中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

「姫の宿」の小田井宿(旧中山道を歩く 116)

2007年09月09日 07時52分37秒 | 4信濃(長野県)の.旧中山道を歩く(110~1


(良く整備された小田井宿)

(小田井宿)
旧中山道を歩き始めて21日目の今日(6/13)快晴、最高気温28℃の予想。

しなの鉄道「御代田駅」を降り、踏み切りを渡り、
旧中山道がしなの鉄道でさえぎられる地点まで線路に沿って歩く。
線路と道路の間に展示してある「D51」の蒸気機関車を右に見て進むと,
左から来ている旧中山道がしなの鉄道で遮られている。

良く見ると線路をくぐる階段があり、
階段入り口には(旧中山道はここの階段を下りるとばかり)右下「塩名田」の案内看板がある。


(しなの鉄道をくぐる階段)


(塩名田は下への案内)

右→「塩名田」、左←「追分」とずいぶん親切な案内である。

階段で線路の向こう側に出ると、左右にのびる道路があり、
右に向かうとすぐ(栄町)の信号がある。
この信号でどちらへ向かったらよいのか少し思案する。
信号はY字路になっており、直進は「御代田駅」、
斜めに左に入る道が「小田井宿」に向かう道であると、
信号を渡った向こう側の分りにくいところに案内標柱があった。


(栄町の信号、根元に案内標柱が見える)


(標柱の拡大)

左に進もうとすると、道路の向こう側から、デイ・バッグをかついだ二人連れが、
地図を見ながらやってきた。どうやら京都側から中山道を歩いているようである。
彼らは中山道が線路でさえぎられているので、左右を見渡して、どちらへ進むべきか相談している。
まさか、しなの鉄道の向こう側に出るのに、小さな階段の地下道をくぐるとは予想していなかったに違いない。
教えてあげようかと思ったが、階段入り口に、「追分」こちらと階段を示す案内標柱が見えたので
(すぐにこの標柱を見つけるだろう)と思い不親切であるが、二人を見捨てて進む。

(今日は、「小田井」→「岩村田」→「塩名田」→「八幡」→「望月」と進む予定である。
時間はもう朝の10時をまわっている。少々焦り気味だ。
なぜなら、帰りは望月からバスでJR佐久平駅へ向かうのであるが、
バス乗り場が分かっていないので、時刻表の時間までに望月に行くことが出来ても、
バス停を探す間にバスは行ってしまうかもしれないからだ。
一時間に一本のバスに乗り遅れると、東京に帰る時間ははるかに遅くなってしまうからである。)

さて(栄町)の信号を斜め左に入ると、またY字路になるが、
これは今進んできた道路と同じ道幅の道路(つまり左側の道)をとる。
少し進むと案内標柱に出会い、進むべき道路が正しいことを知る。
しばらくはポツリポツリと家のある田舎の町中を抜ける道を進む。
いかにも旧家らしい白壁の長い塀に囲まれた家を見たり、(荒町上宿)と書かれたバス停を見て、
今日午後に利用するバスの停留所はこんな形をしているのかと、
見ながらかなり歩くが、特にお伝えする史跡も無い。


(信号を左折するとまたあるY字路ここは左に行く)


(案内標柱を確認し道路が間違っていないことに安堵)


(古いが大きなお屋敷)


(荒町バス停)

やがて道路標柱があり、右「塩名田10,3km」、左「追分5km」と書いてある。
追分から塩名田まで15kmほどあるから、間にある小田井宿はまもなくと元気を出して歩く。

まもなく道路案内があり、すぐ信号にぶつかる。
この信号の道路案内には直進(小田井 佐久)右(上田 小諸)とあり、
信号を渡った右角に(町史跡 中山道小田井宿跡 入口)の標柱があり、
その足元に古い地蔵様がある。


(塩名田への里程案内)


(道路案内を確かめながら進む)


(小田井宿入口の標柱)


(見知らぬ土地ではホッとするお地蔵様)

また町の案内によれば、

(小田井宿は中山道69次のうち、日本橋から22次、40里14丁(約160km)の距離にある。
軽井沢町追分宿、佐久市岩村田宿の間の宿であり、比較的こじんまりとした宿場で、
皇女和宮を始めとし、宮家や公家の姫君が多く泊まったことから「姫の宿」ともいう。
本陣・問屋・旅篭等建物が現在も残っている。
街道の繁栄期の文化・文政期の文政五年(1822)の記録では、軒数199戸、人口524人を数え、
町並みは寛延元年(1748)の記録では七町23間(805m)あった。)(御代田町教育委員会)

その先の左側に、小田井宿を細かく記した案内看板があるので、看板に従って歩く。


(高札場を思わせる小田井宿の観光案内地図)


(小田井宿旧道の観光地図)

最初に、左手の奥まったところにある「宝珠院」。真言宗のお寺である。
門前入り口に馬頭観世音の大きな石塔があり、門をくぐると
町指定の天然記念物の赤松優雅に形をととのえており、
同じく天然記念物に指定された推定樹齢300年の枝垂桜が、
来る人を迎える。


(宝珠院の門前)


(馬頭観世音の碑)


(天然記念物の赤松と静かなたたずまいの宝珠院)


(樹齢300年のしだれ桜と本堂)

中山道に戻ると道路の左側を清らかな岩村田用水が流れ、
町の中央に進むと、右側に本陣、続いて上問屋、
そしてその先左側に脇本陣・下問屋と続いて古い建物が、見事に綺麗に保存されている。


(京都側から見た小田井宿、岩村田用水の清流)



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

分か去れの道しるべ(旧中山道を歩く 115)

2007年09月04日 09時37分01秒 | 4信濃(長野県)の.旧中山道を歩く(110~1


(昔の分か去れ、郷土資料館の写真から)


(昔の分か去れ、七つの石碑が見える)

(追分宿3)
追分宿の京都側入り口の、枡形の「つかるや」を過ぎると、
「分か去れの道しるべ」がある。


(現在の分か去れ、常夜灯の手前にある道標の石碑)

道標には、{右 従是北国海道 左従是中仙道}とあり、
常夜灯には「是より左伊勢」の字が見える。

その後ろにある子育て地蔵の台石には、
{さらしなは右 みよしのは左にて 月と花とを 追分の宿}
と刻まれている。軽井沢町教育委員会の解説によると、
「右は北国街道姥捨山の「田毎の月」でしられる更科へ、
左は中山道で京都へ、そこから桜の名所奈良吉野山へ向かうという意味である」と記されている。


(常夜塔台石の文字)


(子育て地蔵、子供を抱えている)

森羅亭万象の歌碑には、
「世の中は ありのままにそ 霰(あられ)ふる
かしましとだに 心とめねば」
平賀源内の弟子で、狂歌作者であったらしいが、狂歌の意味が解らない。
どなたかご教示願えれば幸いです。


(森羅亭万象の狂歌碑)


(勢至菩薩と奥にシルエットで見える馬頭観音立像)


(馬頭観音立像)

子育て地蔵の右奥に勢至菩薩があり、一番奥に馬頭観音立像がある。
分か去れには七つの石造があるとされるが、
七つ目は分か去れの石造群の一番手前にある道祖神。

また、子育て地蔵の台石の一番上段には、次のように記されている。
西面には「めうぎに七里、山道九里、はるなに十六里、一ノ宮十里、
三河屋、高崎に十三里、江戸に三十八里、日光に四十四里」。
南面には「小田井に一里、御嶽山に三十三里半、津島に六十七里半、
伊勢に九十二里十一町、京都に九十三里半、大坂に百七里半、金比羅に百五十里半」。
北面には「金沢に八十五里、新潟に六十六里、高田に三十四里、
戸隠山に二十三里、善光寺十八里、小諸三里半」。


(江戸38里、日光44里、三河屋の文字が見える)


(新潟66里、高田34里、戸隠山23里、善光寺18里が見える)

分か去れの道標が示すように、国道18号に沿って左に行くと、
すぐ左中山道の案内標識に出会うので、左脇の道に入る。
道路は旧街道と思われる道幅で、左右はまだ別荘が続く、
林に中を進む。やがて林が切れて両側畑の中をしばらく進むが、
これといってお伝えするような史跡も無い。 

やがて人家が増えてきて町が近いと感じるようになると、
右側に「御代田の一里塚は右に入る」の看板が見える。
看板の案内に沿って、北にわき道を少し入ると、一段高いところに「御代田の一里塚」がある。
一里塚は普通榎が植えられているが、ここでは大きな枝垂桜が植えられている。
この一里塚を見て、南に20mほど下ると、
一里塚ではないかと思われるもう一つの小山が見える。
もしそうだとすると、この小山と枝垂桜の一里塚の間に旧中山道があったと思われる。


(御代田の一里塚の枝垂桜)


(もう一つの一里塚)

(南に20mほど下ったところにある塚は、御代田の一里塚であり、
枝垂桜のある一里塚を西塚といい、何も生えていないもう一つの塚を東塚という。)(軽井沢町教育委員会)

「御代田の一里塚」を過ぎてすこし行くと、しなの電鉄の線路にぶつかる。
旧中山道はここで階段を下りて、線路をくぐることになる。
次回中山道を歩くときは、この階段を下りるところから始めよう。

道路は直角に右折しており、右手を見ると、D51の機関車が展示してある。
機関車の先に踏切があり、その先に「御代田」の駅がある。


(D51の蒸気機関車)

旧中山道を歩き始めて20日目の今日はここから、しなの鉄道で
軽井沢にそしてJR軽井沢駅から新幹線で東京に帰る。
本日歩いた軽井沢宿→沓掛宿→追分宿→御代田駅まで、
距離約28km、歩数にして4.8万歩であった。
本日(6/5)の気温 28℃ 快晴で暑かったが
軽井沢では涼しくて、一枚上着を羽織った。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

追分宿(旧中山道を歩く 114)

2007年08月30日 08時30分32秒 | 4信濃(長野県)の.旧中山道を歩く(110~1


(御影用水)

(追分宿2)
浅間神社の前の清らかなせせらぎは、御影用水といい、
下流の佐久平への用水路として作られたもので、
水に親しみ憩いの場として作られた場所で、
川べりに降りて水に手を差し伸べたくなる清流となっている。


(堀辰雄文学記念館)


(追分宿本陣の門碑)


(明治天皇行在所の碑)

清流に沿って旧中山道を歩くと、左手に堀辰雄文学記念館が、
さらに進むと追分宿本陣跡、明治天皇行在所の石碑、
現存する江戸時代の旅篭の「油屋」がそのまま残っており、
建物の南側には、戦時中戦火を逃れて追分宿にやってきた
文学者堀辰雄の住まいもある。


(油屋の入り口)


(当時のままの油屋、この南側に戦時中の堀辰雄の住まいがある)

その先に昔の高札場が残っており、すぐ先の右側に「浅間山道路第一指所」(登山口)の石碑がある。
これは大正~昭和前期にかけて追分の振興のため、
宿場の北側を都内の学校等に働きかけ追分に寮誘致をしたが、
その折登山道も同時に造られたものである。
そのためかこの近隣に東京都内の学校のテニスの合宿所など、
林間学校となる施設が沢山見受けられる。
やがて同じ右側に旅篭の「蔦や」が当時の面影を残したまま残っており、
軒下に江戸時代からの看板がぶら下がっている。


(高札場)


(浅間山登山道入り口の石碑)


(蔦屋と看板)

さらに西に進むと、浅間山香華院泉洞寺の石碑が右側に見える。
泉洞寺の参道を入ると山門があり、門前には禅寺には普通は置かれない
密教系の不動明王像、十二権現、青面金剛(庚申塔)の石造物が安置されており、その奥に本堂が見える。
(これら石造物は、宿場の江戸口に建立され明治時代まで活動していた修験寺院自性院より移転したもので、
泉洞寺が宿場の人々のよりどころとされていた証拠といえる。)(軽井沢町教育委員会)


(木の枝に隠れている泉洞寺の石碑)


(山門右側の石造群)


(山門手前右側の石造群が見えるでしょうか、本堂のほうが良く見えますね)


(稲垣黄鶴の句碑と筆塚)

本堂を正面に見て、山門の左側に稲垣黄鶴句碑と筆塚がある。
説明によれば:
(貞明皇后に書を教えたといわれる稲垣黄鶴は、長く日本書道院の副会長を務めた書家で、
この地軽井沢の出身で、名を「はま」と言う。追分宿三浦屋の子孫である。

・浅間嶺 今日は晴れたり 蕎麦の花
)(軽井沢町教育委員会)

この俳句を英語で記しているので紹介する。

Mount Asama
Clear today, even at the top
There does the buckwheat flower bloom.

とある。ボクは以前、俳句の英訳の勉強をしたことがあるが、
俳句の心を持たないと、英訳は難しい。訳す人の心が表れるからである。
英語では、五七五の言葉数の制約は無いが、読む感触で五七五の感じがつかめれば良い。
どちらかと言うと英詩(poem)と思えばよい。

この俳句は、「今日は良く晴れて、浅間山の頂もくっきり、
麓の蕎麦の花の白いこと」に感動したように受け取れる。
蛇足であるが、ボクならflower bloom white.と最期にwhiteを入れたいと思った。

本堂の西隣に墓地があり、墓地を通り抜ける場所の正面に、
堀辰雄が好んだといわれる半跏思惟像(*)が、やや首をかしげて微笑み、左手を頬に当て、
片足をあぐらのようにした状態で、安置されている。とても可愛いしぐさだ。

(*)「半跏」は片足をあぐらのようにしている状態、「思惟」は指を頬にあて物思いにふける姿を指す)


(半跏思惟像の如意輪観音)

軽井沢町教育委員会の説明によれば、
(この石仏は、堀辰雄の名作「樹下」(大和路・信濃路)の文中にあって、
素朴な姿に引かれ、朝夕ここを散歩し親しんだと言われる。
今でも村人に、歯痛の神様として信仰されている。)
旧中山道を西に進む。

追分宿ともお別れに近い。
右側に枡形の茶屋「つがるや」が見えてくる。二階の梁出しの下に
枡形のマークに「津軽屋清吉」とかいた看板がある。
ここで国道18号線と合流し、追分宿はここで終わる。


(枡形の津軽や)

何度も書いているが、
やはり京都方面から歩いてきたほうが、目印の大きな案内看板
{追分宿}があり分かりやすいのはいつも感じることである。

(京都側から来ると追分宿の看板が見事)

国道18号を少し歩くと、
旧中山道では名高い、北国街道との「分か去れ」の道標がある地点に到着する。

ここには、7基の石造物、
寛政元年の常夜灯、
安永六年の森羅亭万象の狂歌碑・子育て地蔵、
元禄六年の勢至菩薩、
安永三年の馬頭観音、
寛政四年の廻国塔がある。


(現在の分か去れ)



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

追分宿の一里塚(旧中山道を歩く 113)

2007年08月22日 08時13分32秒 | 4信濃(長野県)の.旧中山道を歩く(110~1


(追分の一里塚)

(追分宿)
国道18号と合流した旧中山道を、西へ進むとまもなく
「←信濃追分駅」の案内看板と共に歩道橋にぶつかる。
歩道橋右手の中学校を通過すると、道路両側に
「追分の一里塚」が見えてくる。
道路は拡張されたので、昔のまま残っているわけではないが、
芝生の緑色に覆われたずんぐりした塚である。
中山道で一里塚を沢山見てきたが、日本橋をスタートして最初の宿場町、
板橋宿から一里を示す「志村の一里塚」が、一対で残るものとしては、もっとも原形を留めているように思う。
「追分の一里塚」も、なるほどと思わせる一里塚である。
軽井沢教育委員会の説明でも、(追分の一里塚は、よく原形を保って
当時を偲ぶことのできる貴重なものである。)とある。


(北側の追分の一里塚)

この一里塚の先で、追分宿は国道と別れ右に入るが、「右追分宿」の
大きな案内看板があるので分かりやすい。案内に沿って歩くと
旧中山道に入り口にも丁寧に案内看板が歩行者の目線に置いてある。
ずいぶん親切な案内である。自治体の取り組み姿勢が覗える。
案内看板には、
追分宿、追分郷土館、堀辰雄記念館は右と矢印がある。
矢印に沿って歩くと、道路右側に平行して御影用水といって
清らかなせせらぎがあり、その川に小さな石橋が架かっている。
橋を渡ると、浅間神社(あさまじんじゃ)の鳥居が見える。
鳥居をくぐった左手広場に、芭蕉句碑が見える。


(追分宿の案内看板)


(目線の高さにある案内看板)


(道路脇の御影用水)


(浅間神社の鳥居)


(芭蕉句碑)

・吹き飛ばす 石も浅間の 野分けかな)とある。

説明によれば、
大自然石に雄渾な文字で、更科紀行中の句が刻まれ、
芭蕉百年忌に当たる寛政5年(1793)佐久の春秋庵の俳人たちが
建立したとものといわれている。(軽井沢町教育委員会)

さすが軽井沢町、外国人が訪ねてくることを想定して、英語、ハングル文字、中国語でも紹介してある。
中でも、英語による紹介では英文への翻訳が、俳句の雰囲気を良く表しているので
紹介して置きたい。
(Mt Asama,the autumn storm even blows the stone away.)

なお、ハングルと中国語は知らないので、紹介を省きます。
ご興味のある方は、一度お訪ね戴き、ご覧になることをお勧めいたします。

広場の右手には、「追分節発祥の碑」が見える。


(追分節発祥の碑)

説明では、
(江戸時代、主要道路であった中山道を利用した旅人は、
難所である碓氷峠を通過し、江戸と京都の間を往復した。
この碓氷峠を中心に駄賃付けの馬子達が仕事唄として「馬子唄」を唄い続けた。
この元唄は「軽井沢宿」「沓掛宿」「追分宿」の飯盛り女たちの三味線等により洗練され(追分節)として成立した。
馬子唄から座敷唄になったことで、諸国に広く伝播され有名になった。
(軽井沢町教育委員会)
その追分節の一部を紹介しておく。
説明に有るように馬子達が唄ったものを、飯盛り女達が座敷唄として唄ったものであるため、
歌詞も何通りもあるようであるが、
信濃追分、追分馬子唄、正調信濃追分のうち、追分馬子唄を記します。


○追分桝形の茶屋で ホロと鳴いたが アリャ忘らりょか(ハイーハイー)

○浅間山さん なぜ焼けしゃんす 裾に三宿 持ちながら(ハイーハイー)

○小諸出てみりゃ 浅間の山に 今朝も煙が三筋立つ(ハイーハイー)

○碓氷峠の権現様は 主のためには 守り神(ハイーハイー)

○浅間山では わしゃないけれど 胸に煙りが 絶えやせぬ(ハイーハイー)

○浅間根越の 小砂利の中で あやめ咲くとは しおらしや

○西は追分 東は関所 関所越ゆれば 旅の空(ハイーハイー)
                               ♪
なかなか情のこもった歌詞である。


(浅間神社本殿)

鳥居をくぐった正面には浅間神社の本殿があるが、
(本殿は室町時代のもので、町内の木造建築としては最古のものである。
浅間大神遥拝の里宮で大山祇神と磐長姫神の二神が祀られている。
明治二年の浅間山の鳴動が特に厳しく、
沈静祈願のため明治天皇の勅祭が行われた社として有名である。)とある。
(軽井沢町教育委員会)

(郷土資料館)


(馬頭観世音の碑)

本殿の右奥に郷土資料館があるので寄ってみよう。
入り口に大きな馬頭観世音の碑があり、追分馬子唄と共に、
馬のお世話になったことが良く解る。
郷土資料館には、江戸時代の面影を残す、旅篭の様子、往時の旅篭の看板、
高札に掲げられていた内容など展示されており興味深い。


(郷土館に展示された高札)

高札の内容:
         定
1.人たるもの五倫の道*を正しくすべき事
(*君臣・父子・夫婦・長幼・朋友の道をいう)
1.鰥寡(かんか=夫または妻を失ったもの)、孤独、癈疾のものを憐れむべき事。
1.人を殺す、家を焼く、財を盗む等悪行をあるまじく事。

慶応四年三月            太政官

これは現代でも十分通用する定である。

郷土資料館をじっくり見ていると、いくら時間があっても足りない。
ここで「追分宿散策マップ」(有料)を分けてもらおう。追分宿を歩く参考になる。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

沓掛宿(旧中山道を歩く 112)

2007年08月01日 08時34分32秒 | 4信濃(長野県)の.旧中山道を歩く(110~1


(歩道脇にある案内看板)

(沓掛宿2)
道路は、沓掛ならぬ中軽井沢の町中に入っていく。
やがて中軽井沢駅入り口があり、駅を左に見て進むと歩道脇に可愛い案内看板が目に付く。
赤い文字で、「Welcom-Nakakaruizawa」とあり、ハイキングコースが示されている。

その案内看板に
(この道を横に入って、1つ目の角を右折した先の大きなケヤキの下に、
皇女和宮が休憩した井戸があります、――以下省略」とあるので案内に従って進むと、
大きなケヤキの下に確かに井戸があったが、荒れ放題でごみ置き場のようになっていた。
元ここに本陣があったに違いない。このケヤキの手前に中軽井沢商工会の立派な事務所があるが、
先ほどの沓掛時次郎の碑文と比べると本陣の井戸の荒れようが信じられない。
土地の持ち主との間に確執でもあるのであろうか。せっかくの史跡が惨めである。


(大きなケヤキ)


(木の根元にある井戸の跡、石垣の中が井戸)

さらに西に進むと町外れの民家の庭先に、道祖神があり左面に
「左くさつ」と読める。この道しるべの先で国道と分かれ、旧中山道は左脇に入る下り坂となる。

道をすこし下り、右側にある道祖神をみてなお先に進むと、
道はのぼり坂となり国道18号と平行していることが分かる。
町並みが切れると、左右は畑や雑木林でところどころに馬頭観音や道祖神の石碑を見る。


(民家の庭先の道祖神)


(「左くさつ」と読める)


(「左くさつ」の道標から望む国道、中山道は左の下りの道へ)


(下り道に入ってすぐ右道路脇にある道祖神)


(あちらこちら沢山ある馬頭観音の石碑)


(あちらこちら沢山ある馬頭観音の石碑2)


(あちらこちら沢山ある馬頭観音の石碑3)


(あちらこちら沢山ある馬頭観音の石碑4)


(古宿公民館)


(秋葉神社)


(本殿)

しばらく歩くと、寂れた町-古宿-の中に入っていく。
やばて右手に古宿公民館があり、その先の同じ並びに石の鳥居がある秋葉神社がある。
秋葉神社は火の神であるから、村人が火事を恐れて祭ったものであろう。
街道には宿場の荷駄に使った馬に感謝の意を込めて、馬頭観音の石碑がところどころに見受かられ、
ずいぶん馬のお世話になったことが伺える。


(沢山ある馬頭観世音の石碑)


(男女の道祖神)

旧中山道はまた国道18号に合流するが、すぐ前方へ三本の道に分かれる場所に来る。
両サイドの道は上り坂になる。右側は国道のバイパスで、左側は上州(群馬)へ抜ける道である。

真ん中の道は下り坂になるが、これが旧中山道で、先の方が右にカーブしているのが分かる。
道に沿って進むと、カーブを曲がり終えたところに左へ入る道があるので、進路を左にとろう。
(ここのところはどのガイドブックにも載っていない)

旧中山道らしい道幅の道路で借宿の集落に入る。


(真ん中の下り道が旧中山道、先で右に曲がっているのが解る)


(右に曲がったところに左に分かれる道路がある、これが旧中山道)

古い町並みが続き、左側に馬頭観世音の石碑と共に、女街道の案内看板がある。

案内によると、
(碓氷の関所では、「入り鉄砲」「出女」の取調べがきびしく取り締まった。したがって、
女人は関所を避けて裏街道を通るようになった。これを「女街道」または「姫街道」といった。
「関所避けて 女人が多く 往来せし 姫街道」)(軽井沢町教育委員会)


(「女街道」入り口にある馬頭観音の石碑)

やがて右手に遠近宮(おちこちぐう)が見える。
遠近宮の境内は、苔むして杉の木も古風騒然としたたずまいで、

由緒によると、
「祭神は磐長姫命(いわながひめのみこと)と言い、古来より当地の鎮守産土の神として崇敬される。
現存の棟札によると享保年間(1716~1735)には社殿鳥居等整備せられたことが解るが、
それよりはるかに古く当借宿地方開発の当初守護神として奉祀せられたものである。
「信濃なる 浅間の山に立つ煙 遠近人の みやはとがめん」と
在原業平作の有名な歌によって遠近宮と奉称せられた。」(宮司水沢邦高記)


(遠近宮の鳥居)


(本殿)


(苔むした境内)


(境内は借宿公園で子供の遊び場)


(隣接する境内と不釣合いな近代的なトイレ)

苔むした境内を持つ遠近宮は、今は借宿公園ともなって、子供の遊び場にもなっている。
そのせいか、鳥居脇に、由緒ある神社には不似合いな超現代的な建物が、
公衆トイレのマークをつけて建っており、アンバランスで面白い。
その先に、杉玉(造り酒屋の)をぶら提げた家があり、軒下に道路元標が半分埋まった形で建っている。

「元西長倉村道路元標」とある。
借宿の地名になる前は、西長倉村といったのであろう。
今は酒造を辞めたご主人と長々世間話をしたが、家の中をすこし覗くと、
目に墨を入れた達磨や大小の徳利などが棚の上に沢山並び、その昔の繁盛振りが良く解った。
古風な雰囲気の寂れた街の感じは払拭できない。


(道路元標)


(杉玉のある家)


(旧家を思わせる建物)


(古風な寂れた街の感じの家)

旧中山道のこの界隈の信濃路は道が比較的平坦で荷駄は馬で運び、
険阻な道が続く上州は牛で荷駄を運んだという。
その為か、馬頭観世音を祀る立派な小塚を見ることが出来る。
小塚の前にある常夜灯の台石には、馬が戯れる飾りが刻まれている。
馬と共に生活して来た長い歴史が伺える。


(馬頭観世音の石碑のある小塚)


(常夜灯の足元に馬が戯れる図が刻まれている)


(もう一つの馬頭観世音の小塚)

まもなく国道18号線に合流するが、合流する先に4本のカラマツが見える。
その根元に「道しるべ」となる石標がある。

「ここより左 上州」 

は読めるが、その下になんと書いてあるか、ボクには読めない。

ここから追分宿に入る。


(国道の合流地点向こう側にある四本の唐松)


(根元にある「道しるべ」)



コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

沓掛時次郎(旧中山道を歩く 111)

2007年07月22日 09時05分24秒 | 4信濃(長野県)の.旧中山道を歩く(110~1


(案内標識を見て右の道を行く)

(沓掛宿)
旧軽井沢銀座を過ぎて前方に道路案内板が見える。
右方向が旧中山道とある。案内に従って進むと、道路の左右には別荘が並び、
深いから松の林になっている。道路は緩やかな下り勾配が続く。

碓氷峠に向かって、高崎から登り道路であった。
そして碓氷峠を過ぎると道路は下りになっているが、
この下りは一体何処まで続くのだろうか?


(下り勾配の唐松林の中を行く)

道路は右に左に緩やかにカーブを描き、深い森の中を進んでいる。
時々、男女が並ぶ道祖神を確認できるくらいで、特段お伝えする史跡も無い。
右側に見える小高い離山の裾を歩いている。
やがて国道と合流し、左側のしなの鉄道と平行して進む。


(信濃に入ってはじめて見る男女の道祖神、気のせいかやさしい表情)


(林の切れ間から覗く離山)

やがて中学校前の信号があり、ここで旧中山道は左折し、
しなの鉄道の踏み切りを渡る。最初の角を右折し道なりに進むと、
左側に川の流れが見え、橋を渡る。道路は川沿いにあり、しなの鉄道をくぐることになるが、
くぐる前に線路沿いを左折し、すこし坂を上ると道路脇に墓石群があり、
その端に、

「旧中仙道 宮乃前一里塚」(裏面に昭和49年)

と刻んだ石塔が建っている。
昔はこの一里塚前に中山道があったと思われるが、今ははしなの鉄道に遮られている。


(中学校前の信号、ここを左折踏切を渡る)


(上を走るのが、しなの鉄道、手前を左折する。一里塚を見たらここまで戻り直進する。)


(墓石群の中にある一里塚の石碑)


(一里塚の石碑、「宮乃前一里塚」と読める)

坂を戻って、しなの鉄道をくぐり川沿いに歩くと、国道に出る。
国道のすぐ右側、橋のたもとの道路脇に、長倉神社の石の鳥居と芝生の中に置いた石の一団が見える。
石群の中に道祖神があり鳥居をくぐって橋を渡ると、神社の広い境内に入る。

正面に神社はあるが、境内は長倉公園といい、神社の裏側はかなり広い。
本殿の左奥のほうに、長谷川伸作「沓掛時次郎」の碑がある。
沓掛宿の名を全国に有名にしたのはこの石碑と言う。


(長倉神社の鳥居)


(しめ縄をつけた道祖神)


(本殿を背に鳥居方向を撮る)


(奥に見えるのが神社の本殿、この左奥に沓掛時次郎碑がある。)


(沓掛時次郎を書いた長谷川伸の書になる石碑)

石碑には、
「千両万両枉(ま)げない意地も
人情からめば弱くなる
浅間三筋の煙りのもとで男 沓掛時次郎
長谷川伸 書」

(流行歌の一節が書かれている。
剣をとっては滅法強いが、義理と人情にはからきし弱い、男沓掛時次郎は、
中仙道街道筋の古い宿場、火の浅間に抱かれた「くつかけ」を背景に
作家長谷川伸(1884~1963)の筆によって生み出された架空の人物である。
「沓掛」は「中軽井沢」と言う名に変わったが、沓掛宿を偲ぶよすがとなろう。)とある。(沓掛商工会)

思えば、亡くなった母が映画好きで、4~5歳のころ母に手を引かれて、よく映画を見に行った。
映画の中には、片岡知恵蔵、大河内伝次郎、長谷川一夫などの俳優が演じる、
やくざ渡世の人情ものがあったが、林長次郎(長谷川一夫)演じる「沓掛時次郎」が記憶の中にある。
沓掛が土地の名前であることを知ったのは後のことである。
半世紀を越す、ずいぶん昔の話だ。そんなことを思いながら長倉神社を後にする。
「沓掛」の地名は、今は「中軽井沢」と名前を変えており、
「沓掛」の名残を残すのは、この沓掛時次郎の碑だけという。

その沓掛時次郎さえ知る人も少なくなった。


(中軽井沢の駅前)






コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

別荘地「軽井沢」(旧中山道を歩く 110)

2007年07月16日 08時10分45秒 | 4信濃(長野県)の.旧中山道を歩く(110~1

P10702701
(熊野神社前の餅屋さん)

(軽井沢宿)
熊野神社の階段を下り、 元祖力餅の「しげのや」を出ると、
中山道は信濃の国(長野県)に入り、峠を下った軽井沢が最初の宿場となる。

P10702941
(見晴台入り口)

道路は、すぐ旧中山道の案内看板に出会う。
見晴らし台方向に向かうと立派な門があり、その左手奥に、お手洗いがある。
ずいぶん立派なお手洗いである。
また右手の道路は見晴台に向かうが、すぐ左側に中部北陸自然遊歩道を示す案内看板があるので、
案内通り看板の正面を右折して、山の小道を軽井沢に向かって歩く。
これが旧中山道である。

P10702961
(良く整備された山道)

P10702981
(谷にかかる木橋)

P10702971
(歩道橋)

P10703001
(つり橋)

P10703011
(洒落た別荘、さすが軽井沢)

道路は一人しか通れない細い山道であるが、よく整備され苦も無く歩ける。
山下りであるが、軽井沢駅を16時代に出る汽車に間に合わせるには、時間が迫っており急ぐ。
谷沿いの細い道をどんどん降りていく。途中谷越えの小さな木橋を何度か越え、
舗装道路をまたぐ歩道橋を越え、やがて、つり橋に差し掛かるころから、辺りに別荘が見えてくる。
樹林の間を抜けると広い道路に出るが、下っている方向に歩く。
やがて橋があり「二手橋」とある。

P10703021
(軽井沢が近いと思わせる広い道路)

P10703061
(二手橋)

P10703231
(ショウの胸像と教会)

P10703121
(軽井沢の別荘第一号となったショウ・ハウス)

P10703251
(ショウの記念碑)

すこし先に、軽井沢を別荘地にした最初の外国人ショーの銅像やキリスト教会、
ショー記念碑、ショーハウスなどが道路右側にある。
さらにすぐ先の左側に芭蕉の句碑がある。

「アレクサンダー・クロフト・ショー(英国人)は明治19年キリスト教布教の途上この地を通り、
軽井沢の美しい自然と気候がスコットランドに似ているのに感銘し、
その後家族・友人と共に避暑に訪れた。
翌年も夏をすごして、ますます気に入り、保健と勉学の適地として推奨し、
翌明治21年旧軽井沢大塚山に簡素な別荘を建てる。
これが軽井沢別荘の最初のもので、今風の観光・保養地軽井沢をつくる基となった。」(軽井沢町)

日本の代表的な避暑地になる前の軽井沢は、
「寒きことはなはだしくて五穀生ぜず、ただ稗、蕎麦のみ多し」(木曽路名所絵図)あるように、
荒涼とした寒村であったらしい。

歌川広重描く浮世絵、木曽海道六十九次乃内 「軽井沢」は、
(漆黒の闇に覆われる時刻の景色で、月は見えない。
立ち昇る二つの焚き火の煙が印象的である。
焚き火から煙草の火を拝借したり、馬子とキセルの火のやり取りをしたり、
のんびりしたものである。馬の横腹のちょうちんの光が、
顔の辺りをポッと照らし出している)(中山道広重美術館)

031530161
(蕨宿の「軽井沢」浮世絵タイル)

Ukiyoe_1_181
(歌川広重描く浮世絵、木曽海道69次の内「軽井沢」)

地球の未開地の開拓には、宗教の布教が先駆者になっている例が目立つ。
たとえば、アフリカの探検家として知られるリビングストーンはキリスト教の布教に、
中央アジアの開拓者 リュブリックもフランシスコ会の修道士であり、
玄奘は仏教の教えを求めて未知の世界を旅している。
同じようにショーもキリスト教の布教で日本を訪ねて、軽井沢に故郷スコットランドを偲び避暑地とした。
未開地の開拓には尽きない好奇心が無ければならないが、
それ以上に困難と闘う強靭な精神力が必要になると思われる。
神や仏(ほとけ)に仕えるという信仰心が精神力を支えているのではないだろうか。
そうでなければ異国に一人で来て、開拓をすすめる困難に立ち向かうには、
かなりの覚悟が必要に思われる。

今ボクが一人で旧中山道を歩いているが、
言葉が通じ、
食べ物にも不自由なくどこででも求められることが解っていても、自分では初めての体験であり、
道が無いかもしれない、
道に迷い山中で遭難したらどうする、
体調は大丈夫だろうか、
暑さ、寒さの気温に負けないだろうか、
歩いているうちに倒れて最期になることは無かろうか、
などなど考える。
自国に居てさえこれだけの心配があるのに、
外国での活動は並大抵のものではあるまい。

話がそれてしまった、
(アレクサンダー・クロフト・ショーは軽井沢に礼拝堂を設け、
天地創造の神を賛美し、清想、祈祷、聖書読修の場としてここを訪れる人々に広く開放している。
また、東隣には西洋風別荘を立て、軽井沢別荘の第1号を作り、
現在もショーハウスとして建物は残っている。)(軽井沢町)

芭蕉句碑には、

馬さへ ながむる 雪のあした哉   (芭蕉)

(芭蕉「野ざらし紀行」中の一句。
雪ふりしきる朝方 往来を眺めていると、多くの旅人がさまざま風をして通っていく。
人ばかりでない駄馬などまで普段と違って面白い格好で通っていくよ。
碑は天保14年(1843)当地の俳人によって建てられた。)(軽井沢町)とある。

芭蕉は、旧中山道上に沢山の句碑を残している。

P10703271
(芭蕉句碑)

芭蕉句碑の先に、軽井沢では、有名な「つるや」旅館がちょうちんに灯を入れて旅人を迎えている。
この先はレンガの石畳が続き、旧軽井沢銀座といわれる繁華街が続く。
途中右側に、神宮寺があり、樹齢350年のしだれ桜が健在である。
旧軽井沢銀座の終点(レンガ道路の終り)辺りに本陣があったようであるが、
今は何も確認できない。

P10703131
(つるや旅館)

P10703151
(ご存知の旧軽井沢銀座が先に続く)

P10703301
(神宮寺入り口)

P10703311
(樹齢350年のしだれ桜)

この先左に行けば軽井沢駅、斜め右に進むのが旧中山道で、
正面に道路の案内看板があるので判りやすい。

この先で沓掛宿(今は中軽井沢)に入る。

P10703221
(旧ロータリー、白い車の方向へ直進するのが旧中山道)

P10703361
(正面の案内看板、沓掛は今では中軽井沢)


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする