(東京駅と見間違うほどのレンガ造りで美しい深谷駅)
(深谷3)
深谷駅はレンガの町らしくレンガ造りで美しい。
東京駅丸の内口を思わせる駅舎である。駅を出たところに
郷土が生んだ偉人 渋沢 栄一の像がある。
駅内ギャラリーで、偶然 渋沢栄一展を催していたので入る。
栄一が親交のあった人たちの書、詩が並んでいた。
(深谷駅前の渋沢栄一像)
渋沢 栄一については、述べるまでもないが、
一時は、激しい尊皇攘夷論者であったが、
パリ博覧会に同行し、近代設備や経済制度について勉強。
その知識を元に、日本初の株式会社を作り、後に
第一国立銀行、王子製紙、大阪紡績、東京ガス、などを
設立した財界の大御所とされた。
東京の常盤橋御門脇にも渋沢栄一の像がある。
深谷駅から北北西の6km離れたところに、
生家や記念館があるので、ついでがあったら見学しよう。
中山道に出て進むと右側に、飯島印刷所があるが、
元はここに飯島本陣があった。本陣跡の案内看板が立っている。
しばらく古い格子窓のある造り酒屋の家並みを右左に見て進むと、
その先に「上の常夜灯」があり、深谷宿はここで終わる。
(本陣跡の看板と花壇)
(造り酒屋1)
(造り酒屋2)
(上の常夜灯)
さらに進み、「清心寺入り口」の案内があるところで左折。
線路を渡って正面に清心寺がある。正門左手に
「史跡 平忠度の墓」の石碑がある。
門をくぐってすぐ左手に忠度の墓が見える。
(清心寺)
(平忠度の墓)
忠度は清盛の異母弟で、一の谷の合戦で岡部六弥太忠澄に
討ち取られたことは平家物語にも有名であるが、
討ち取られた時に、鎧の箙(えびら)に結んだ文に、歌が詠まれてあった。
これにより、平忠度と判明した。
・行きくれて 木の下陰を 宿とせば
花やこよいの主(あるじ)ならまし 忠度
墓の前の案内に拠れば、
岡部六弥太が忠度を討って、
その亡骸を領地の一番景色の良いこの地に五輪の塔を建てた。
忠度ゆかりの菊の前が、墓前でさした桜が紅白の二つの花が
相重なる形で咲き、これを夫婦咲きと云い、
忠度桜として有名です。
(深谷上杉顕彰会)
さて、お墓ですが、忠度の辞世を満足させるがごとく、
桜の木で囲まれ、今では辞世のように、花が主(あるじ)となっているのを見ると、
首を討ち取った岡部六弥太の憎いまでの心遣いに感激します。
しばらくすると17号と交差し、その角に「滝宮神社」がある。
これから先が岡部町である。
(滝宮神社ー1498年室町時代のもの上杉憲房の所領)
中山道を行くと、右手に大きな寺院が見えてくる。
「源勝院」である。ここは家康時代の岡部藩主(安部一族)の菩提寺である。
本堂左手に12基の位牌型のお墓が並んでいる。
その左奥に岡部神社が見える。
ここは岡部六弥太が祈願所といわれ、岡部藩主の安部一族は
当社を崇拝し、代々祈願所としたといわれる。
(源勝院の入り口)
(安部一族の十二基のお墓。この左手に岡部神社がある)
(岡部六弥太が戦勝祈願したといわれる岡部神社)
(深谷3)
深谷駅はレンガの町らしくレンガ造りで美しい。
東京駅丸の内口を思わせる駅舎である。駅を出たところに
郷土が生んだ偉人 渋沢 栄一の像がある。
駅内ギャラリーで、偶然 渋沢栄一展を催していたので入る。
栄一が親交のあった人たちの書、詩が並んでいた。
(深谷駅前の渋沢栄一像)
渋沢 栄一については、述べるまでもないが、
一時は、激しい尊皇攘夷論者であったが、
パリ博覧会に同行し、近代設備や経済制度について勉強。
その知識を元に、日本初の株式会社を作り、後に
第一国立銀行、王子製紙、大阪紡績、東京ガス、などを
設立した財界の大御所とされた。
東京の常盤橋御門脇にも渋沢栄一の像がある。
深谷駅から北北西の6km離れたところに、
生家や記念館があるので、ついでがあったら見学しよう。
中山道に出て進むと右側に、飯島印刷所があるが、
元はここに飯島本陣があった。本陣跡の案内看板が立っている。
しばらく古い格子窓のある造り酒屋の家並みを右左に見て進むと、
その先に「上の常夜灯」があり、深谷宿はここで終わる。
(本陣跡の看板と花壇)
(造り酒屋1)
(造り酒屋2)
(上の常夜灯)
さらに進み、「清心寺入り口」の案内があるところで左折。
線路を渡って正面に清心寺がある。正門左手に
「史跡 平忠度の墓」の石碑がある。
門をくぐってすぐ左手に忠度の墓が見える。
(清心寺)
(平忠度の墓)
忠度は清盛の異母弟で、一の谷の合戦で岡部六弥太忠澄に
討ち取られたことは平家物語にも有名であるが、
討ち取られた時に、鎧の箙(えびら)に結んだ文に、歌が詠まれてあった。
これにより、平忠度と判明した。
・行きくれて 木の下陰を 宿とせば
花やこよいの主(あるじ)ならまし 忠度
墓の前の案内に拠れば、
岡部六弥太が忠度を討って、
その亡骸を領地の一番景色の良いこの地に五輪の塔を建てた。
忠度ゆかりの菊の前が、墓前でさした桜が紅白の二つの花が
相重なる形で咲き、これを夫婦咲きと云い、
忠度桜として有名です。
(深谷上杉顕彰会)
さて、お墓ですが、忠度の辞世を満足させるがごとく、
桜の木で囲まれ、今では辞世のように、花が主(あるじ)となっているのを見ると、
首を討ち取った岡部六弥太の憎いまでの心遣いに感激します。
しばらくすると17号と交差し、その角に「滝宮神社」がある。
これから先が岡部町である。
(滝宮神社ー1498年室町時代のもの上杉憲房の所領)
中山道を行くと、右手に大きな寺院が見えてくる。
「源勝院」である。ここは家康時代の岡部藩主(安部一族)の菩提寺である。
本堂左手に12基の位牌型のお墓が並んでいる。
その左奥に岡部神社が見える。
ここは岡部六弥太が祈願所といわれ、岡部藩主の安部一族は
当社を崇拝し、代々祈願所としたといわれる。
(源勝院の入り口)
(安部一族の十二基のお墓。この左手に岡部神社がある)
(岡部六弥太が戦勝祈願したといわれる岡部神社)