(浪人塚のある公園)
(下諏訪宿2)
国道142号線の左わき道を300m歩いた所で
国道142号線をくぐると浪人塚のある公園に出る。
公園は奥に長い緑多い場所であるが、
入り口に史跡「浪人塚」の案内がある。
(「元治元年水戸浪士 殉難の場所の碑)
公園入り口左手に、「元治元年水戸浪士 殉難の處」の石碑がある。
公園を奥にはいると、
右手に「南無阿弥陀仏」と「観世音」の二基の石碑があり、
その先に「和田嶺合戦百年祭乃碑」が、
そしてさらに先に一段高いところに史跡「浪人塚」がある。
(「南無阿弥陀仏」と「観世音」の二基の石碑)
(百年祭の碑)
説明によれば、
「ここは浪人塚と言い、今から120年前
元治元年(1864)11月20日に、この一帯で水戸の浪士
武田耕雲斎たち千人余と松本、諏訪の連合軍千余人が戦った古戦場でもある。
主要武器はきわめて初歩の大砲十門位づつと猟銃少しだけで、
あとは弓、槍、刀が主要武器として使われた。半日戦に浪士軍に
10余、松本勢に四、諏訪勢に六柱の戦死者があり、
浪士たちは、戦没者をここに埋めていったが、高島藩は塚を造って祀った。
碑には当時水戸に照会して得た六柱だけ名前が刻まれている。
明治維新を前にして尊い人柱であった。」(下諏訪町教育委員会)
(正面奥の石碑に水戸浪士六名の名が刻まれている。其の後ろに塚がある)
道路はもう一度国道142号線をくぐり、
化学工場の中のようなところを通り抜け、
廃棄物処理場を右に見て、さらにペットのお墓を見ながら、
道路は迂回して国道に合流する。
すこし進むと
「樋橋(とよはし)茶屋本陣跡の碑」が左手にある。
下諏訪・和田両宿間、五里十八丁の間の峠路に作られた立場茶屋で
東餅屋、西餅屋、と並ぶ茶屋本陣である。
本陣には、御殿と呼ぶ小建築があって
文久元年十一月には皇女和宮が小休止された。
(下諏訪町教育委員会)
(樋橋茶屋本陣跡の碑)
国道142号線はここからやっと歩道にありつく。
何も無い国道142号線を延々約三キロほど歩くと、
ごみ焼却場のもうもうと煙を吐きだす煙突に出会う。
さらに進むと、国道142号線は二股に別れ、
右方は塩尻方面へ左方は下諏訪方面に進むので、
下諏訪方面に道をとる。
途中で左脇に入るのぼり坂があり、木落とし坂はその方向であるが、
疲れたので下り坂の国道に沿って歩く。
(道路右側の木落とし橋)
(木落とし坂の下)
間もなく右に「木落し橋」があり、
その左手に「木落とし坂」の下に出る。
見上げると御柱が、坂の上のほうに注連縄(しめなわ)を着けておいてあるのが見える。
天下の奇祭「おんばしらまつり」は七年に一度行われる。
大きな丸太を坂の上から落とす荒業で、
御柱にへばりつく人間がなんと小さく見えることか。
神の荒業の前には、如何ともし難い。
成すすべなく、猛スピードでかけ落ちる「おんばしら」の下敷きになり、
死人が出てニュースになる。
不可能を可能にしたい人間の無力さをまざまざと見せ付ける祭りである。
(上の中央にしめ縄のある大木が見える)
東京でも三社祭の神輿に人が乗って、
それが粋だとか、格好よいとか言うが、
神輿は神聖なるもので、決して人が乗るものではないと、
昨年、もし人が乗った場合は、
翌年は神輿を出さないと予告したにもかかわらず、
神輿に乗った馬鹿がいて、
今年は祭りに神輿が出なかったそうである。
一生のうちに一度は見てみたいものの中に、この三社祭りと
「おんばしらまつり」がある。いずれも実現していないが、
一度見たら、「なーんだ、こんなものか」で終わるものかも知れない。
話は変わるが、一生に一度は見たいと思っていた高校野球の準々決勝戦を、
一昨年甲子園まで出かけてカミさんと観戦したが、ずいぶん見ごたえがあった。
何といっても、「マー君」と「ハンカチ王子」が話題になった年であったから。
幸運であった。