突き当りに「よねや」が見える)


(大きな木のある黒門の家)

このあたりが長久保宿の中心地なのかもしれない。
このT字路に突き当たる手前の右側に、黒い大きな門構えと庭に大きな木が生えている家である。
門に近づくと左側に大きな看板が建っており、
「長和町指定文化財 長久保宿 旧本陣 石合家住宅」とある。

説明によれば、
「江戸初期の本陣建築で、大名、公卿等の宿泊した御殿の間と呼ばれる
上段の間、二の間、三の間入側等を現存する。書院様式で、大柄な欄間意匠には、
寛永前後(1624前後)の風格がしのばれ中山道旧本陣中、最古の建築として貴重である。
寛永三年(1850)の本陣絵図には、上段の間ほか客室、茶の間、台所等
二十二室が主要部分で、ほかに問屋場、代官詰め所、高札場を併設し、
ご入門ほかいくつかの門、御番所二ヵ所、お湯殿四ヶ所、雪隠七ヶ所、土蔵、馬屋等があった。
旧本陣石合家には、江戸初期よりの古文書、
高札等貴重な文書、資料が数多く残されている。」(長和町教育委員会)とある。


(長久保宿本陣の門)

黒門の横に通用門が開いていたので中に入ってみると
「Close」と書いた看板が庭の苔の上に無造作に置かれていた。
庭は手入れが行き届いていて、普段は公開されていると思われる。


(本陣の庭)


(白壁がつながる釜鳴屋)

その先同じ右側に白壁の塀が続き、「うだつ」が上がった家がある。
玄関先に元酒造業を営んでいた「釜鳴屋」の看板がある。

説明によると、
「釜鳴屋(かまなりや)は、寛永時代より昭和初期まで酒造業を営む。
この住宅の建立年代は江戸前期といわれるが不詳である。
大きさは間口九間半(約17m)奥行き十間半(約19m)
正方形に近い形で建坪約百坪(330平方m)――中略――

屋根には「本うだつ」が上げられている。
「うだつ」については、多くの論考があるが、機能については、
防火のためと格式の表示のためと二論ある。
「うだつ」にはここに見るような「本うだつ」と2階の軒下部分の「軒うだつ」と二種類ある。

竹内家には、笠取峠立場図版木と宿場札の版木もあり
文化財として指定されている。」(長和町教育委員会)
(笠取峠と中山道原道(旧中山道を歩く129)の浮世絵の大きなタイル絵参照)


(二階の屋根に取り付けられた「うだつ」)

説明のように「うだつ」は「卯建」とも書き、防火壁でもある。
後には装飾的な意味に重きが置かれるようになる。
自分の財力をアピールする為の指標として関西地方を中心に商家の屋根上には
互いに競って立派な卯建がつけられたと言う。


(反対側から見た「うだつ」は家の両側にある)


(「本うだつ」を持つ釜鳴屋、元酒造業)

子供のころ、間の抜けたことをしていると、
「それだからお前はうだつが上がらない」などと、よく親にからかわれた覚えがある。

「卯建が上がらない」とは、出世が出来ない。身分がぱっとしない事を指す。
富裕の家でなければ、「うだつ」を上げることが出来なかったことから転じたといわれる。(広辞苑)

中山道はT字路に突き当たるが、突き当りに「よねや」旅館、
手前左側に旅館「浜田屋」、右に折れた右側に「長久保新町道路元票」と
「左ぜんこうじ 中山道 長久保宿 」の道しるべが並んで建っている。

ここは追分で、中山道はここで左折する。


(旅館濱田屋を左折する)


(濱田屋の反対側にある道標と道路元標)




長久保宿(旧中山道を歩く 130)

2007年12月19日 17時39分16秒 | 4信濃(長野県)の.旧中山道を歩く(110~1


(広い道路は左にカーブするが、旧街道は直進する)


(左脇にある「和田宿7,9km」の案内看板)

(長久保宿)
道路わきの(長久保 標高780m)の案内看板をみたら、
大きい道路は左折していくが、直進のやや狭い道路をとる。
左脇に(和田宿 7,9km)案内看板があるので旧中山道であることを確認、安心して進む。
道路はいくつか曲がりくねって急坂を下りていくが、
左に民家を見て右にカーブするガードレールの下に、
小さく「中山道」の右矢印の案内看板がある。
見落とさないよう細心の注意が必要だ。


(ガードレールしたの中山道の矢印看板)

その矢印の先で道路は左に曲がるが、右側に左下を指す「中山道」の同じ看板が見える。
この矢印の指す方角には、急な坂の下へ落ちるような道が見える。
進むのをためらったが、石の上を木にへばり付きながら、坂を下りる。
細い山道の状態の道を進むと先が急に開け、広場の先に神社らしきものが見え、
目を移すと鳥居も見える。予備知識では松尾神社らしいと推理する。

神社の脇には大きな木が生えているが、椹(さわら)の木で、
町指定の天然記念物、樹齢およそ200年と推定されている。


(二つ目の右側にある中山道の矢印看板)


(石の階段の下に狭い道があるのが見える)


(松尾神社、左の高い木がおよそ200年のさわらの木)

神社は松尾神社に相違なく、長久保宿の入り口である。
神社に今日の旅の無事をお祈りして参道に向かう。
神社には裏口から入ってきたようである。

清らかな川に橋が架かり先に石の鳥居が見える。
鳥居の外から眺めると、由緒ありげな神社に見える。


(松尾神社の石柱と鳥居)


(境内に入る参道の橋)

石の鳥居を後に町に入る。芦田宿に似た町の雰囲気である。
犬の散歩をかねた町の人に出会ったので、上田駅行きのバス停の場所を尋ねる。
「この道を行くと、道路がT字路になり、突き当たりに(よねや)左側に(濱田屋)の旅館があります。
(よねや)は営業していませんが、そのT字路を右折したところにバス停があります。」と
ていねいに教えていただいた。上田行きのバスは平日の午後は二本しかない。
PM15:00発に乗らないと、次はPM17:00になってしまう。
時計を見るとPM13時を少し回ったところだ。
時間は十分ある。

すぐ左側に中山道長久保宿「一福処濱屋」の看板をかけた綺麗な建物が見える。
入り口に「木戸が開いておりますどうぞ」とあるので中に入る。
此処は長久保宿の歴史資料館でもある。


(長久保宿の町並み)


(一福処濱屋)


(濱屋の表)

中に入るが無人で入館料も無料であった。
館内は綺麗に清掃されていて、すがすがしい。毎朝何方かが掃除をされるのであろう。

中に入ると入り口に、来訪者はご記入くださいと、ノートとペンが置かれていた。
記帳しようと見ると今日はボクで二人目、前来訪者は、神奈川県横浜市と記帳されていた。

建物は元旅館であったようで、一階の客室には、行灯と火鉢に部屋の仕切りとなるつい立てなどが置かれていた。
二階への階段を上がると、二階は展示室になっており、
昔使用したタクシー代わりの(かご)や旅装束には欠かせない合羽に三度がさなどが展示されていた。


(旅籠、濱屋の一階の客室)


(二階の展示室1)


(二階の展示室2)

この資料館に「長久保宿の賑わいと」題して、往時の中山道について記してあったので紹介する。

「江戸時代末の天保14年(1843)には、43軒の旅籠屋が長久保宿にはあって、
信濃26宿では塩尻に次ぐ数を誇りにしました。
その要因としては、宿場の前後に笠取峠と和田峠の難所を控えていたこと。
甲州道や伊那方面への近道となる大門道(霧が峰近くの大門峠に至る道)、
武石峠越えに松本方面から佐久方面へ通じる大内道(おおねいどう)、
北国街道に通じる善光寺道・上田道に接する交通の要衝であったこと。
温泉場でもある下諏訪に宿泊した場合、日程的に好都合であったことなどが上げられます。」と
各方面からの街道が交差する立地にあったため旅籠屋が街道で二番目の多さを誇った。

さらに続く、
「中山道は同じく江戸と京・大阪を結ぶ東海道より十里(約40km)程長く、
しかも山がちで、峠も多く人々や物の往来には困難が伴いました。
しかし東海道のような河川が少なかったため、
大水の際の川留めなどによって何日も逗留することも無く、
ほぼ予定通り旅ができたため利用する人々も多かった。

参勤交代の折に中山道を通って、
長久保宿を通過した大名は尾張・紀伊の徳川家など34家で、
これは東海道の四分の一程度に当たります。
このほかに、二条城番・大阪城番・日光例弊使なども片道は中山道を通りました。

また川留めに際し『滞る』ことを嫌ったり、『今切りの渡し』(浜名湖)、
『薩�券(去った)峠』(静岡県)など縁起を担いだためか、
姫宮の輿入れはほとんど中山道が使われました。
このことから中山道は「姫街道」とも呼ばれました。」(長和町教育委員会)

一福処濱屋を出て旧中山道を西に進む。
長久保宿の中心に入っていく。


(広重描く長久保の浮世絵、蕨宿の歩道にあったタイル)





笠取峠と中山道 原道(旧中山道を歩く 129)

2007年12月13日 08時49分55秒 | 4信濃(長野県)の.旧中山道を歩く(110~1


(笠取峠の美しい松並木)

(芦田宿2)
中央分離帯のようになった箇所は、野草がびっしり生えている。
中央分離帯をはさんで、右左どちらが本来の旧中山道であったのか判らない。
どちらかというと右側の道幅が狭く、峠道としてはこちらが旧街道のように思える。

見事に伸びた枝振りの松並木を眺めながら、ゆるやかな登り道をゆっくり登る。
さっさと急いで登る雰囲気ではない。
周りの景色を楽しみながら登る、そんな気持ちにさせる静かな石畳の山道である。
昔の人は、この峠を早く越えようと、急ぎ足で進んだように思われる。
やがて松並木の途中を先ほど迂回していった国道142号線が横切っていくが、
その手前の左側に駐車場と休憩所、お手洗いがある。


(従是東小諸藩の石碑)


(松並木の休憩所先にある常夜灯と道祖神)

そして右側には、「従是東小諸領(これよりひがしこもろりょう)」の石碑があり、
説明によれば
(この石標は、小諸藩が文化三年(1806)に領分境の東西に建立したうちの西側のものである。
藩領の西端、笠取峠(此処より西1,7kmにあった)ものの復刻である。
これを境に西は幕府領であった。
なお、藩領東側の石標は「従是西小諸領」と刻まれ、
中山道小田井宿と追分宿の間、追分原(現在の御代田町)にあった。)


(142号線で分断された松並木の先の部分)

松並木はこの石標の、もう少し先まで残っており、
ふたたび国道142号線と合流する。


(142号線との合流地点、京都側からは松並木の案内があり判り易い)

旧中山道はこの先、国道142号線の左側歩道を歩くが、
長い急な上り坂になり、先ほどの松並木と打って変わり日陰も無く、
左側は田畑が続き、右側には山が迫り、さすが峠と言われる登りである。

やがて車道の「登坂車線ここまで」の案内看板を見て、登りが終わることが判るが、
悲しいかな歩くスピードと自動車の速度ははるかに違う関係から、
徒歩の旅人はさらに長い登りを覚悟しなければならない。
やがて左側に「笠取峠」の文字と「笠取峠竣工記念碑」の銅版が埋め込まれた大きな岩がある。
この先が峠の頂上である。


(笠取峠竣工記念の岩、このあたりに一里塚があった)

峠を越えた中山道の両脇は学者村として別荘地に売り出されたところで、
道路の両側に(峠の茶屋)があり、その先右側に、笠取峠と刻んだ大きな岩がもう一つある。
中山道の常夜灯や道しるべもある。


(笠取峠の岩や常夜灯、紅葉が美しい)


(道路案内標識)

左側に歩道が無くなるので、右側の歩道に移る。

峠を越えたので、道路は下り坂になる。
国道142号線を造るに当たって山を切り開いたのであろう、
右側は山崩れを防ぐため山肌をコンクリートで固めてあるが、
そのコンクリートの山肌に浮世絵の大きなタイルが埋め込んである。


(浮世絵の大きなタイル)

このタイルの浮世絵の説明版も打ち付けてあり、
説明によれば、
「長門町竪町(長久保宿の竪町)の釜鳴屋(旅館)に保存されている版木には、
峠の斜面に建てられた江戸期の立場茶屋の様子が写実的に描かれている。
当時の峠は、現在の国道142号線より数メートル南に位置し、
路面も今より数メートル高所にあった。」という。

このタイルは「浅間山見所 中山道芦田宿 長久保宿の間」を描いたもので、
画面中央に「かさとり峠 名ぶつ 三国一のちからもち」とある。
峠の茶屋でおいしいちから餅を商ったに違いない。

この看板の、道路の反対側を見ると「中山道 原道」の小さな看板が見える。
先の説明にあった(中山道は国道142号線の南数メートル先)にあったと書いてあったが、
この中山道原道が旧街道であろう。
旧街道をのぞき見ると、夏草がのび放題で、人の通った形跡はわずかにしか感じられない。
しかし142号線がすぐ近くにあることであるし、間違っていればすぐ戻る覚悟で、一歩を踏み出す。

草の道は数メートルで右折し、欝蒼とした林の中に入って行く。
よほど引き返そうかと思ったが、隣に142号線が見えるので、
草道を下っていくと、何のことは無い、すぐに142号線に合流した。


(深みにはまりそうな草の道、「中山道 原道」)

142号線の反対側(右側)をみると、旧道が続いているのが見える。
車に注意して道路を横断すると、中山道とした舗装道路があり案内板もあるが、
その脇にまた「中山道 原道」の案内看板が矢印をつけている。


(中山道 原道の看板、右側が現在の旧道)


(原道の裏側の舗装道路には和田峠方面への案内看板になっている、草道を止めたい時はこの道を行く)

矢印の方角を見ると、先ほどと同じように草の生えた道が、
今度はかなり人の足で踏み固めた下り道がみえる。
先ほどのこともあり、またすぐ舗装の旧道に出ると高をくくって、中山道原道を歩く。
予想通り草むらの道はすぐ迂回してきた舗装路にでる。
舗装路に沿って半円を描くように左に曲がると左側に地蔵様と馬頭観世音の二基の石造物がある。


(中山道 原道の草の道)


(草の道の出口)


(この案内に沿って右に下ると、半円を描くように左へ曲がる)


(曲がった先にお地蔵様と馬頭観音が二基ある)

その先右手にまた「中山道 原道」の案内があり、
覗くと今度はかなり急勾配の草の道が続いているが、思い切ってその道を下る。
案内標識がしっかりしているので旧中山道を踏み違えることは無い。
案内に沿って舗装路を進むと142号線に合流し、
道は右にカーブすると先で142号線は左に曲がり、狭い道路が直進している。
手前に(標高780m、長久保)の看板がある。
この先を直進するのが旧街道である。

まもなく長久保宿に入ると思いながら進む。


(こんな所本当に通れるかと思う草の道)


(こんな道が続く、大丈夫か?と思う)


(中山道 原道の草の道、後は案内に沿って道を下る、上り方向には行かない)


(左側の長久保、標高780mの看板を見て直進)




芦田宿(旧中山道を歩く 128)

2007年11月28日 08時33分36秒 | 4信濃(長野県)の.旧中山道を歩く(110~1

(芦田宿入り口の常夜灯の看板)

(芦田宿)
間の宿 茂田井を出てバス通りと合流する地点から、
少し登って道路がくだりに入る地点に(中居)の信号があり、
信号手前の左側に中山道芦田宿を示す常夜灯の看板がある。
右側には(笠取峠3,7km)の標柱が建っている。

(中居の信号)

(笠取峠への案内標柱)

信号を渡ると道路はくだり坂になり、芦田宿の町並みが一望できる。
芦田宿の文字を上に乗せた街路灯が芦田宿を通り過ぎるまで道路の左右に点在する。
他に自慢するものが無いと思われるくらい、旧中山道の案内が懇切丁寧に表示してあるのには恐縮する。

(町を一望できる坂道)

(芦田宿が終わるまで点在する「芦田宿」の看板を乗せた街路灯)

道路は上り下りが連続し町の中に進んでいく。
やがて左側に神社かお寺の参道を思わせる、
よく整備された広い道路が見えてくる。
道路の左右には中山道芦田宿の新しい常夜灯があり、
正面奥には神社ならぬ立派なビルが建っている。
田舎町に不似合いなビルは立科町役場である。
今、地方自治体は財政難に四苦八苦しているはずであるが、
この町は潤沢に潤っているように見える役場の建造物である。
役場には用が無いので少し立ち止まって、
どこから税金が入ってくるのであろうかと考えたが思い当たるものが無い。

(立派な立科町役場)

(参道でもあるまいに役場まで道路の両側に並ぶ芦田宿の常夜灯)

(脇本陣跡の標柱、山浦家はこの家の後ろ側にある)

(芦田宿もう一つの脇本陣跡山浦家、今は蕎麦やお土産を売っている)

その少し先左側のやや奥まった家の前に(芦田宿脇本陣)の標柱がある。
当の山浦家はこの家の裏手にあるようだ。
さらに進むと(芦田中央)の信号があり、信号手前の右側に
本陣跡土屋家があり、信号の先左側にもう一つの脇本陣山浦家がある。

(土屋家本陣跡の門構え)

(門の中の立派な庭)

(本陣客殿前の石柱、旧中仙道芦田宿本陣跡とある)

本陣の説明には、
(本陣土屋家は、問屋を兼ね芦田宿の開祖でもあった。
本陣御殿(客室)は寛政十二年(1800)に再建されたもので、
イチイの木を使った京風上段の間があり、大名の宿泊を今に伝える「宿札」も残され、
明治維新まで大名・公家の宿泊や休憩に使用され、
往時をそのまま伝える建物は中山道唯一といわれている。

客殿は間口5間、奥行き11間の切妻造り、妻入り、
桟瓦葺で屋根の前後に鯱(シャチ)を、玄関には懸魚(けぎょ)、
蟇股(かえるまた)、頭貫(かしらぬき)、肘木(ひじき)など構築され、
江戸後期の様式をよくあらわしている。――後半省略。)とある。(立科町・長野県教育委員会)
建築用語が多くてよく理解できないが、本陣客殿前に建築用語説明図があり大いに理解できた。

(屋根に鯱と懸魚が見える)

(客殿の蟇股(かえるまた)、頭貫(かしらぬき)、肘木(ひじき)が見える)

(建築用語の解説図)

(屋根の上の立派な鯱)

(外側から見た本陣客殿と鯱)

信号の先左側に、旅籠、金丸土屋旅館があり今も営業を続けている。
二階が出梁り形式になっており、二階軒下から「土屋」の看板がぶら下がっている。
その斜め前に歴史のありそうな「酢屋茂」味噌醤油醸造所がある。
いずれも連子格子の建物は古きよき時代の様子を伝えている。

(旅籠 土屋旅館)

(土屋の看板も旧い)

(酢屋茂)

少し先の左側にある正明寺が芦田宿のはずれである。
町を出たところに「中山道芦田宿入り口」の標柱があり、
京都側から来た旅人を迎えている。

(正明寺入り口)

(本堂と南無阿弥陀仏の石碑とお地蔵様)

(境内にあった見事な枝振りの松、紫雲の松)

(芦田宿入り口の標柱、京都側の入り口)

その先で国道142号線に出て、これを横断すると道路正面に254号線右の案内があるが、
右には行かず、一方通行出口の道路へ入って行く。
道路正面を見ると道は中央分離帯のようになっており、
「笠取峠の松並木」の石碑がある。

(右254号線を行かない)

(道路中央に分離帯がある道路、車進入禁止の標識があるほうへ入る)

(中央にある松並木の石標)

(二人の男女が寄り添う微笑ましい道祖神)

このあたり左側にもう松並木が始まっているのに気が付く。
松並木の手前に旅姿の若い男女が寄り添う双体道祖神がある。
今までに見た最もかわいらしい道祖神である。
中央分離帯のある道路を進むと松並木は本格的になってきて、
旧中山道の往時の姿を髣髴(ほうふつ)とさせてくれる景観である。

(松並木)

今まで旧中山道で並木のあったところは、安中原市の杉並木
(http://hide-san.blog.ocn.ne.jp/bach/2007/05/post_5636.html旧中山道を歩く97参照)があるが、
これは周りが人家に囲まれているので、並木の感触が伝わらないが、
笠取峠の松並木は周りを山に囲まれているので、
往時の街道を連想させるに十分な景観となっている。
今まで旧中山道を歩いてきて、この松並木をしのぐ景観はなかった。
時まさに紅葉の時期に入っており、松並木の景観はすばらしい。

(紅葉が美しい)

(それでも昔と比べると松ノ木は当初数百本あったものが、
大正十三年(1924)には二百二十九本となり、
現在は百本程度を立科町が笠取峠の旧街道と松並木の保護に努め
往時の姿をとどめている。)(立科町教育委員会)

(蕨宿にある芦田宿の浮世絵タイル)

(蓼科山の北側を進むこのあたりは、峠が連続する。
広重描く浮世絵、木曽海道「あし田」は芦田宿を出て、長久保宿への間にある笠取峠を描いている。
峠からは浅間山の眺めがよく、茶屋が設けられていたと言うが、
この絵にも、荷物を置いて一休みする旅人とともに小さく茶屋が描かれている。
人物を小さく描くことによって大自然の雄大さを強調しているように思える。)
(中山道広重美術館「木曽海道六拾九次之内」より)

(広重描く、木曽海道69次之内 あし田)


茂田井の造り酒屋(旧中山道を歩く 127)

2007年11月23日 08時50分17秒 | 4信濃(長野県)の.旧中山道を歩く(110~1


(白壁の大沢酒造の杉玉が見える)

(間(あい)の宿 茂田井)
茂田井の造り酒屋前の若山牧水の歌碑を後に、
少し勾配のある坂道を登ると右手に大沢酒造がある。
白壁の西のはずれに高札場跡の案内がある。


(高札場跡)

説明によれば
(江戸時代、庶民に法令を徹底させるため、此処に高札を掲げた。
高札場は名主宅前に設けられることが多い。大沢家は元文二年
(1737)明治四年(1871)に至るまでも茂田井村の名主を
勤め、元治元年(1864)十一月十九日水戸浪士(天狗党)中山道通過の際、
それを追ってきた小諸藩2500人の本陣となった。)
(望月町教育委員会)


(手入れの行き届いた家並み)


(大きな馬頭観音の碑)

大沢酒造は一部が民族資料館になっており、しなの山林美術館も
併設されている。旧中山道はせまいみちである。
しかし、道路わきの家々は手入れがよく行き届いており、町全体が裕福な印象を受ける。
大沢酒造を後に上り坂の道路を進むと、左側に高さ2mもあろうかという馬頭観世音の石碑があり、
さらに進んで坂道の頂上付近の
左側に、立科町文化財として茂田井の一里塚が残っている。

立科町教育委員会の説明によれば、
(一里塚は、信長の時代に設けられ、
徳川家康・秀忠が引き継いで慶長九年(1604)に完成した。(慶長見聞集)
中国で道のそばに一里毎に土を盛り、その崩れ去るのを防いで
エンジュの木を植え旅人に木陰を与えたという例に倣って
榎(えのき)が植えられたといわれている。

また、三大将軍家光が「一里塚には『余(よ)の木』を植えよ」といったことから、
老臣が榎(えのき)と聞き違えて国中の塚に植えたという(現代教養文庫中山道より)が、
この頃一里を36町と決定され、五畿七道のこるところ無く一里塚が築かれたとされている。

天保年間の、茂田井村差出帳には、当時この両側に土塚があり、
榎の根本が残っていたとある。)(立科町教育委員会)
当時の一里塚には榎を植えてあった。真偽のほどはともかく、
榎を選んだ由来が記されており面白い。


(一里塚跡の案内看板)

このたて看板がある場所に一里塚はあったようであるが、
両側ともに榎は勿論のこと土塚も見ることができない。
日本橋より46里184kmの地点である。

道路を少し登ると、広いバス通りと合流する。合流地点には
(茂田井間の宿入り口)(笠取峠まで4,4km)の案内看板がある。

まもなく芦田宿に入る。

(茂田井宿入り口の案内)