(種を取るためであろうか、ねぎぼうずが見事だった。)
(和田宿2)
ミミズ道祖神の先に三千僧接待碑の石造群がある。
説明によれば、
「信定寺(しんじょうじ、和田宿にある)別院慈眼寺境内に建立されていたものが、
寛政七年(1795)この地に移された。
諸国遍歴の僧侶への接待碑で
一千人の僧侶への供養接待を発願して見事結願し、一躍二千を増やした。
三千の僧侶への供養接待を発願したと碑文に刻まれている。
碑を見れば誰の目にもわかるように
一千僧の「一」の字を三千僧の「三」の字に改刻した痕が歴然としている。
当時三千という僧侶への接待用の食べ物は米飯ばかりでは到底賄いきれないところから
麦飯、麺類、粟飯、ひえ飯等雑穀にても賄い、
更に天保年間の六年に渡る凶作続きの際にはジャガイモの粥などで
賄ったことがあると言われている。」(和田村・長野県・文化庁)
(三千僧接待碑)
なるほど、説明を読むとわかるが、「三」の数字が、
あまりにも上のほうに詰まって刻まれており、
「一」の上に「二」を足したことがよく判る石碑である。
集落を過ぎて行くと、大きな馬頭観世音の碑が一段高いところに見ることが出来る。
(馬頭観世音の碑)
(馬頭観世音の碑2)
一日に何人の僧に接待したのか良く判らないが、
少なくも天保の六年間とあるから六年以上はあったと思われる。
この碑が寛政七年(1795)にこの地に移されたとあるから、
そこから天保六年(1835)までと仮定しても、
実に40年掛かっている。
世界には、千円で何人もの子供の命が救われる地域もあるというのに、
日本では、たった一人の役人に数億円単位の接待をする会社があって、
検挙された事件があるが、少しはお布施にでもまわしてほしいものである。
金に目がくらんだ亡者どもを、どうぞ神様仏様、彼らを改心させてやってください。
そして不幸な子供たちに幸せを分け与えて下さいますよう、お願いします。
分相応の生活に満足し、毎日の生活の中から、
つめに火を灯すようにして倹約できたお金を蓄えて、
報われない子供たちに、寄付をしている人もいることを忘れないで欲しい。
三千僧接待碑の説明を見ながらそう思った。
(中央が虚空菩薩像)