中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

尾張藩上松材木役所とおそばの越前屋(旧中山道を歩く 184)

2009年10月23日 09時22分43秒 | 5.木曽(長野県)の旧中山道を歩く(157~2


(JR上松駅)

(上松宿 3)
日本橋をスタートして、31日目。

2009年10月20日(火)木曽福島駅前発10:56分発の
上松コミュニティバスに乗ってJR上松駅前に11:12分に到着した。
この日は歩き出す時間が遅いので、約14kmの須原宿まで行く予定である。

駅前から旧中山道の交差点(広小路)を右折し、
次の信号(下町)を通過すると、左手に酒屋があり、
国道に沿った狭い脇道が左手にある。
これが旧中山道。
国道はそのまま右に緩やかにカーブしており、
「上松町」と書いた歩道橋が道路をまたいでいる。

狭い道は登るとすぐ左折してさらに上り、
石垣に突き当たる形でまた右折している。
石垣横のゆるい階段を登ると、道はやや広い道路に合流する。


(酒屋の前の狭いほうの道を行く)


(突き当たる格好で左折している)


(突き当たりの石垣を右折)

長野県の旧中山道は、後でできた道路に寸断されながら進むが、
基本的に両側は山で囲まれ、木曽川の流れに沿って、
またJR中央本線西線に沿って歩くことになる。
旧中山道は、これら後からできた道路や鉄道と合流したり、
遮られたり、離れたりして、
旧中山道を歩く者にとって進む道路を大変複雑なものにしている。
次の宿場までまっすぐ行けば14kmの道のりも、
1.5倍の21kmの長さにしてしまう。
道を少しでも踏み間違えばさらに長さは長くなり、
史跡を訪ねて寄り道をすると、歩く道はさらに長くなる。
しかし、未知の世界を訪ねると、いろんな発見があって楽しみでもある。


(マンホールが見える階段)


(ヒノキの里あげまつのマンホール)

合流する前の緩やかな階段に、
マンホールの蓋があり「ひのきの里 あげまつ」と書いて、
蒸気機関車が煙を吐いて走る絵があしらってある。
こんな階段にどうしてマンホールがあるのか不思議でならない。
下水道が階段下に通っているのだろうか?
いかに緩やかと言えども、
階段にある勾配では一雨あると急激な濁流になってしまうだろうと、
余計な心配をする。

道路先の十字路左手の土手の上に、道路案内と斉藤茂吉の歌碑が置かれている。

・駒ケ岳 見てそめけるを 背後にし
                  小さな汽車は 峡にいりゆく  茂吉 

とある。
案内看板は「寝覚ノ床 1.5km」と右を指している。

その先に上松小学校があり、
手前にある入り口をはいると、左手に中央階段があり、
その奥の右手に藤村文学碑がある。
木曾で藤村は名高い文学者なのだ。

碑文に

「山は静かにして性をやしなひ、水は動いて情をやしなふ 洒落堂の記より 藤村」

と刻まれている。


(斉藤茂吉の歌碑)


(歌碑の文字)


(上松小の入り口)


(中央階段、この右に藤村碑)


(藤村文学碑)

その先左側、上松小のグラウンド脇に「尾張藩上松材木役所御陣屋跡」の石碑がある。
この一帯は、昔材木役所のお屋敷があったところのようである。

上松教育委員会の説明によれば、
「寛文3年から四年(1663~4)にかけて尾張藩は木曽総山の検見を実施し、
その大半が伐られ、尽山も多いことに驚き、
山村代官から山に関する一切の業務を取り上げ
上松の原畑の地に直轄の材木役所を造ったと言います。
この役所は、南北六十五間、東西五十五間で三千五百坪と言う広さです。
また周囲を高土手や丸太で囲い、大砲まで備えた堅固な陣屋でした。
中には、奉行屋敷・東長屋・中長屋・奥長屋があって奉行・吟味役・調役・
目代・元締・同心が常時詰めていました。また陣屋内には、
水天宮・三島大明神・伊勢神宮・熱田神宮・御岳大権現の五社を祀っていました。」とある。

その隣に石の鳥居があり、
階段を登ると小学校のグラウンドを横切った向こう側に神殿がある。
諏訪神社で、この境内に教育委員会が述べている五社神社が祀られている。
小学校のグラウンドの広さが丁度上松材木役所の敷地に見合うもので、
道路より一段高く「高土手の上にある」という表現から、
ここに役所があったように思われる。


(土手の上の上松材木役所陣屋跡の碑)


(グラウンドを越えた向こうの諏訪神社)


(諏訪神社の鳥居越しの街。神社が土手の上にあることが解る)

グラウンドを降りて進むと十字路があり、
直進「寝覚ノ床 1.2km」の案内が左手にあるので突き当りまで進む。
突き当りの向こう側は川になっており、
左折すると「一級河川 中沢」とあり、案内書にある中沢橋である。

登り坂を進むと、人家は少しづつ減って行くが土地は
「北見帰」から「南見帰」へと住所が変わっていく。
人の名もそうであるが、地名ほど読み方が難しいものはない。
「きたみき」「みなみみき」あるいは、
「みなみみかえり」「なんけんき」かと不審に思っていたら、
土地の人らしき方にお会いできたので、
お訪ねすると「みなみみかり」と読むそうである。

そう言えば、バス停に「北みかり」「南みかり」があったのを思い出した。
最近、観光客が増えて、土地に親しみを持ってもらうために、
以前は漢字表示であったものをひらがな表示にしました、
とご婦人が答えられた。

ボクのような観光客に、土地の人は尋ねられて、きっと煩わしかったに違いない。
ついでに「近くにお蕎麦屋さんはありませんか?」と訊ねると、
「この先に「越前屋」というお蕎麦屋と「たせや」と言う民宿がありますが、
その間の道を下って国道の信号に出た右手に蕎麦屋があります」と言う。


(中沢橋)


(如何読みますか?)


(ミカリと読みます)

先に古い二軒の家、手前に「たせや」先に「越前屋」があるが、
両方とも営業しているのか居ないのか、
分からないようなたたずまいであった。
いずれにせよ坂を下ると、正面に寝覚ノ床へ行く途中の「臨川寺」入り口が見える。
国道に出る前の右手に「寿命そば 越前屋」がある。
坂の上の越前屋が国道沿いに出店をしたという感じである。

この「寿命そば越前屋」は歴史が古いらしく、井伊直弼、皇女和宮、明治天皇、
岩倉具定も立ち寄ったという看板が臨川寺にあったが、本当かどうか?
それにしても歴史はあるようである。

さてお値段は「もりそば 1200円」を聞けば、
どんなお店かあとは想像してもらいたい。
そばを戴き、寝覚ノ床に向かう。


(「越前屋」と「たせや」)


(寿命そばの越前屋、正面に寝覚ノ床の臨川寺が見える)


(そばやの店内)


(店内のお品書きもいかにも木曽らしい)