中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

高札場跡とさらし場跡と魚河岸跡 (旧中山道を歩く 5)

2005年01月08日 11時44分14秒 | 1.武州(東京都)の旧中山道を歩く(1~26


日本橋を品川方向にもどって、右側に高札場跡がある。


「昔の高札場」

今は、高札場の形だけは残しているが、
書かれた内容は、日本橋の由来の碑になっている。

高札場が出来た頃は、道徳的な(?)
「君に忠に、親に孝に...」
などの教訓が書かれていたそうであるが、
評判が良くないので取りやめになったという。

道路の反対側は、さらし場になっていたというから、
不釣合いで、当然のことと言えるかもしれない。

道路を渡って反対側、橋の南たもと、
昔は罪人を三日間さらしものにした、
「さらし場跡」
主人殺し、女犯僧、心中者が主で、朝八時から
夕方16時まで、三日間晒され、その後非人とされた。

非人の歴史は古く、一部終戦の昭和20年まで続いていた。
ボクが子供の頃まで差別はあって、
その子供と遊んではならないと叱られたものだ。
非人は屠殺、寺社掃除、などに従事した賤民のことを言う。

戦後新憲法の下、当たり前のことだが、
人はすべて平等となり、差別は無くなった。

話を戻すと、その「さらし場跡」は、
現在は交番があり、その前には
しだれ桜が見事に咲いていた。
(さらし場跡の桜と交番)

観光客はお巡さんに路を訊いたり、
記念写真を撮ったりしていた。

橋を渡って、つまり中山道を進む右側に、
竜宮城の乙姫をかたどった石像があり、その前に
「日本橋魚河岸記念碑」がある。

今は築地に移転し、築地の魚河岸として、
首都圏に大量の魚を供給しているが、
元は魚河岸がここにあって、将軍に収めた魚の余りを、
ここで一般庶民に売りさばいた場所だそうだ。

(日本橋魚河岸記念碑)


(写真左端の橋のたもとに乙姫像はある)

講談などで有名な「大久保彦左衛門と一心太助」の
話に出てくる魚屋、天秤棒をかついだ一心太助も、
ここから魚を仕入れて売り歩いたのであろうか?
そんなことを思うと、なんとなく微笑ましく思える、
魚河岸跡の乙姫像である。





日本橋道路原標 (旧中山道を歩く 4)

2005年01月08日 10時56分37秒 | 1.武州(東京都)の旧中山道を歩く(1~26
(日本橋 4)
(日本橋の文字)

第一日目。2004年3月27日(土)晴れ

日本橋界隈は、史跡が豊富にある。
出発点の日本橋。
そこはミニ博物館のようだ。


(東京市道路元標)

「日本橋がはじめて架けられたのは、
徳川家康が幕府を開いた慶長八年(1603年)と伝えられる。
幕府は東海道をはじめとする五街道の起点を日本橋と定め、
日本橋川と交差する点として、
重要な江戸経済の中心となっていたことは、
橋詰めに、高札場、魚河岸があったことでもうかがえます。」
東京都中央区教育委員会の案内にもある。

現在の日本橋の橋は、明治44年(1911)に創設された
ルネッサンス様式のアーチ型石橋。
日本橋名は十五代将軍 徳川慶喜の筆によるもので、
青銅の照明灯装飾品のキリンは東京市の繁栄を、
獅子は守護を表現しているとのこと。

(ルネッサンス様式のアーチ橋)


(キリン)

その日本橋のたもと。

品川方面から来て、橋を渡って左側に、
(橋の北、道路の東側)
「東京市道路元標」と「日本国道路元標」のレプリカがある。
真鍮で造られた本物は橋の中央、道路の真ん中にある。
(日本国道路元標のレプリカ)


(道路の中央にある本物の日本国道路元標)

「日本国道路元標」(レプリカ)の脇に日本橋を起点とする、
各地への距離が刻まれた石碑がある。

「日本国道路元標」を中心に西側に
横浜市    29km
甲府市   131km
名古屋市  370km
京都市   503km
大阪市   550km
下関市  1076km
鹿児島市 1469km



「日本国道路元標」を中心に東側に、
千葉市     37km
宇都宮市   107km
水戸市    118km
新潟市    344km
仙台市    350km
青森市    736km
札幌市   1156km  



二つの里程標がある。
この二つの里程標を見て、不思議に思うのは、
東方面は、本州を離れて海の向こうの札幌市までの
里程標はあるのに、
西方面については、海の向こうの那覇市までの
里程標が無いことである。
また、九州、北海道までの里程はあるのに、
四国の松山が無いのはどうしてだろうか?

この里程標が沖縄返還前に造られたから、
那覇市までの里程が刻まれていないのだろうか?
あるいは、JRの線路がつながっている街までの、
距離だけを表示したのだろうか?

そんな疑問が湧いた。




お江戸日本橋(旧中山道を歩く 3)

2005年01月08日 10時43分09秒 | 1.武州(東京都)の旧中山道を歩く(1~26
(お江戸日本橋3)

(日本橋の文字は慶喜揮毫か)

童謡 「一寸法師」は次のような歌詞になっている。

〽指に足りない一寸法師
 小さな体に 大きな望み
 お椀の舟に 箸の櫂(かい)
 京へはるばる 上り行く〽

最後の一句「京へはるばる 上り行く」とある。

現在は新幹線などすべて、東京に向かって上りになる。
それは天皇が東京にいらっしゃるからだ。

しかし、五街道が出来た頃は天皇が京都にいらっしゃったので
「京へ上る」となる。この違いだけ頭に入れておきたい。

日本橋を後に、徒歩で京を目指すことにした。
途中、界隈に残る文明開化の足跡を訪ね、
往時の偉人を偲びながら、可能な限り史跡も訪ね、
写真もふんだんに撮りながら、できるだけ当時の様子を
伝えようと、盛り沢山に欲張って歩こうと思っている。


(お江戸日本橋の浮世絵)

♪お江戸日本橋 七つ立ち 初のぼり
行列そろえて アレワイサノサ
コチャ 高輪(たかなわ)夜明けて
提灯けす コチャエ コチャエ♪

とあるように、
昔の旅人は朝四時(歌の文句の/七つ立ち)に出発して、
第一番の宿場 高輪(品川)で夜明けを迎えた。
旅人は一日に約40キロの距離を歩いた。
しかし、始めに書いたように、ボクは史跡を訪ねながら
歩くので、そんなに遠くまでは歩けない。

中山道の第一の宿場 板橋に到着するのに
4日が必要であった。
真っすぐ歩けば十キロそこそこなのに、
ボクは優に60キロを超えていた。