(関所脇の紅葉)
(贄川宿3)
今日は贄川関所前のバス停で降りて関所に入る。
前回、受付にいらっしゃったお姉さんは本日は都合でお休み、
ピンチヒッターの妙齢の女性が受付に現れた。
(橋の下、山間の隘路にある関所)
(贄川関所の入り口)
復元された関所は「贄川関所」とされているが、
当時の資料では「贄川番所」と番所と呼ばれていることが多い。
番所は関所よりも格落ちするように思われるが、
さしたる根拠はなく「番所」=「関所」である。
受付嬢は関所のガイドも勤め、その案内によると、
「源義仲(木曽義仲)の孫讃岐守家村建武二年(1334)頃
贄川に関所を設け守らせたことに始まる。
贄川関所は木曽谷の北関門として軍事的にも重要な役目を果たした。
慶長19年(1614)大阪冬の陣の際は、山村良安の家臣原彦左衛門、
荻原九太夫がこの関所の警備に当たった。
元和元年(1615)大阪夏の陣の際は、荻原九太夫、千村大炊左衛門、小川源兵衛
この関を守り、酒井左衛門尉の家臣八人の逃亡者を捕らえる。
江戸時代は木曾代官山村氏が臣下に贄川関所を守らせ、
特に婦女の通行と白木の搬出を厳しく取り締まった」という。
(関所の中の座敷)
(上番所)
関所の広さは前回書いたが、1062.6㎡で、
中央に座敷があり、ここは大名などが休憩する場所、
向かって左隣の上番所は、
関所の責任者が通行手形の発行者印を照合する手形改めや
通行の可否を決定する業務をした。
この部屋の壁には、関所破りに備えて道具(槍、弓、鉄砲、
ひねり、鳶口、棒、用水桶、梯子)がある。
さらに左側に囲炉裏のある部屋があるが、ここは台所である。
(台所兼休憩所)
(ここまで写真を撮っていたが、
資料室で何枚か取っているときに案内の方がおいでになって、
写真禁止を言い渡されてしまった。
ヨーロッパやアメリカでは絵画でも平気で写真を撮らせてくれるが、
発展途上国のロシア、インド、中国では、写真撮影は有料であった。
日本はただ禁止と言うところが多いのは残念!)
女性については道中手形が必要で、
その手形は数行にわたり長々と、
どこの誰がどんな用件でどこへ行くと書かれ、
奉行が発行した手形であったのに対して、
男性のものはいとも簡単に一行で、
どこの誰兵衛が通ると書かれたものであった。
座敷の右側の下番所(現在は資料室になっている)における足軽の勤めは、
諸道具(関所破りを絡め捕る道具)の管理や手形持参人と
上役との取次ぎ、荷物改めや通行許可の通達などであった。
下番所の奥に、窓がひとつも無い部屋があるが、
ここでは女改めと称し、
中間の妻が「改め女」「さぐり婆」の役目を遂行した場所である。
想像すると、なにやら艶めかしい場所のように思われるが、
光が当たらない部屋では、旅の途中で探られる女性は気味悪かったに違いない。
女改めの実際については
「当時女の旅人で男の付き添いの無い場合は珍しかった。
普通女の旅行一行が関所に到着すると、
まず付き添いの男が手形を持って下番所に行くわけであるが、
諸家中の者や、やや身分のある者以上になると付き添いの男が関所へ行き、
婦人は旅館に休息させておいて先に手形提示の手続きをした。
関所では、下番のものが「誰様のお女中でございますか」と
先方苗字を尋ねて上番のものへ申告する。
上番のものが直接手形を受け取る。
下番の者は取り次ぎ役であって、決して手形は受け取らない。
上番の者は手形を受け取って子細に検討をして文言その他不備なき点をみて、
なおかつ印鑑の照合を行った。
すべて不備がなければ女改めとなった。
女改めの要点は大女(おとな)、小女(こども)、尼などの区別だけの模様であった。
大女小女の区別としては、眉、髪の結い方、着物、
鉄漿(おはぐろ)の有無であり、
髪の模様は、髪切りであるか髪長であるかで、多くの場合解かせて改めた。
こうしてどの条項にも相違がなければ下番のものから上番への申達によって、
通行許可となった。そして下番の者の「通れ」の合図で事済となった。
けれども大女であるのに振袖を着ていたり、
鉄漿がなかったり、眉毛があったり、
髪切とあるのに髪が伸びていたりすると、不通用となった。
すべて手形と不符合の点があると家老へ申達し、
その指図を受けて処理しなければならなかった。
家老は先例を調査したりして、
内意を含めて手形に符合するようにさせて通用させた。」
とある。(贄川関所内説明)
(女の通行手形)
関所内に展示してあった通行手形を紹介する。
「女三人の内小女二人乗り物二挺、摂州大阪より
江戸迄、木曽福島御関所相違無く
相通らるべく候、右は大阪瓦町壱丁目
伊賀屋勘左衛門妹姪の由、人主勘左衛門、
同町年寄・五人組証文これを取り置く此の如く候
元文五年(1741)申五月朔日 水谷信濃守 ?
福島
人改中 」
これは、大阪の伊賀屋勘左衛門なる者の身内の女三人が
江戸へ下る際の関所手形である。
手形発行者は堺奉行であった。
なお、飛脚などは状箱を提示すれば通行することが出来たという。