中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

東門院(旧中山道を歩く 318)

2012年04月23日 10時00分42秒 | 7.近江(滋賀県)の旧中山道を歩く(285~3


(右手にある道標)


(道標)

(守山宿 4)
中山道はこの先右手の角に道標が建っている。
「石邊道標」といわれるものだ。

この道標については、
(本道標が建てられているこの地点は、
その昔、掟書などが掲げられていた高札場の一角であった。
道標は、中山道側の側面にには、「右 中山道 並びに 美濃路」
その左側面には、
「左 錦職寺四十五丁 こ乃者満道(このはまみち)」の
文字が刻まれている。

「右 中山道 並び 美濃路」とは、右が美濃(岐阜)へ続く中山道で、
「左 錦織寺四十五丁 こ乃者満ミち(このはまみち)」は、
左の道を行くと人々の信仰を集めた、
真宗木部派本山である錦織寺に至る約四キロの道程(錦織寺道)であり、
それに続く「こ乃者満ミち」は、
琵琶湖の津として賑わっていた木浜港へ通じる道筋であることを示している。
――後略)(守山市教育委員会)とある。


(右にカーブする街道)

この先道路は、右にカーブしていくが、曲がった先に東門院がある。
(東門院は江戸時代には観音堂として記述されていますが、
その正式名称は「比叡山東門院守山寺」で、
享保19年(1734)近江輿地志略に出ています。
寺伝によれば、伝教大師が延暦寺を開いた時、東方の鬼門を守るために、
建立されたといいます。
数多くの文化財があって、「守山の正倉院」とも言われています。
昭和61年の大火により本堂はじめ、多くを焼失しましたが、
木造不動明王坐像、石造五重塔、石造宝塔など文化財があります。
また、江戸時代朝鮮通信使の宿として使われました。)
(守山市教育委員会)


(東門院)

山門には木像の仁王像が左右にあり、
中央には「東門院」と描いた大きな提灯が、
浅草の雷門のようにぶら下げてある。
門を入ると左手に、
大きな石造りの蛙が背に小カエルを乗せているのが目に付く。
特段意味があるものでは無さそうだ。
少し右にカーブした格好で本堂があり、
その左手に三基の石造物がある。
左から宝塔、五重塔、法篋印塔が並んでいる。


(左の仁王像)


(右の仁王像)


(親蛙と子蛙)


(本堂)


(国重要文化財の石造五重塔、重要美術品の宝篋印塔、重要美術品の宝塔)

三基の石造物の横をでると、山門の西側に出るが、
そこに明治天皇御聖蹟の石柱がある。
さらに隣に門前茶屋「かたたや」があり、
これは往時からあると言われる。
その先の交差点が「守山銀座西」で、
左へ銀座通りが続くがここは直進する。


(明治天皇御聖蹟)


(堅田屋(かたたや)


(守山銀座西 交差点信号)


(今宿村に入る土橋)

すぐに土橋があり、この橋を境に加宿の今宿に入っていく。
(江戸時代この川は巾が二十間(30m)あり、
瀬田の唐橋の余材で架け替えられ、
公儀ご普請橋として大切にされた。

川には屋形船が、また両側に宿屋、茶店が立ち並んだという。
「木曽海道六拾九次之内 守山」の浮世絵は、
この橋から眺めて描いたとされる。
また、この先右手の「樹下神社」にある伊勢屋佐七の常夜灯
(商人仲間から浄財を集めて建立された)も、
この橋詰にあったとされる。)(今宿商工会)


(樹下神社)


(土橋から描かれたという、広重の浮世絵「木曽街道六拾九次之内 守山」)





コメント (2)
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