日本橋を品川方向にもどって、右側に高札場跡がある。
「昔の高札場」
今は、高札場の形だけは残しているが、
書かれた内容は、日本橋の由来の碑になっている。
高札場が出来た頃は、道徳的な(?)
「君に忠に、親に孝に...」
などの教訓が書かれていたそうであるが、
評判が良くないので取りやめになったという。
道路の反対側は、さらし場になっていたというから、
不釣合いで、当然のことと言えるかもしれない。
道路を渡って反対側、橋の南たもと、
昔は罪人を三日間さらしものにした、
「さらし場跡」
主人殺し、女犯僧、心中者が主で、朝八時から
夕方16時まで、三日間晒され、その後非人とされた。
非人の歴史は古く、一部終戦の昭和20年まで続いていた。
ボクが子供の頃まで差別はあって、
その子供と遊んではならないと叱られたものだ。
非人は屠殺、寺社掃除、などに従事した賤民のことを言う。
戦後新憲法の下、当たり前のことだが、
人はすべて平等となり、差別は無くなった。
話を戻すと、その「さらし場跡」は、
現在は交番があり、その前には
しだれ桜が見事に咲いていた。
(さらし場跡の桜と交番)
観光客はお巡さんに路を訊いたり、
記念写真を撮ったりしていた。
橋を渡って、つまり中山道を進む右側に、
竜宮城の乙姫をかたどった石像があり、その前に
「日本橋魚河岸記念碑」がある。
観光客はお巡さんに路を訊いたり、
記念写真を撮ったりしていた。
橋を渡って、つまり中山道を進む右側に、
竜宮城の乙姫をかたどった石像があり、その前に
「日本橋魚河岸記念碑」がある。
今は築地に移転し、築地の魚河岸として、
首都圏に大量の魚を供給しているが、
元は魚河岸がここにあって、将軍に収めた魚の余りを、
ここで一般庶民に売りさばいた場所だそうだ。
首都圏に大量の魚を供給しているが、
元は魚河岸がここにあって、将軍に収めた魚の余りを、
ここで一般庶民に売りさばいた場所だそうだ。
(日本橋魚河岸記念碑)
(写真左端の橋のたもとに乙姫像はある)
講談などで有名な「大久保彦左衛門と一心太助」の
話に出てくる魚屋、天秤棒をかついだ一心太助も、
ここから魚を仕入れて売り歩いたのであろうか?
そんなことを思うと、なんとなく微笑ましく思える、
魚河岸跡の乙姫像である。