中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

高崎城(旧中山道を歩く 79)

2006年07月24日 17時30分00秒 | 3上州(群馬県)の.旧中山道を歩く(66~10
(下和田町の踏み切りの標識)


(高崎宿)
倉賀野宿を出てからの旧中山道は、特にお伝えすることが無い。
ただただ、ひたすらに高崎を目指して街なかを歩き、
高崎市上佐野町で国道17号と立体交差するガードをくぐり、
下和田町で上信電鉄の踏み切りを越える。
その辺りから高崎市に入った感じで、道路の左右に商店や会社のビルが目に付く。
この通りは、南大通りで一直線に西に向かう。
やがて南町の信号に出るが、道路は右に曲がり、ここから北へ向かう。


(みなみ町の信号。道路が右にカーヴしている)

やがて連雀町の交差点に出でるが、ここを左折してしばらく歩くと、
高崎城の石組みが見え、乾櫓が見える。並んで東門、
三の丸土塁と外堀が見える。
これらが高崎城の名残を見せ、周りの広場に若者達が沢山集って、
談笑していたのが印象的であった。

(高崎城の石垣)

(いぬい櫓)

(乾櫓を裏側から見る)

(東門)

(三の丸土塁と外堀)

こうした遺構の前に、高崎歩兵第十五連隊跡の碑がある。
ボクは昭和の生まれだから、これは「第二次世界大戦の碑」と思ったら
大きな間違いであった。
説明によれば、明治五年国民皆兵令に伴い出来た東京鎮台第一大隊の、
歩兵第十五連隊の記念碑であるという。

(第十五連隊の記念碑)

御影石に刻まれた高崎城記を要約すると、
高崎は王朝時代、赤坂の荘と称し、東山道に属していたが、
この地方の中心地にまでは至っていなかった。
十三世紀の鎌倉時代に和田氏が城を築き、ようやく中心的存在となり、
十六世紀末の天正18年、小田原の北条氏と運命を共にするに至るまで、
和田城は三百数十年の歴史を誇った。
慶長三年 井伊直政が箕輪城12万石の城主から移り、
城主になるに及んで、和田の地を高崎と改めた。
城地の規模を拡張し、中仙道第一の壮大さは交通の要衝たるに伴い、
要害の名をうたわれた。
中仙道は後に中山道と改称された。
――中略――
明治6年東京鎮台高崎分営が置かれ、明治17年には歩兵第15連隊が創設され、
以来第二次世界大戦に敗れるまで、滅私奉公、
国家護持のために散った郷土出身の将兵は五万といわれる。
戦に破れ、つわものどもが夢の跡には、市の行政、教育、文化の中心地となって...
――以下省略――
明治百周年を迎えるにあたり、高崎城の回顧を記録する。
(昭和43年10月    高崎市)



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