大阪俄の元となった「住吉祭りの男」の俄〈流し俄〉から数年後の元文(1736~)になると、風呂敷や暖簾(のれん)などの身のまわりにあるもので能楽の狂言の扮装をした、八幡大名と太郎冠者による〈大名俄・狂言俄〉と呼ぶものが登場してくる。
狂言の声色で
主人 「太郎冠者はあるか」
太郎 「ハァー、お前にございます」
主人 「主人にいとまもこわずに、なんじはいづ方へ行きたるぞ?」
太郎 「住吉へ参りました」
主人 「言語道断。憎いやつながら、許してくれるぞ。して、住吉になんぞおもしろいことはなかりしか?」
太郎 「ハア、何ぞかを土産にと思い、反り橋を求めてまいりました」
主人 「なに、反り橋とや。それは一段と珍しい、どれどれ」
太郎 「これでございます」
主人 「ナニ、これは雪駄(せった=ぞうり)ではないか。ハテ?」〈ツッコミ〉
太郎 「ハテ、裏が川(革)でござります」〈ボケ〉
※「反り橋」は住吉大社本殿の前にある橋
この俄のすぐ後に、「まかり出でたるそれがしは○○でござる」と狂言そのままの型をとる俄も出てくる。
なぜ、ここで狂言の型をした俄が突如として登場するのか? 疑問でならない。ハテ?
なぜなら、この狂言俄の数年後に次の〈そりゃなんじゃ俄〉が登場するからだ。
男A 畳を背に担いで出て来て、地面に下ろし、うつむけに寝て、むくむくと起き上がり、また畳を担げて帰ろうとする。
その後から男Bが出て来て、
男B 「そりゃ何んじゃ?」〈ツッコミ〉
男A 「人をうつむけにした俄じゃ」〈ボケ〉
※「うつけにした(馬鹿にした)」と「うつむけにした」の洒落。
この俄の方が、扮装と小道具で一発でオチをつける型(俄の原型)の発展形としてすっきりしている。
ならば、なぜ狂言の型をとる俄が先に登場するのか? ハテ?
仮説にすぎないので、単刀直入に結論と理由を述べる。
【結論】河内俄そのものが大阪の俄に伝わり、取り入れられた。
【理由】①物を持ち出し「ハテ、ハテ」とツッコミを入れてオチをつけるやり方は、現在の河内俄の型そのものである。
②河内俄独特のしゃべり型である〈にわか声〉は狂言の話し方とよく似ている。河内俄の原型は狂言あるいは歌舞伎を真似たものであったのかもしれない。
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