中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

招魂碑と水神宮(旧中山道を歩く 103)

2007年06月12日 08時25分39秒 | 3上州(群馬県)の.旧中山道を歩く(66~10

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(街道に見られる旧家)

(坂本宿2)
碓氷の関所を西に出ると、廃線になった碓氷線のガードをくぐる左折道路が見える。
これが旧中山道であるが、左折道路の左側に、
招魂碑と鎮魂碑なるものが二基設置されている。
説明では、
「碓氷峠は、古代より要衝険難の地として、東海道箱根の天嶮と並び称せられていた。
この地に明治18年アプト式鉄道の建設が開始した。
太平洋と日本海を結ぶ鉄道として距離11.2km、26のトンネル、18の橋梁、高低差553mの
碓氷線が僅か一年半で開通した。
当時の技術を思えば、人手に頼らざるを得なかったと思われる。
この工事の犠牲者は「500名」に及び、工事を請け負った建設会社が、招魂碑を建て殉難者を慰霊します。
遊子願わくば、往時を偲び殉難者の冥福を祈らんことを  合掌」
(うすいの歴史を残す会)

最後の下りが胸を打つ。
「旅人よ!当時の困難に立ち向かい災難にあって死んでいった人たちの
冥福を祈っていただくようお願いします。 合掌」の部分だ。

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(招魂碑と鎮魂碑)

この一文を見て、黒部峡谷のダム建設に挑んだ男達の慰霊碑を思い出す。
建設技術の発達で犠牲者171人で済んでいるが、やはり慰霊碑の前でご冥福を祈った。
この人たちのお蔭で明るい電気の供給を受け、勉強できる恩恵を受けた。夢おろそかに出来ない。

信越線アプト式の碓氷線の完成で、碓氷峠を汽車で行き来できた人たちは、
どれだけの恩恵を受けることが出来たであろうか。
今は廃線となり、鉄道文化村として観光用に長らえているが、その歴史を想い合掌して旧中山道を西に進む。
ガードをくぐれば川久保橋で渡り終えると信号があり、道路は複雑な交差点になっている。
正面を見ると、薬師坂の石碑があり、勾配のある坂道に入る。
これが旧中山道でバイパスをショートカットするように道路は国道に繋がっている。

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(川久保橋)

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(川久保橋から見た上信越自動車道、後でこの下をくぐる)

10mも進むと左側に薬師堂が、その先に薬師の湧水地点がある。
往時の旅人は、碓氷の関所を抜けホッと一息ついて、
この湧水で喉を潤したことは、容易に推察できる。
招魂碑に薬師堂に薬師の湧水に合掌して西に進むと先ほど分かれたバイパスに合流する。
道路はここから坂本宿を過ぎるまで、長い直線の上り坂になる。

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(薬師坂の石碑)

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(階段の上に薬師堂はある)

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(薬師堂)

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(薬師の湧水)

上り坂をすこし進むと道路南側に赤い鳥居と祠が見える。
案内によれば、
「坂本宿の道路の端を流れてきた堀を曲折させて、村のはずれから道路中央に流れていた水を、
原村住民は生活用水に利用。その用水路の起点に、清浄と安全と豊富を願い水神を祀った。
水神は、川、井戸、泉のほとりに設け、飲み水や稲作の水を司る民間信仰から生まれた神である。
現在では、水は容易に安全に得られることから、粗略に扱い勝ちである。
水神を詣でることにより水への再認識を深めたいものである。

清き水掬して喉を潤へり 峠越え行く気のみなぎけり」とある。
                (松井田町教育委員会)

日本では、水はほとんどただ同然に安全で容易に手に入るが、
今まで53カ国外国旅行をして、水道水を生水で飲むことが出来た国は一カ国であった記憶だ。
そんな外国では、時には水がワインより、ビールより価格が高い国さえあった。
日本に生まれ住んで有難いと思うことの一つである。
感謝しなければならない。

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(水神宮)

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(しゃれたトイレ)

まもなく頭上を上信越自動車道が横切っていくが、
その先右側に、田舎にしてはしゃれた公衆トイレがあるので、用を足しておこう。
この先坂本宿を抜け碓氷峠を越えるまで、自然の中以外にWCを見つけることが出来ない。
やがて坂本宿の「下の木戸跡」が見えてくる。