(下和田町の踏み切りの標識)
(高崎宿)
倉賀野宿を出てからの旧中山道は、特にお伝えすることが無い。
ただただ、ひたすらに高崎を目指して街なかを歩き、
高崎市上佐野町で国道17号と立体交差するガードをくぐり、
下和田町で上信電鉄の踏み切りを越える。
その辺りから高崎市に入った感じで、道路の左右に商店や会社のビルが目に付く。
この通りは、南大通りで一直線に西に向かう。
やがて南町の信号に出るが、道路は右に曲がり、ここから北へ向かう。
(みなみ町の信号。道路が右にカーヴしている)
やがて連雀町の交差点に出でるが、ここを左折してしばらく歩くと、
高崎城の石組みが見え、乾櫓が見える。並んで東門、
三の丸土塁と外堀が見える。
これらが高崎城の名残を見せ、周りの広場に若者達が沢山集って、
談笑していたのが印象的であった。
(高崎城の石垣)
(いぬい櫓)
(乾櫓を裏側から見る)
(東門)
(三の丸土塁と外堀)
こうした遺構の前に、高崎歩兵第十五連隊跡の碑がある。
ボクは昭和の生まれだから、これは「第二次世界大戦の碑」と思ったら
大きな間違いであった。
説明によれば、明治五年国民皆兵令に伴い出来た東京鎮台第一大隊の、
歩兵第十五連隊の記念碑であるという。
(第十五連隊の記念碑)
御影石に刻まれた高崎城記を要約すると、
高崎は王朝時代、赤坂の荘と称し、東山道に属していたが、
この地方の中心地にまでは至っていなかった。
十三世紀の鎌倉時代に和田氏が城を築き、ようやく中心的存在となり、
十六世紀末の天正18年、小田原の北条氏と運命を共にするに至るまで、
和田城は三百数十年の歴史を誇った。
慶長三年 井伊直政が箕輪城12万石の城主から移り、
城主になるに及んで、和田の地を高崎と改めた。
城地の規模を拡張し、中仙道第一の壮大さは交通の要衝たるに伴い、
要害の名をうたわれた。
中仙道は後に中山道と改称された。
――中略――
明治6年東京鎮台高崎分営が置かれ、明治17年には歩兵第15連隊が創設され、
以来第二次世界大戦に敗れるまで、滅私奉公、
国家護持のために散った郷土出身の将兵は五万といわれる。
戦に破れ、つわものどもが夢の跡には、市の行政、教育、文化の中心地となって...
――以下省略――
明治百周年を迎えるにあたり、高崎城の回顧を記録する。
(昭和43年10月 高崎市)
(高崎宿)
倉賀野宿を出てからの旧中山道は、特にお伝えすることが無い。
ただただ、ひたすらに高崎を目指して街なかを歩き、
高崎市上佐野町で国道17号と立体交差するガードをくぐり、
下和田町で上信電鉄の踏み切りを越える。
その辺りから高崎市に入った感じで、道路の左右に商店や会社のビルが目に付く。
この通りは、南大通りで一直線に西に向かう。
やがて南町の信号に出るが、道路は右に曲がり、ここから北へ向かう。
(みなみ町の信号。道路が右にカーヴしている)
やがて連雀町の交差点に出でるが、ここを左折してしばらく歩くと、
高崎城の石組みが見え、乾櫓が見える。並んで東門、
三の丸土塁と外堀が見える。
これらが高崎城の名残を見せ、周りの広場に若者達が沢山集って、
談笑していたのが印象的であった。
(高崎城の石垣)
(いぬい櫓)
(乾櫓を裏側から見る)
(東門)
(三の丸土塁と外堀)
こうした遺構の前に、高崎歩兵第十五連隊跡の碑がある。
ボクは昭和の生まれだから、これは「第二次世界大戦の碑」と思ったら
大きな間違いであった。
説明によれば、明治五年国民皆兵令に伴い出来た東京鎮台第一大隊の、
歩兵第十五連隊の記念碑であるという。
(第十五連隊の記念碑)
御影石に刻まれた高崎城記を要約すると、
高崎は王朝時代、赤坂の荘と称し、東山道に属していたが、
この地方の中心地にまでは至っていなかった。
十三世紀の鎌倉時代に和田氏が城を築き、ようやく中心的存在となり、
十六世紀末の天正18年、小田原の北条氏と運命を共にするに至るまで、
和田城は三百数十年の歴史を誇った。
慶長三年 井伊直政が箕輪城12万石の城主から移り、
城主になるに及んで、和田の地を高崎と改めた。
城地の規模を拡張し、中仙道第一の壮大さは交通の要衝たるに伴い、
要害の名をうたわれた。
中仙道は後に中山道と改称された。
――中略――
明治6年東京鎮台高崎分営が置かれ、明治17年には歩兵第15連隊が創設され、
以来第二次世界大戦に敗れるまで、滅私奉公、
国家護持のために散った郷土出身の将兵は五万といわれる。
戦に破れ、つわものどもが夢の跡には、市の行政、教育、文化の中心地となって...
――以下省略――
明治百周年を迎えるにあたり、高崎城の回顧を記録する。
(昭和43年10月 高崎市)
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