中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

沓掛観音堂(旧中山道を歩く 181)

2009年08月16日 06時13分00秒 | 5.木曽(長野県)の旧中山道を歩く(157~2


(国道に合流地点)

(木曽福島宿 7) 
トンネルを出ると新緑がまぶしく目に映る。 
しばらくは新緑の山道であるが、やがて坂を下り、
国道19号線に合流する。国道に沿って歩くと、すぐに信号に出る。
右折すると木曽川を渡る橋「本橋」、橋の手前は自動車修理工場。
この信号を左に渡り左にある中央本線に沿って歩くと、
信号のすぐ先にガードがあるのでくぐる。
このガードは見落としやすく、通り過ぎてから戻ってくるようになってしまう。
上記の「信号を左に渡り」を守れば通り過ぎることもない。


(本橋信号手前右側の自動車修理工場)


(本橋信号)


(信号右折は御岳への本橋)


(信号を左折しすぐのガードを左折)


(神戸架道とあるJRのガード)


(下に中央本線と国道と陸橋が見える)


(林に囲まれた道路。ここに御岳遥拝所がある)


(木曽御岳遥拝所)

ガードを出て坂道を登ると、右下に中央本線と歩道橋が見える。
国道を右下に見ながら、山の中腹の道を歩くと、
やがて道が下り坂になり、林の中に突っ込むような道になる。
その林の左に御嶽山遥拝所があり、
階段を登ると林の中に石の鳥居と石積みの社殿?らしきものが在る。
遥拝所というから、此処から御嶽山が見えるものと期待して、
場所を変えながら山があるであろう方向をのぞいてみたが、
それらしき山は見えない。あきらめて階段を下り山道を進む。
しばらくは薄暗い林の道が続く。

木曽節の唄にある
♪心細いよ、木曽路の旅は、笠に木の葉が舞いかかる・・・♪
の一説がぴったりの場所であるが、やがて道は開け、
このあたりで後ろを見ると天空に御嶽山がその威容を見せてくれる。


(遥拝所の石の鳥居)


(振り返ると御嶽山が山並みの間に見える)

道路は右下に国道と中央本線を見ながら進むが、
やがて道は下りとなり右側に中央線のガードがあり、
左手に案内看板で
「中山道コース 至上松町・木曽の桟 1km」行き先を示してくれる。
案内通りガードをくぐり出ると国道に面するが、
ここにも案内看板があり、「上松駅3.5km 木曽の桟1km 
沓掛観音300m」と左を指している。


(木曽の桟1kmの案内)


(中央本線のガードをくぐる)


(沓掛観音300m)


(国道脇の道)

国道を少し歩いて、すぐ左に脇道があり、
案内ではこれが旧中山道とあるが、怪しみながら脇道を進む。
登り坂を少し進むと、道は二股になり、
股の間に赤い消火栓があるので、消火栓がある方向に進む。
案内書にはそのように示されている。
その先はやや下り坂で、左手の枯れた松と高野槙が目印で、
その先は中央本線に沿って草の道を行くように案内書にあるが、
本当にこんな道が中山道かと疑ってしまう。

道路沿いの民家のお姉さんが居たので、挨拶して
「これが中山道で間違いありませんでしょうか?」とお訊ねすると、
「はい、そうですよ」とご返事。
「皇女和宮や明治天皇がこんな道を通ったとは思えませんね」と言うと、
「そうですね、昔は大変だったでしょうね。
この先の桟(かけはし)はもっと難儀だったのではないでしょうか」という。
そうだ桟はもう近い、そう思いながら御礼を言って別れた。


(赤い消火栓がある方へ行く)


(左手の枯れた松と高野槇が目印)


(線路脇の草道が中山道)


(草道は終り)


(沓掛観音堂の案内)

すぐ、左手に枯れた松と槇の木があり、
道路は右に曲がっていくが、
旧中山道は線路沿いに草むらの狭い道を行く。
草道は100m弱と思われるが、その先に背の高い草が生えており、
どうなるか興味津々で進むと、
草が生い茂っている所はその先が右へ下りになっている。
そのすぐ先に案内看板があり、
「沓掛馬頭観音堂」と左矢印がある。
左側は背丈ほどの草が伸び、
小山になっていて山上に祠らしきものが草の間から見える。
道を少し戻ると、草を掻き分け人が登った形跡があるので、
そこを登る。
堂の前も後ろも草が伸び放題で堂の前に庚申塔の石碑が一つある。


(沓掛観音堂、通りから背を向けている)



(観音堂の正面)

沓掛馬頭観音の縁起に寄れば、
(昔、木曽義仲公の名馬は、人の言葉が解り、
義仲が木曽の桟の絶壁に通りかかり、
目算で「七十三間飛べ」と号令をかけました。
馬は命ぜられるまま正確に七十三間飛びましたが、
実際は七十四間あったので人馬共に川中へ転落してしまいました。
義仲は九死に一生を得て助かりましたが、
かわいそうに名馬は亡くなりました。
そこで義仲は金の観音像を作らせて一堂を建てて、
馬の菩提を弔ったという。
以前は、もう少し南の観音坂にありましたが、
明治43年の鉄道工事の折に、
現在地一里塚の上に移築されました。)とある。

小山と思ったのは、一里塚であった。
中山道はこの観音堂の南を下っていたそうで、
南側を降りようとしたが、草に足を取られ前に進めない。
一里塚の麓を迂回し国道に合流する。
一里塚の南面から見ると、一里塚の小山の南面は崖になっており、
とてもお堂の前を通り抜けて中山道へ抜けることは出来ない。
草に足をとられて引き返したのが正解であった。
無理に進んだら崖から転落し、命の保証はない所であった。
この一里塚は江戸より71里、京より66里の一里塚である。

ここから上松町にはいる。

(坂を下ると国道19号線に入る、左側のわずかな幅の歩道を行く)