(坂本宿、下の木戸跡)
(坂本宿3)
坂本宿の下の木戸が見事に復元されている。
この木戸と坂本宿について説明案内によると
「中山道69次の宿場が出来たとき、坂本宿が設けられた。
宿内の長さ392間(713m)。京都よりと江戸寄りに、
上の木戸と下の木戸が作られた。この木戸は軍事・防犯などの目的のため、
開閉は明け六つから暮れ六つ(現在では、午前6時~午後6時)までであった。
実際には、木戸番が通行人の顔を識別できる時間で判断されたようである。
坂本宿は、文久元年(1861)の絵図によると幅八間一尺(約14.8m)の道路に
川幅四尺(約1.3m)の用水が中央にあり、
その両側に本陣・脇本陣に旅篭・商家160軒がそれぞれ屋号を掲げ、
その賑わいぶりは次の馬子唄からもうかがい知れる。
雨が降りゃこそ松井田泊まり 降らにゃ越します坂本へ」
(松井田町教育委員会)
前回、水神と水の有り難さを記述したが、
渓斉英泉描く、木曽街道69次「坂本」の浮世絵には、
坂本宿を流れる堀川が街道の真ん中を流れており、所々に橋が掛けられている。
今の坂本宿は旧街道の趣を色濃く残している町である。
古い家並みが旅人の気持ちを和らげてくれる。
しかし、残念なことに旧家には住人が無く、空き家になっているところが多い。
(英泉描く浮世絵「坂本」)
(蕨宿にあった渓斉英泉の浮世絵「坂本」のタイル)
下の木戸を抜け、すこし先の北側の道路脇に半分埋もれた形で
坂本町道路元標を見ることができる。
元標の後ろに顕彰碑が建つ小公園があるが、
この公園を清掃しているご婦人に訊くと、この公園が元坂本宿役場跡で、今は松井田町役場と合併したという。
事のついでに本陣があった場所をお尋ねすると、仕事の手を休めて丁寧に教えてくださった。
本陣を訪ねて進むと同じ南側に「おぎのや」の看板のある家が見える。
これが駅弁「横川の釜飯」の出身地である。
「おぎのや」の道を挟んだ向いには、お米屋さんの古い建物がある。
(坂本の道路元標)
(坂本宿役場跡)
(おぎのや)
(米屋)
さらに進むと、旧役場跡のおばちゃんに教わったように本陣は
「もう誰も住むことも無く、空き家」であった。元本陣らしく敷地面積は広く、
草が生えた敷地内には老大木が生い茂っている。
ここが金井本陣跡である。
(無人の金井本陣跡)
説明によれば、
「坂本宿には、宮様・公家・幕府役人・高僧など宿泊する本陣が
二つあり、金井本陣は「下の本陣」と称し、間口10間(約19m)、
建坪180坪(約594㎡)、屋敷360坪(約1200㎡)玄関、門構えつきの建物であった。
(諸大名様方休泊御触書帳)によると中山道を上下する大名例弊使のほとんどは坂本泊りであった。
本陣に泊まるには、最低124文、最高300文、平均200文程度で多少のお心付けを頂戴しても、
献上品が嵩むので利は少なかったが、格式と権威は高く格別の扱いを受けていた。
――中略――皇女和宮ご宿泊の折詠まれた歌
都出で幾日来にけん東路や思えば長き旅の行くすえ」
(松井田町教育委員会)
坂本宿の案内には、終わりに一首付け足してあるのが妙である。
(佐藤本陣跡)
(佐藤本陣跡にある坂本小学校発祥の地の石碑)
その先にもう一軒の本陣跡があるが、これが佐藤本陣家で、
今も本陣としてのたたずまいを残している。明治初代の坂本の
小学校発祥の地でもある。