中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

間の宿 茂田井(旧中山道を歩く 126)

2007年11月17日 08時42分34秒 | 4信濃(長野県)の.旧中山道を歩く(110~1


(立派なお屋敷が続く間の宿 茂田井)

(間(あい)の宿 茂田井)
大伴神社を過ぎると道路は長い登り道となる。
少し登ると道は左に曲がり、その先で国道の下をくぐると、
道は右にカーブして、国道と平行になる。
左手上のほうに先に向かう矢印と茂田井の文字看板が見える。


(長い坂道を登りきる頃国道の高架をくぐる)


(道路の左上に茂田井の看板あり、ここは直進する)

さらに歩くと馬頭観音像と双体道祖神を左に見て、
その先坂の上の前方右側に武重歯科医院の看板が見える。
間(あい)の宿茂田井はさらにその先にある。
案内によれば、ずいぶん近くに茂田井はあるように書いてあるが、
上り坂で苦しいためか遠くに感ずる。


(馬頭観音と道祖神)


(右の細い道路が旧中山道)

広い道路は左に曲がっていくが、曲がらずに直進する細い下り坂の道がある。
手前に諏訪湖・白樺湖直進の案内標識がある。
これが旧中山道で、入り口に「中山道茂田井入り口」の案内が道路の左手に立っているが、
道路と平行に立っていて分かりにくい。
東京方面から行くと、この看板が右手にあればわかりやすいと思う。
今ある案内看板は、京都側から来たほうが判り易い。


(諏訪湖・白樺湖直進の方向に行く)

案内看板によれば、
(茂田井は東の望月宿と西の芦田宿の間にある村で、
現在は間に宿(あいのしゅく)とも呼ばれている。ここは茂田井への入り口で
坂を下り始めると江戸時代の面影残る民家や造り酒屋が軒を連ねている。
――以下省略。佐久市教育委員会)とある。

道は坂道を下り右にカーブすると向こう側に茂田井の家の屋根が見えてくる。
町というか村というか、家並みが始まるところからは、
道路は上り坂になっており少し登ると、右側に長い白壁の家が見えてくる。
造り酒屋の土蔵や塀である。道路左側は用水が流れており、
人通りも無く、せせらぎの音が聞こえる静かな道である。


(白壁の家)


(武重酒造)


(武重酒造入り口の「さかばやし」)

手前の酒屋が武重酒造で門の屋根の下に杉玉がぶら下がっている。
杉玉は「さかばやし」というらしいが、その横に次のように、

「さかばやし」についての看板がある。
「酒は飲みたし銭はなし酒に林を見て通る。さかばやしは造り酒屋の看板であり、
杉の葉を集めて丸く刈り込んで作られたもので、
昔は毎年新酒ができる春になると青い杉の葉で作った「さかばやし」を軒下につるしたものです。
古来酒壷のことを「みわ」と呼び
酒の神を祭る大和の国の三輪山の杉を標(しる)しの神木とし、
特に尊崇なるようになった。
古来由縁あるものとも云われています。
俳諧寺入道 一茶坊の句に

杉の葉の つるしてみるや 濁酒
杉の葉の ピンと戦(そよ)ぐや 新酒樽」


(集められた酒器の数々)


(昔使った酒造道具)


(奥の酒造り棟)

武重酒造の門が開いていたので中に入る。
いろいろな酒器、昔使用していた酒造道具が陳列してあり、
その奥が酒造りの棟になっている。

「さかばやし」のあった門前には、お酒をこよなく愛した若山牧水の記念碑があり、

有名な短歌
(しらたまの 歯にしみとおる 秋の夜の 酒は静かに 飲むべかりけり)

他二首が刻んである。若山牧水は本当の酒好きであったようである。

牧水は肝硬変が原因で亡くなっている。


(牧水の記念碑)




望月宿(旧中山道を歩く 125)

2007年11月12日 08時20分24秒 | 4信濃(長野県)の.旧中山道を歩く(110~1


(美しい佐久平駅)

(望月宿)
2007年10月24日(水)
日本橋をスタートして22日目。
望月宿は日本橋より25番目の宿場、距離にして177km。
本日は快晴。最高気温予想18℃。

とても美しい上越新幹線佐久平駅。駅前広場の千曲バス、
バス停2番から芦田行きに乗る。約20分で望月停留所に到着。
望月宿の旧中山道は、バスを降りたところを西に向かう。
連子格子の民家が昔の屋号をぶら下げており、
町の古い伝統が偲ばれる。


(旧い家々が建ち並ぶ)

望月宿の呼び名の由来は、
(かって望月には、朝廷が所用する馬を育てる
牧場(勅旨牧)があり、育てた馬を朝廷に貢進(献上)する
「駒牽(こまひき)」の儀式が行われていました。その駒牽が
8月15日の満月の日に行われていたことから「望月」の呼称が生まれた。
奈良時代末には朝廷に献上する馬として有名になった
「望月の駒」。
朝廷には望月のほかにも、諸国から馬が集められましたが、
鎌倉時代より望月の馬だけが献上されるようになり、
勅旨牧としての役目は南北朝の終わりまで続きました。
その歴史にちなんで、望月では11月3日に草競馬が行われています。)
(望月町歴史民族資料館)

道路わきに、旧家らしい如何にもひなびた家が所々に見える。
あらためて見渡すと、町並みは往時の面影を残すべく、
古いものは古いままに残されているように見える。
商家の看板も江戸時代にタイムスリップしたような錯覚を思わせる。
たとえば、モーターバイク屋さん「倍駆商所 清水」(ばいくあきないどころ清水)、
質屋兼染物屋であろうか「しちや こうや 清水屋」、
旅館や電気屋さん、目に付くものがみんな昔風である。


(倍駆商所 清水)


(しちや こうや清水、先に見えるのが望月のバス停)


(何屋さんかな?両沢)


(電気屋さん)

こんな中を西に進むと、左手に古臭く見せた新しい建物に出会う。
建物入り口のシャッターに、消防団とあるのは、その奥に消防車が入っているに違いない。
望月町の消防署であろうか。
その先の両側には旅籠屋がある。右側が山城屋喜左衛門、
左側に井出野屋旅館がある。


(消防団本部?)


(旅館山城屋)


(旅館井出野屋)


(旧家の入り口にはどこも短歌が打ち付けてある)


(本陣跡、現在は歴史民族資料館)

さらに進むと、昔の本陣跡に立派な門があり、今は望月歴史民族資料館になっている。
冒頭に述べた「望月」の呼び名の由来も、この歴史民族資料館から戴いた資料による。
資料館に入ると佐久の中山道宿場展が催されており、
小田井宿、岩村田宿、塩名田宿、八幡宿、望月宿の宿場の様子が古文書を元に展示してあった。


(皇女和宮が使用した湯のみ茶碗)

宿場は、通信や荷物の輸送および旅行者の休憩・宿泊する場所の提供することを主な任務とした。
このうち通信や荷物の輸送を担当したのが「問屋」で、休憩や宿泊の担当が本陣・脇本陣・旅籠やであった。
中でも荷物輸送を円滑に行うため、人足と馬を常時用意しておくこととされた。
中山道では、人足50人、馬50匹を常備していて、宿から宿へと荷物は受け継がれていく。
荷物が多くて常備の人馬だけで不足するときは、近隣の村から馬と百姓が借り出される、
これを助郷といった。荷役を助ける村(郷)とでもいう意味であろうか。

参勤交代などで荷役が多忙のときは、絶えず人馬が借り出され、
百姓本来のの仕事ができなくなり、一家離散の憂き目に会うことも多かったようである。

望月歴史民族資料館の入り口には、双体道祖神の石碑が、コスモスの花の後ろで微笑んでいた。
お地蔵さんや道祖神は野の花に囲まれている姿が旅人の心を癒してくれる。


(コスモスに囲まれた双体道祖神)

民族資料館の裏側の急な階段を上ったところに、
佐久市天来記念館があるので覗いてみよう。
天来とは比田井天来を指し、佐久市望月出身の書家。
書は東洋独自の芸術であるという考えの下に、古典を基本にすえた書法を追求し、
生涯を書の研究にささげた近代書道の父といわれる。


(佐久市天来記念館)


(鴎閒・鶴散 辛酉晩秋 天来象之とある。)

沢山の書が展示されているが、代表作として、
「鴎閒・鶴散 辛酉晩秋 天来象之」が展示されている。
{鴎閒・(しず)かに 鶴散(さん)ず 、(かのととり年の晩秋に
天来これをうつす)}と読むのであろうか?

天来記念館を後に中山道を進む。
右側に重要文化財に指定されている問屋と旅籠を兼ね
一時は名主も務めた真山家(さなやまけ)が見える。


(問屋兼旅籠の真山家)

説明によれば、
(真山家は明和三年(1766)に完成し、土蔵は天明五年(1785)に増築されたもの。
建築時が明らかで、当時の様子もほとんど残されている。
くぐり戸の脇が板の間になっており、問屋として荷が置かれた作りが良くわかる。)とあるが、
あいにく扉は堅く閉められたままで外から想像するより仕方なかった。


(脇本陣家跡)

さらに進むと左側に大伴神社がある。
神社入り口左側にある大伴神社の石碑の文字は、
比田井天来の揮毫によるものと言う。鳥居をくぐり50段ほどの階段を登ると神殿がある。
入り口右側の石碑には中山道望月宿とあり、この神社が望月宿のはずれになる。


(大伴神社、文字は比田井天来の揮毫による)


(大伴神社から振り返ってみた望月宿)



瓜生坂(旧中山道を歩く 124)

2007年11月06日 08時36分41秒 | 4信濃(長野県)の.旧中山道を歩く(110~1


(この信号が重要になる)

(望月宿)

火の見櫓下の双体道祖神の前を通り過ぎると、右からくる広い道路に合流し、
左手に(布施温泉入り口)の信号が見える。
旧中山道は信号を渡り、右にカーブするくだりの道路(150号線)を行き、
しばらくすると、右側に「中山道牧布施道標」の標柱があり、
旧中山道元禄の道標「右中山道布施谷」とあり、昔はここから望月宿に通じていたとあるが、
道は草が生え、先が無くなっているように見えるので、進むのを止めることにした。


(信号を渡ると矢印にあるように道路は右カーブする)


(中山道牧布施の道標と元禄の道標)


(先の見えない草の道のため進むのを止める。推測では142号線の横断歩道のある場所に出るように思われる)

先の(布施温泉入り口)の信号、火の見櫓から出てきた場所にに戻る。
国道142号線の道路は上り坂になっているが、
少し上って、最初に横断歩道がある場所で、さらに右折する。
横断歩道はあるが、信号が無いので、
横断歩道をわたる場合は左右の車には十分注意する必要がある。

交通量がかなりあるからだ。


(横断歩道を右折)

横断歩道を渡った先の右側に「茂田井宿4,7km。笠取峠10,5km」の
案内標柱があるので案内にそって進む。


(案内標柱)

これから瓜生坂の一里塚に向かう。
道路は上り坂で、瓜生坂というが、やがて道は左右に分かれる地点に来る。
突き当たりに民家があり、垣根の外側に左中山道の案内がある。
上り坂を左に進むと道は右にカーブするが、カーブの地点に右中山道の案内があり、
すぐ先に「中山道瓜生坂の一里塚」の碑がある。

江戸から45里、180kmの地点である。


(二股地点、中央に左矢印で中山道の看板がある)


(カーブ地点の案内看板)


(瓜生坂の一里塚の碑)

薄暗い山の中の道路を少し進むと、前方が開けてきて、
左側に「史跡案内中山道」とあって右矢印が書かれている。
そして(道はここから土手を斜めに下っていた)と書き添えてある。
案内看板の後ろ側をのぞくと、熊笹が生えており、人が斜めに入った形跡があるように見えるが、
此処で中に入ってはいけない。


(案内看板があるがここから入ってはいけない)

この案内看板の先10mほどのところに、百万遍念仏塔、
中山道瓜生坂の石碑があるが、その後ろを斜め下る道がある。

そこが旧中山道である。


(百万遍念仏供養塔)


(中山道瓜生坂の石碑)


(分かり難いが、下に矢印で中山道の看板が左を向いている。後ろに左へ折れる道が見える)


(草の繁った道)


(草の繁る道の出口)

草の茂った大八車かリヤカーが通れるほどの道である。
草の道はほんの僅かであるが、400年前の中山道を思わせる道である。
すぐ舗装された広い道にでて、下り坂の道路を半円ほどカーブした先に中山道の案内看板がある。
旧街道はここで右わき道のほうに進む。下り坂はすぐ
直角に右に曲がり、急なコンクリートの坂道を下っていくと右側に、
①長坂の道祖神 ②長坂の馬頭観音 6基の石造群がある。
「中山道長坂の石仏群」と案内標柱も見つかる。


(カーブの後にある案内看板で右側の狭い道を下る)


(旧街道にふさわしい下り道。向こうに望月の町が見える。家の手前右側に長坂の石仏群がある。)


(長坂の石仏群の①3基の道祖神)


(長坂の石仏群②3基の馬頭観音)

道路の突き当りが鹿曲川で、左手に橋が見え、案内看板には橋を渡るとある。

橋は長坂橋という。江戸時代と同じではないが、江戸時代にも橋はあった。


(橋を渡ると記した案内)

橋を渡って少し登り道を行くと、道路は丁字路で突き当たる。
望月宿の街の中に入ってきた。

望月発PM15:22のバスに乗りたいのであるが、
初めての町で、バス停はどこにあるかわからない。
望月の町を道路に沿って歩き出す。古い家並みが沢山あるが、
これは次の機会にゆっくり見ることにしよう、と考えながら歩くと、すぐ目の前にバスがやって来て止まった。
しめたこのバスとばかり、走って乗ろうとしたが、そそっかしいボクにしては、よく気が付いたと思う。
ワンマンバスのドアーをたたいて「佐久平駅に行きますか?」と訊ねた。
「このバスは行きません。岩村田行きに乗ってください」と返事。

時計を見ると、まだPM15:00で早すぎた。
しかしバス停が分からないからこのくらいの時間で正解であったはずである。
無事佐久平駅まで行き。新幹線で東京に帰ったのが19:00であった。

日本橋を出発して21日目。歩行数4.8万歩。
キロ数にして約28kmであった。

いつものことであるが、大体歩く距離は28kmほどと決まっている。
御代田からまっすぐ歩いてきたら、16kmであった。
道を間違えたり、余計な史跡を見たりしていると10kmほど余分に歩くことになるようである。

次は望月宿―茂田井―芦田宿―長久保宿で、寄り道しなければ11kmなのだが、
途中笠取峠があるのでどうなることやら・・・


八幡神社(旧中山道を歩く 123)

2007年11月01日 09時23分06秒 | 4信濃(長野県)の.旧中山道を歩く(110~1


(古い建物が続く上り坂)

(八幡宿)
千曲川を中津川橋の歩道橋で渡ると、中山道は長い上り坂になる。
街道筋の民家は古い建物が並んで、人通りは無くさびしい感じがする。
坂を上りきった右手の上のほうにとぼけた顔の大日尊が白い腹巻と白い帽子(?)姿で鎮座している。
回りは田んぼで稲が風でうねっていた。


(おとぼけ顔の大日如来尊)


(周りは田んぼ)

同じ場所に芭蕉の句碑がある。

(涼しさや すくに野松の 枝のなり)とかいてあるらしい。

変体仮名の文字を判読するのは難しい。
帰ってから芭蕉句集を調べたら

「涼しさや 直に野松の 枝の形」があった。
(この日本語のほうが意味が伝わりにくい。)
「直」を(すぐに)と読んで、「形」を(なり)と読ませるほうが、変体仮名を読むより難しい。
結局、芭蕉句集と変体仮名とを見比べて、やっと
(涼しさや すぐに野松の 枝のなり)であることが判明した。

さて、その意味であるが、
普通庭にある松は枝振りなどが、美しく曲げられているが、
(この松は真っ直ぐに伸びた枝が自然でとても良い、それが涼しげである)と読んだのであろう。
そう思うと、なにやら良い句に思えてくるのは不思議だ。

涼しさや すくに野松の 枝のなり  (芭蕉)


(チャレンジして変体仮名を読んでみてください)

中山道に戻り進むと、すぐ先の右手に草が伸び放題の、
手入れの無い一里塚跡の碑がある。江戸より44里、176kmである。
一里塚を過ぎると、道は下り坂となり、八幡宿の家並みが一望できる。
町に入るとすぐ右側に、八幡宿の呼び名の基になった八幡神社がある。


(一里塚跡)


(八幡宿の家々が一望できる)


(八幡神社)

石の鳥居といい、門構えといい、神殿といい、大きなケヤキといい、
古い歴史を思わせる神社である。

まず最初に随神門をくぐるが、この門は楼門となっている。
説明では、
(楼門とは、楼造りのことで二階建ての門のことを言う。
一階と二階の境は親柱に擬宝珠をつけた高欄の縁側を巡らせている。
頭貫木鼻(かしらすききばな)の唐獅子、各所に施されている彫刻など江戸時代末の特色を示す。
門の両脇の間には衣冠束帯に剣と弓矢を持った武官神象の随神をおく。
建立は 天保14年(1843)6月、今から150年前。
小諸藩主 牧野遠江守康哉が大願主となり数百本の材木を、
またケヤキ材は川西地方村々の寄進により造営された。
楼門高く懸かっている額は明治時代奉納されたもので、
「戈(ほこ)を止めて武を為す」(右書で止戈為武とある)と横書きされている。)


(隋神門、扁額に右より「止戈為武」と読める)

その奥に重要文化財の八幡神社高良社本殿がある。
「建立は延徳三年(1491)祭神は武内宿禰の神号である
高良玉垂命に由来する。室町時代の遺構を良く残している」と言う。


(高良社本殿)


(八幡神社)

高良社本殿の右横には、八幡神社の本殿と拝殿がある。
本殿の壁三方には美しい木彫りがあり、何か物語の一場面であろうが、
おきな、おうな、そして稚児の笑顔が表情豊かに刻まれている。


(八幡神社の木彫、豊かな表情をご覧ください)

八幡神社を出て中山道を西に進むと、すぐ右手に「中山道八幡宿本陣跡」の石碑があり、
往時のままと思われる本陣の門が建っている。


(八幡宿本陣跡の門)

その向かい側に脇本陣があったと言うが、今は見当たらない。
さらに進むと、上町公会場前の(八幡入り口)のバス停を右斜めにわき道へ入るのが旧中山道である。
道路はやっと車が二台すれ違うことができる広さである。
やがて右側に高さ2mもあろうと思われる馬頭観世音の石碑がある。
道路わきに建つ家は人が住んでいるのか、分からないほどひっそりして、寂れた田舎町の感じがする。
わき道はやがてもとのバス通りに合流するが、
合流すると左にカーブして(八幡西)の信号にぶつかる。


(右わき道に入る。「輪を広げよう」の右側が屋根の付いたバス停)


(馬頭観世音の石碑高さがある)

左右の道路は国道142号線であるが、
この信号で右折し、しばらく田んぼの中の道を歩くと、
やがて(百沢東)の交差点に出る。
交差点手前左側はガソリンスタンドで、車道は逆Y字路になる。
ガソリンスタンドの前で、右斜め前方を見ると、
旧中山道らしい狭い道が見える。
道路はガードレールでさえぎられて、車は入ることができない。
向こう側から車が来れば通行止めになる。
生活道路として、人は通行可能である。
旧街道の両側には人家が並んでいるが、人の気配を感じないくらい寂れている。
そのまま旧中山道を行くと、火の見櫓が見え、その先は広い道路らしく車の通行が見える。
火の見櫓の下、1mほどの土手の上に3基の道祖神の石碑がある。
信濃に多いと言う双体道祖神であるが、
1基は高さ70cm、横幅40cmもあろう大きなもので、この大きさのものは始めて見る。


(火の見櫓の下)


(祝言道祖神)

説明では、
(祝言道祖神は長野県安曇地方で発生した道祖神で、
宮廷貴族の装いをした男女が酒を酌み交わす華麗な祝言像である。
安曇系は主尊が日本神話の神々で、着衣も神々の装束で像造されるのが通例であるが、
この道祖神は宮廷貴族風の精緻な造像である。
発祥地安曇地方にも類例の無い貴重な遺産である。)と望月町教育委員会の説明がある。

もう望月宿に入っている。



舟つなぎ石(旧中山道を歩く 122)

2007年10月25日 07時04分37秒 | 4信濃(長野県)の.旧中山道を歩く(110~1

(舟つなぎ石)

(塩名田宿)
塩名田の交差点から西に進み、千曲川までが塩名田宿である。
天保14年の記録によれば、町内は東西4町(約440m)と小さな町で、
今も古い寂れた感じの町が残っている。
町の中ほどに、塩名田宿本陣・問屋跡の標柱があり、本陣を勤めた丸山家が現存している。
(塩名田宿本陣・問屋跡)

広重描く浮世絵「木曽海道六十九次の内 塩なた」にあるように、
千曲川は大きな川幅を持つ川である。絵は、時刻は早朝、渡し場の茶屋で、
仕事の始まるのを待つ船頭の一群とそこに合流する三人が描かれている。

(広重描く浮世絵「塩名田宿」蕨宿にあったタイルより)

(広重画く浮世絵 木曽海道69次之内 「塩名田宿」)

塩名田の町は小さく、すぐ道路は左へ大きくカーブしているが、
カーブする右角に、旧中山道の案内標柱があるので、案内に従って
右のわき道に入るとすぐ千曲川に出る。
川岸に出ると河原に妙な形の岩があり、岩のてっぺんに孔がある。
「船つなぎ石」という。昔千曲川を渡るのに、船をつなぎ、その上に
渡した板の上を歩いて川を渡った。その船をつないだ石である。

(道路は左へカーブするが旧中山道は右側を行く)

(河原にある舟つなぎ石)

今は、左上に立派な橋が架かっているのが見えるが、
先ほど左へ大きくカーブした広い道路がこの橋に通じている。
橋は中津橋といい自動車専用道路で、橋の左側に歩行者用の道路が作られている。
対岸の「御馬寄(みまよせ)」(地名)の橋の袂に、小公園があって、
塩名田の「舟つなぎ石」の説明が書いてある。

(右が車専用の中津橋)

(中津橋の歩道橋のマーク、上の写真の左側が歩行者用)

(塩名田と御馬寄の間を千曲川が流れている。
今は頑丈な中津橋が架けられているから、何の支障も無いが、
江戸時代にはここを渡るのは大変であった。橋を架けてもすぐ洪水で流されてしまうからである。
しかもここは江戸時代の主要街道の一つ中山道であったため、
橋が流されたからといって、いつまでも放置することができなかった。
このため地元塩名田宿・御馬寄村をはじめとして、この地方の人々は、
渡川を確保するために大変な苦労をした。

「中山道千曲川往還橋」木内寛著によれば、
・~享保5年(1722)御馬寄側が投げ渡し橋・塩名田側が平橋で
両側から中州へ架橋
・~寛保2年(1743)御馬寄側跳ね橋・塩灘側が平橋
・~寛延2年(1750)舟渡し
・~享和2年(1803)御馬寄側跳ね橋・塩灘側が平橋
・~明治5年(1873)長さ70間の平橋

このように江戸時代を通じて架橋方式がたびたび変わったのは、
千曲川が「近郷無類の荒川」であり、2,3年に一回以上の割合で
橋が流されたからである。
幕府が崩壊し、明治時代になると、それまで130村による
「千曲川橋組合」での維持管理方式が継続不可能になってしまった。
そこでつくられたのが船橋会社で、明治6年(1873)に
船橋(九艘の舟をつないで、その上に板を架け渡して橋とした)が
架けられ、渡川が確保された。「舟つなぎ石」はその船橋の舟をつなぎとめたもので、
だから石の上部に穴があけられている。
明治25年県によって木橋がかけられ、船橋の役割は終わった。)
(浅科村教育委員会)

中津川橋を渡って中山道は西に向かうが、道路は長い上り坂が続く。

(中津橋を渡った御馬寄)

(古い民家と上り坂)





駒形神社(旧中山道を歩く 121)

2007年10月19日 08時26分46秒 | 4信濃(長野県)の.旧中山道を歩く(110~1


(駒形神社入り口)


(石橋から見た渓谷のせせらぎ)


(岩村田宿3)
「旧中山道を歩く」も121回目になってしまった。京都に到着する頃は、何回目になっているのであろうか?

定額 蘇民寺の妙楽寺を出て、民家のまばらな田んぼ道の
旧中山道を西に進む。しばらくすると右側にこんもりとした森が見える。
近づくと駒形神社の石碑があり、深い流れに石橋がかかっており、
橋を出たところに三基の道祖神がある。
橋の向こうにある階段を登ると平坦地があり、石の鳥居の奥に
小さな神殿が見える。


(三基の道祖神)


(階段と鳥居)

(この地方はいわゆる信濃牧の地であり、
神体は馬に乗った男女二神体が安置されていることから、牧に関連した神社と推定される。
再建は文明18年(1486)と伝えられるが、
形式手法から見て、その頃のものと考えられる。)(佐久市教育委員会)

神殿をのぞいたが社殿は堅く閉ざされ、
男女の神体を見ることができなかった。
平坦地は深閑として、鳥のさえずりとせせらぎの音が聞こえるのみで、
東京の喧騒からは想像することもできない静寂である。


(平坦地と神殿)

帰り道、神社の階段を下りるところに、
女と男をあらわす石造物に出会い、
神殿が堅く閉ざされている理由がおおよそ想像できそうである。


(神格化された?シンボル/正面女性、右/男性)

駒形神社を出ると道は下り坂になって、これを駒形坂というが、
坂を下りきったところにある信号の左側に「塩名田」の
標柱と道祖神の碑が並んで建っていた。

ここから「塩名田」である。


(「塩名田」の標柱と道祖神)





岩村田宿(旧中山道を歩く 120)

2007年10月01日 08時32分06秒 | 4信濃(長野県)の.旧中山道を歩く(110~1


(岩村田の商店街)

(岩村田宿2)
岩村田は内藤家一万五千石の城下町であった。

旅人は城下町を好まなかったのか、本陣脇本陣はなく旅籠も少なかった。
しかしこの近辺の経済の中心地として、現在も商店街が活動している。
街道の右手に見えた大きなお寺は、西念寺といい、
内藤家の菩提寺で、七代目岩村田城主 内藤美濃守正国のお墓がある。


(西念寺)

また小諸城主 仙石権兵衛秀久のお墓もあるという。
仙石権兵衛は出府しての帰りに埼玉県鴻巣市で発病し、亡くなっており、
鴻巣市の勝願寺に分骨されお墓が残っている。(旧中山道を歩く 43を参照願います)
また、仙石権兵衛の本廟は長野県上田市の芳泉寺にある。

その西念寺は龍雲寺と同じく由緒ありげな厳かな雰囲気のお寺である。
本堂といい、鐘楼といい、山門といい、どれをとっても凛としている。
信濃に有るお寺はみんなこんな雰囲気を併せ持っている。


(西念寺の山門)


(鐘楼)


(山門から見た本堂)

中山道に戻って商店街を抜けると、相生町の信号に出るのでこれを右折する。
すぐ小海線の踏切を渡ると、右側に「西宮神社」があり、
踏切には中仙道踏切と書いてあるので、道を間違うことはない。


(相生町の信号、ここを左折)


(中仙道踏み切り)


(西宮神社)

すぐ左側の万年塀脇に道祖神の石碑が三基並び、その先の左側に八幡神社がみえる。
中央に神社、手前の境内には石造群が並ぶ。石には月神尊、庚申、妙見尊などと刻まれている。


(万年塀脇の道祖神)


(八幡神社)


(八幡神社境内の石造群)

中仙道を進むと、道路は右手の岩村田高校、左手の浅間総合病院を過ぎると、
田んぼ道で日陰になるところはない。
やがて道路正面に「相生の松」の史跡がある。
相生の松は日本のいたるところに在り、縁結び、和合、長寿の象徴とされる。
またここにある石碑には、
「其むかし 業平あそんの尋ねけん おとこ女の松の千とせを 」の歌が彫られている。


(相生の松)

何よりもこの「相生の松」を有名にしたのは、
皇女和宮が下向のおり、休憩された場所であることだ。

皇女和宮東向の行程表(板橋区教育委員会の資料による)では、
前日宿泊した八幡宿を出発し、午前の休憩を「相生の松」で、
昼食を小田井宿で、その日は沓掛宿に宿泊された。
八幡から岩村田まで約8kmあり、
岩村田から沓掛まで14kmあって、
一日22km進んだことになる。


(稲荷神社)

「相生の松」から中山道は直角に右に折れる。
しばらくは田んぼの中の道をテクテク歩く。
右手に稲荷神社があり、そこからしばらく歩いて、
やがて左側に定額名覚山妙楽寺というお寺がある。

佐久観光協会によれば、
(妙楽寺は貞観八年(866)「信濃の国五ヶ寺を定額(*1)に列する」と
日本国史に明記されてある信濃五山(*2)の一寺に当たる。
妙楽寺では一月八日、薬師如来を本尊に蘇民将来を祈願する法要を
千年以上今日まで執り行っています。)とある。

(*1)定額(じょうがく)とは、延暦二年(783)以降朝廷が定めた官寺であり、官稲などが給されるお寺を言う。
(*2)信濃五山は伊那郡寂光寺、筑摩郡錦織寺、更級郡安養寺、埴科郡屋代寺、佐久郡妙楽寺の五ヶ寺をいう。
 
妙楽寺の参道入り口の木柱に「佐久の蘇民寺」と書いてある。
しかも(毎年1月8日には蘇民将来を祈願する法要を千年以上執り行っている。)
の記述には驚かされる。百年ならまだしも千年の歴史ある
祈願法要とはどんなものであろうか?

「定額」といい「蘇民寺」といい仏教には解からない言葉が多い。
それともボク自身無教養ということか?

蘇民将来について次回につづく


(定額 名覚山妙楽寺、右側に蘇民寺の字が見える)






龍雲寺(旧中山道を歩く 119)

2007年09月26日 08時10分43秒 | 4信濃(長野県)の.旧中山道を歩く(110~1


(龍雲寺とその山門)


(岩村田宿)
小田井宿より岩村田宿までは4,5kmしかなく距離は短い。
岩村田宿の北の入り口に当たる住吉神社からすぐ先の龍雲寺までは
数百メートルしかない。

入り口はいかにも古めかしい山門がひかえており、山門の変額の文字の
金色もさび付いているのではないかと思われるほど骨董品の風格を持っている。

「東山法窟」と書かれた文字は、
人皇百六代正親町天皇(おおぎまちてんのう)の勅額という。


(東山法窟の扁額)

さらに龍雲寺について、佐久市観光協会によれば、
(甲斐の国主武田信玄が信濃の経略が一段落した永禄三年(1560)
中興の開基となり、北高全祝禅師を迎え興隆を計った。
1.武田信玄の遺骨が霊廟に安置されている。
  (昭和六年五月二十九日境内で遺骨発見)
2.武田家三代(信虎、信玄、勝頼)が厚く帰依した名僧北高禅師の墓碑がある。
3.信玄が上洛の折、必勝千人法憧(多数の僧が道場に籠もって行われる宗教的行事)を
  元亀3年(1572)4月~7月にかけて執行した。
4.武田文書を中心に38通の佐久市指定文化財の古文書、その他が保存されている。
由緒あるお寺である。)という。


(天守閣のように見える山門)


(武田菱が四つ並んで見える)

参道から見ると、左手に古色な山門がお城の天守閣のようにそびえて見える。
山門には武田菱が四個並んで、その奥に本堂が見える。
本堂に手を合わせ、その右手を見ると、信玄公霊廟の文字が見え、
両側に参道と刻んだ石柱がある。信玄廟の入り口がある。
奥を見ると林がうっそうとしており、通路を進むと左手に墓石があり、
手前に風林火山の看板の下部に「信玄公遺骨出土の地」と書かれている。
昭和六年に発見とあるが、どのように信玄であると特定したのであろうか?
DNA鑑定も可能であるが、信玄の持ち物に付着したものから採取したDNAと
遺骨が同じDNAであったのであろうか?
霊廟には武田菱の家紋が刻まれていた。これは山門の家紋と同じものであった。


(信玄公霊廟入り口と両側の参道の石碑)


(信玄のお墓)


(遺骨出土の地の看板)


(霊廟1.奥に見えるのが本堂)


(霊廟2.山門にあったのと同じ武田菱がある。)

戦時中であったので、信玄の死亡は、ひた隠しに隠されていたため、埋葬された場所が定かでない。
ここ龍雲寺で信玄公の遺骨が発見されたとき、一緒に出土した象牙の袈裟の環に
「大壇越信玄公、干時天正元年酉年4月12日於駒場卒、
戦時為舎利納○北高和尚頂礼百拝」と記帳されていた。

その意味は、(ボクの勝手な現代語訳)
(大信徒、信玄公は天正元年(1573)4月12日、駒場にて死亡、戦時中のため、
遺骨を○(ここに)に納める。北高和尚は地に頭をこすり付けて拝むこと百回に及ぶ。)
信玄終焉の地として駒場の長岳寺説が有力な根拠となっているが、
どこまで真実か判らない。

境内に入ったとき、妙齢のご婦人と三歳ほどのお嬢ちゃんが遊んでいた。
ボクが山門に入ると「こんにちは」と挨拶をされた。
上州から信濃に入って、どこでも顔を合わすと人は必ず挨拶をされる。
とても気持ちがよい。
都会に住むボクは隣の人と顔を合わしても挨拶したことがなかったが、
以後は、きちんと挨拶することにしている。

話を戻す。
ボクが信玄廟を覗くと、お嬢ちゃんが珍しげに後についてきたが、
母親に止められ、信玄廟入り口を行ったりきたりして、
ボクの行動を見ている。信玄廟を観て、入り口に戻ると
まだその女の子が歩いている。その姿と廟の入り口との関係で
絵になる構図になったので思わずカメラのしゃツターを切った。
どう感ずるかは、それぞれであるが、その絵をご覧ください。


(女の子の遊ぶ姿)

さて、山門を出て、親子に「バイバイ」を言って別れ、
参道を抜けて通りに出て少し歩くと、先ほどの親子にまた出会った。
どこかに抜け道があるらしい。
もう一度「バイバイ」と手を振って別れる。

中山道は岩村田の繁華街の商店街に入っていくが、
手前の信号「岩村田」から右側の先を見ると、大きなお寺の屋根が見える。
これが武田信玄開基という西念寺で内藤氏の菩提寺である。

岩村田は内藤家一万五千石の城下町であった。


(「岩村田」の信号)



小田井宿から岩村田宿へ(旧中山道を歩く 118)

2007年09月21日 08時41分36秒 | 4信濃(長野県)の.旧中山道を歩く(110~1


(下の問屋跡)

(小田井宿3)
前回は小田井宿の本陣に造られた大用所・小用所が、
畳二畳敷きであることから、いろいろ考えたことを書き述べた。

この小田井宿の町の長さが、記録では約800mであるから、
町としては小さなものであるが、古きよき時代の建物の保存が
良く行き届いている。本陣と上の問屋を後にして進むと、
南側に脇本陣跡があり、続いて下の問屋跡が並んでいる。

しかし、町は寂しげで人通りもなく、やがて左側の家の板壁に、
今にもはがれそうな「小田井下宿」の住居表示が、
町の侘しさを増幅している。
住居表示を過ぎたすぐ先の道路脇に、道祖神、馬頭観音などの
石造群が夏草に囲まれて建っている。


(下宿の住居表示)


(石造群)

旧中山道はこの先、田や畑の中を進むが、道路脇にはりんごの木が
まだ青い実をつけているのが見える。
道路はその先で国道九号線と合流し、歩道もある大きな自動車道となって、
前方のかなり先まで見渡すことが出来る。
先の方は上り坂で、大きなショッピングセンターらしき看板が
(食事ができる大型レストラン、青果物を扱うスーパーマーケット、
日曜大工の道具と材料を扱う店などなど)右手に沢山見えてくる。

右手にあるショッピングセンターがほぼ坂の頂上で、
その先に延びる道路には車が激しく行き来している。
上信越自動車道を陸橋で越え、佐久インター東の信号を越えると
道路脇にこんもりとした森が見えるが、そこは一群のお墓があり、
入り口には、千手観世音、馬頭観世音などの石造群がある。
一群のお墓は大井家先祖代々の墓が累々と並んでおり、
墓地内中央の小高い山に上には、由緒ありげなお墓がひとつある。
この辺りを納めた大井氏に縁のある人のお墓と思われる。


(千手観音など石造群)

武田信玄は佐久に進出した折、大井氏、友野氏、滋野(海野)氏らの佐久衆を破るが、
このあたり一帯は、信濃守護小笠原氏から出た地頭大井氏の勢力範囲であった。
その居城跡も近くにあるという。

町はにぎやかになってくるが、左側に住吉神社の石柱があり、
中には人の気配もなく、石の鳥居とその脇に、大きなこぶを作った
樹齢400年のケヤキがあり、木の幹は空洞で「住吉の祠」といわれているそうだ。


(住吉神社)


(鳥居の隣にある樹齢400年のケヤキ)


(貫禄のあるケヤキのこぶ、この裏側が空洞で祠になっている)

境内には二十三夜塔、御岳山座生大権現をはじめとする、八海山、三笠山の
山岳信仰を現す、石碑が並んでいる。
この住吉神社が、岩村田宿の北の入り口に当たる。


(山岳信仰の石碑)


(龍雲寺入り口の石碑)

少し進むと、同じ左側に龍雲寺の石柱があり、奥にいかにも古いお寺の門が見える。
この龍雲寺には、武田信玄の霊廟がある。



本陣家の厠(かわや)(旧中山道を歩く 117)

2007年09月13日 09時10分13秒 | 4信濃(長野県)の.旧中山道を歩く(110~1

(本陣、安川家住宅の門構え)

(小田井宿2)
トイレほど沢山の言い回しのあるものも少ない。
トイレット、レストルーム、お手洗い、手洗所、個室、化粧室、
便所、雪隠(せっちん)、後架(こうか)、厠(かわや)などなど。
そうだ、何かで読んだが、皇室では「およそよそ」と言うそうだ。隠語みたい。
まだ言い方があるかもしれない。
沢山あるのは、表現するのに厄介なシロモノであるからだ。

小学生の頃、将棋を覚えて、王将を隅に追い込んで詰めたところ、
「雪隠詰めかぁ」といわれて初めて「雪隠」と言う言葉を覚えた。

また、高校生になって、夏目漱石の「吾輩は猫である」を読んで、
飼われた猫が、ご主人がお手洗いで大きな声で謡曲か唄か忘れたが、
高歌放吟する有様を見て、後架先生と表現している。
(まさか高歌放吟の高歌と後架を洒落た訳でもないと思うが)
そこで「後架」がお手洗いであることを知った。

その猫の名前はなんと言うか知っているか?
と友人に尋ねられたことがある。
答えに詰まって「たま」とか「みけ」とか「とら」とか「しろ」とか言っていたら、
友人いわく「お前、馬鹿だな!名前はまだ無い」が正解だよと馬鹿にされた。
よほど悔しかったとみえ、後日その友人に、
「吾輩は猫である」の最後の文章はどうなっているか知っているか?と尋ねたことがある。
「吾輩は猫である」は長い小説で、途中、中だるみがあって、興味が薄れ、
なかなか最後まで読みきる人は少ないし、仮に読みきったとしても、
終わりがおわりであるだけに、馬鹿馬鹿しくて、最後を知らない人が多いのである。

今となっては、うろ覚えであるが、猫はビールを飲んで水がめに落ちて溺れて死んでしまうが、
その時、「なんまいだ、なんまいだ、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」といったのか?
自分の人生を笑って「あっはっは、あっはっは」と笑ったのか?
あるいは、「めでたし、めでたし」と自虐の意味をこめて言ったのか?
どうも思い出せない。どれかであろう。

話がそれてしまったが、中国を旅行して助かったのが「厠」で現されているトイレ。
公衆便所やレストランのトイレなどには、
「男厠」「女厠」と書いてあって極めて判りやすい。漢字を知っている日本人が唯一ホッとする時である。

さてなんでこんな話を持ち出したかと言うと、
小田井宿にある本陣についての説明書きに次のようなものがあったからである。

(安川家住宅 本陣跡について)
(安川家は江戸時代を通じて、中山道小田井宿の本陣を勤めた。
現在その本陣の客室部を良好に残している。
客室部は切妻造りで、その式台・広間・三の間・二の間・上段の間・入り側などは原形を留めており、
安川家の文書では、宝暦6年(1756)に大規模改築が行われたと記録がある。
湯殿と厠は、幕末の文久元年(1861)皇女和宮降嫁の際に修築されたものであろう。
厠は、大用所・小用所共に二畳の畳敷きとなっている。御代田町教育委員会)とある。


(本陣の全景)

トイレ表現に大用所・小用所というのを忘れていたが、
それよりなによりも、厠がたたみ二畳敷きのつくりというのに驚いた。
まさか大用所の畳の上で用を足すなど、二三歳の子供でもあるまいし、
本当に用を足したものだろうか?と思った。
小用所にしても、小便を二畳の畳の上で用を足したものだろうか?
皇女和宮は子供のように可愛かったそうであるが、
まさかしゃがんで(ジョー)とやったわけではなかろう。

くだらない想像は膨らんでいくが、まさか大も小も畳の上でじかに用を足したとは考えにくい。
第一後を片付けるのに人が迷惑する。
大は紙を敷いてその上に用を足した?
いやいやお付の人が、用を足すまで桶を抱えて待っていた?
小用には、今と違って尿瓶など無いからやっぱり桶を使ったのだろう、
と考えるのが妥当のようである。
つまり、オマルの中に用を足したに違いない。

最近、上海へ旅をした。
バスで移動する間に、車窓から見える五階建ての建物。
田舎にしては、ずいぶん近代的なと思われる建物も、ガイドさんが説明では、
「エレベーターもなく、足ベーターで五階まで歩き、トイレも水洗どころかまだオマルで用を足している。」と言う。
オマルに入ったものの処理はどうしたのか、気になるところではあるが、それはさて置き、
どう考えても、二畳の和室内のトイレは、やっぱりオマルというのが妥当のようである。
御代田町教育委員会も罪な説明をしたものだ。
トイレのことだけでもこれだけ悩ませてくれる。

話を旧中山道に戻すと、
本陣家と同じ並びのその先に、高札場跡があり、
その前の道路わきに、御代田村道路原標が見える。
さらにその先に、上問屋跡(安川家住宅、町指定有形文化財)が残っており、
往時のたたずまいをうかがうことが出来る。


(御代田村道路原標)


(上問屋跡、火の見櫓の下に道路原標が見える)

貴重な建築物が良く保存されていて感心する。

ここでちょっと気になることがある。
それは上問屋が東京側にあることだ。
この時代、普通、江戸から京に上ると言った。
今まで旧中山道を歩いてきて、例えば、上の木戸、下の木戸と言うとき、
上の木戸は京都側にあり、下の木戸が東京側にある。
宿場にしてもそうだ。上宿、仲宿、下宿といえば、京都側から上、中、下と並んでいる。

それなのにどうしてこの宿場だけが、上問屋(東京側)下問屋(京都側)と逆なのなのであろうか?


(*)後日、「吾輩は猫である」を調べたところ、
  ラストは「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、ありがたい、ありがたい」であった。