(神社らしき杉の大木が見える、これが若宮八幡神社)
(和田宿3)
三千僧接待碑を通り過ぎてしばらくすると、左側に杉の木が数本
まとまって高く生えているのが見える。
田舎の神社や寺院がある証拠である。
近づくと神社手前の道路左脇に地下道が作られており、
「東餅屋(和田峠)地下道をくぐる」と案内看板が出ている。
地下道の左先にこの杉林はある。
(地下道)
(地下道入り口と案内表示板)
(子供の作品と思われる可愛い壁画)
地下道をくぐると、地下道の壁には近隣の中学生が書いたものか
草花の絵とその名前が描かれている。十メートルほどで地下道は出口になる。
何のことは無い道路を地下で渡るようになっているだけである。
地下で渡った道路は二車線の車道であるが、
きっと道路を車が数珠繋ぎで通って横断するのに危険を伴うか、
あるいは以前、この神社へ参拝するに当たって通行した人の死亡事故でも起きているのかもしれない。
(あるいは自治体のただ単に予算消化のために作ったものかもしれない)
しかし、今は車はおろか自転車も人も通らない。
静かな道路である。
朝とか夕方にはきっと沢山車が通るに違いない。
(どう見てもラッシュになりそうも無いが・・・)
さて、地下道を出ると中山道はこちらと矢印が下を向いている。
向いた矢印の方向を見ると、田舎のあぜ道よろしく草は生え放題の
農道が続き、その道路は山裾に入っている。街道にしては狭すぎる。
中山道はもともと2間の広さで造成されているはずであるから、
どうも農道に見える道とは違うと判断して、
広いほうの今まで歩いてきた延長線上を行くことにした。
(若宮八幡神社)
左脇の神社は若宮八幡神社と言い、
和田城主の大井信定父子の墓がある由緒のある神社である。
説明によれば、
「本殿は、一間社流造の間口1.5m、奥行き1.7mの大きさで
棟札には享保六年(1721)建立とある。――中略――
天文二十三年(1555)和田城主大井信定と武田信玄が矢ヶ崎で合戦、
信定父子始め、一族郎党ことごとく戦死しその父子の首級がここに埋葬された。」(長和町教育委員会)
(若宮八幡の反対側にある神社)
(埃だらけで苔むした何の神社か?)
道路反対の右奥の山すそに鳥居があるので寄ってみる。
杉林の前にある神社には、苔むした石の階段を上がらなければならない。
本殿を見ても何の神を祭ってあるのか良く判らない。
土地の氏神様であろうか?
(一里塚後跡の石碑まだ新しい)
道路を進むと、左手に「中山道一里塚」の石碑がある。
日本橋より49番目の一里塚(芹沢の一里塚)である。
この石碑はまだ新しく、最近建てられたもののように見える。
そのように考えると旧中山道は、さっきの草が生えた道なのかもしれないと疑念がわくが、
人の気配すらない田舎道では、どちらが正しいのか訊くことも出来ない。
進んできた中山道は右側に人家がありさらに右奥には山が迫っている。
やがて山との間に人家が無くなり、道路は山すそに沿って進むようになる。
左側に国道142号線と並行するようになると、道は急な登り坂となる。
二百メートルほどで道路は二股に分かれ、
左道路わきに「是より和田宿」の大きな石碑があるのが見えるので、左側の道を採る。
進むと右側に和田小学校、和田中学校があり、
その二つの学校の間に大きな石の鳥居があり和田八幡神社とあるが、
神社らしきものがその鳥居の奥に見当たらない。
(急な上り坂)
(左の道をとる)
(和田宿の立派な石碑)
(和田中学横の鳥居)
さらに進むと右側の一段高いところに八幡神社がある。
ここにも鳥居はあるが、先ほどの石の鳥居との関係が良く判らない。
神社が道路に接近しすぎているところを見ると、
昔は先ほどの大きな鳥居があったが、中山道を通すことになって、
鳥居だけ移動させたのかもしれない。
この八幡神社の境内にはこんもり盛り土をした土俵とけやきの大樹がある。
夏祭りにはちびっ子相撲でも開催されるのか、土俵の円は小さい。
(和田八幡社の鳥居)
(和田八幡の本殿と土俵)
本殿脇にある説明板によると、
「長和町指定文化財の八幡社本殿は、かって和田城主大井氏の
居館の鬼門除けに作られたとの伝承がある。
白木造り一間社流造の本殿は、間口1.7m、奥行き1.8mの大きさで、
蟇又に巴の紋所が入っており、妻の大瓶束が軍配団扇形となっているのが特徴である。
全体にすっきりした建築で十八世紀前期の建築と推定される。
拝殿と覆殿を併合した入母屋造りの建築も珍しい。」(長和町教育委員会)
とあるが何のことか良く判らない。
建築用語については、次のように調べましたので、ご覧ください。
建築用語の解説図を載せますのでご検討ください。
(建築用語の解説図)
・用語について
(本陣)
・一間社:(上の写真で、もし上に神社の屋根があるとして)両方の柱の上に横たわる桁の長さが一間あると一間社、三間あると三間社と言う。
(本陣のご入門)
・流造:門の屋根が直線でなく、流れるように反って流線型になってなっているのを「流造り」という。(上の写真)
・妻:屋根の山の形をした側を「妻」といい、上から下に屋根が下りてきた平らなほうを「平」という。
・妻入り・平入り:妻側に入り口がある建物を「妻入り」、平らなほうに入り口がある建物を「平入り」という。
・妻にある大瓶束(たいへいづか)とある「大瓶束」については下記URLを参照してください。
http://www.kcn-net.org/senior/tsushin/kokenchiku/mon/yotsuashi/taiheitsukashosai.htm
・入り母屋造り:妻の下へさらに屋根が続くのをいう。(写真下参照:妻の山型からさらに屋根が平らにつながる)