加賀屋甚兵衛さんと幼ななじみの米吉が、新田開発に携わる人夫を集めると約束してから二か月ほどたった年の暮れ。桜井の会所に三、四十人ほどが集まった。
わずかばかりの酒と肴が出て結成式や。例の又六、市助、弥平のチョカもまざってるがな。まずは春の農繁期前の三月に住吉のどこそこに集まるようにと連絡があり、支度金として二朱金が皆に渡された。今で言うたら一万円くらいや。現金収入の少なかった時代やから、皆大喜びや。
三月になって、ある者は徒歩で、ある者は川面の浜から出てる剣先舟に乗って住吉に向かった。
住吉の浜に建てられた掘っ立て小屋での生活やが、又六、市助、弥平のチョカどもにとっては、仕事は辛いが、海が近いので今まで見たこともないような魚がおかずに出てくるし、そこそこの酒もふるまわれて遠足みたいなはしゃぎようや。
賄いの婆さんのおとらはんをつかまえて、又六が、
「おとらはん、半纏(はんてん)のすそがほつれたさかいに縫うとって」
「縫うとってとはなんじゃい! 縫うとくなはれと言えんのか?」
「へんこ(偏屈)な・・・、いやいや、縫うとくなはれ」
「こっち持っといで」とおとらさんが針に糸を通して縫いだした。それを見て又六が、
「そうやって黙って縫うてたら優しいなあ。これがほんまの針子のとら(張り子の虎)や」
それ聞いておとらはん、頭にかっときて、側のカンテキをぶち投げようとした。それを見た市助が、
「おとらはんがカンテキ(癇癪)おこしよった!」
又六がイカキ(竹で編んだザル)を頭にかぶって、
「いかきいかき(痛い痛い)、誰ぞすくうて、すくうて!」
弥平がタライとウチワを持って、
「うちわもめにしても、てあらいしうち、たらいま参りまするー」
おとらの婆さんも笑いこけるしかないがな。
夕飯を食べてる時にも、お茶の入った土瓶を重そうに持って歩き、
「よい茶、よい茶」
差し入れの寿司に楊枝を差して、
「ここはよいとこ、すしようじ(住吉)」
寝る前にふとんを丸めて抱きかかえ、手ではらって、
「夜具はらい(厄払い)」
枕で目を覆って、
「まくらで見えん」
鋤(すき)と蓑(みの)を抱いて寝て、
「すきでほれたが身の因果」
なんでも俄にしてしまいよる。
毎日がこんな調子で一か月が過ぎると、一両という大金をもらって喜志に帰りよった。
※④につづく
上図=『摂津名所図会』の住吉の浜
下図=『旅日記』光蛾飯島明
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