「水と闘うて一代を築かはった人が、この喜志村にいたはったんやぞ」
そう言って春やんが話し出した。
――享保13年(1728)の秋の彼岸の頃や。紺の小袖に藤色の小紋の羽織を着た四十過ぎかとみえる男。
加賀屋甚兵衛という、大深で生まれて桜井で育ち、大阪に奉公に出て加賀屋という店を受け継がはった人や。天王寺屋、鍵屋、鴻池と呼ばれる大きな店と並ぶほどの豪商や。
宝永元年(1704)に付け替え工事が完成した新しい大和川によって、上流から運ばれる大量の土砂が河口にたまって、堺の港が機能しなくなってた。そこを新田開発したのが加賀屋甚兵衞さんや。
甚兵衛さんは延宝八年(1680)に河内国石川郡喜志村に生まれ、13歳の時、大坂淡路町の両替商、加賀屋嘉右衛門へ奉公にあがった。正徳四年(1714)、甚兵衛さん35歳の時に別家(のれん分け)を許されたんや。その後、大和川の付け替え工事にも関わり、享保十三年(1728)から住之江近辺の新田開発に着手しやはって、二十二年の歳月をかけて完成させるんやなあ。
この加賀屋甚兵衛さんが、大深(おうけ=現在の喜志町)の村中の坂を下りている時、坂の中ほどで百姓姿の男と行き会った。百姓男が、
「もし、加賀屋の旦那はんやおまへんか?」
「へえ、そうですが」
「わたいでんがな」と菅笠を脱いだ男の顔を、加賀屋の旦那がしげしげと見て、
「えっ、ひょっとして米吉かいな?」
「へい、そうでんがな。加賀屋の旦那はん」
「おいおい、旦那はんというのはやめてえな。小さいときには一緒に遊んだ仲やないかいな」
「ほなら甘えさせてもらうけど、久しぶりやなあ!」
「もう三十年になるか・・・」
「しかし立派になったやないかいな。話はよう聞いてるで!」
「それもこれも十一歳で大阪の両替商の加賀屋へ奉公に出る前の日に、皆が集まって励ましてくれたお陰や。今でもあの日のことはよう覚えてる・・・」
「夕方の遅うまで話しこんでたもんやさかい、村中が大騒ぎして探しにきよった・・・」
「そんなこともあったなあ・・・。ところで今日はなんや? 墓参りか?」
「いやいや、木戸山の番所に張り紙を頼みに行ってきたんや」
「なんの張り紙や?」
「実はなあ・・・、二十四年前に大和川の付け替え工事が終わって、前の大和川があった東大坂の辺りを、わしと同じ両替商の鴻池はんが新田を開拓しやはった。わしもなんぞ世の中の為になることが出来へんかいなと、商用で堺に行った時、新しい大和川のために港に土砂が流れ込んで使い物になってないやないかいな。そこで、わしも鴻池はんにならって新田開発をしたろと考えたんや。さあそうなると大勢の土方が必要や。そこで、まずは大和川とは支流の石川と川つながりの喜志から集めようと思うて、土方募集の張り紙を頼んできたんや」
「それあったらわいに任せとき! 農閑期になったら、女の尻追いかけるか、下手くそな俄芝居しとるやつようさんいてるがな。わいの倅(せがれ)も頼むわ!」
「おおそうかいな。こりゃええとこで米やんと逢たがな!」
「言うとくけど、チョカ(落ち着きがない)ばっかりやで。こないだも皆で井路(いじ=水路)の草刈りをしてひと休みしている時や、
倅(せがれ)の又六が、『俄じゃ、俄じゃ』と両手に鎌を持ってきょろ、きょろと歩き出した。
『ハテ? そらなんじゃい?」とツレ(連れ=友達)の市助がたずねると、又六が
『カマキリ』
すると今度は市助が背中に鍬を差し、両手を羽のようにしてぴょんぴょんと歩きだした。
『ハテ? そらなんじゃい?』とツレの弥平がたずねると、市助が
『クワー、クワー(=カラス)』
今度は弥平が、『おまえら、いつまで俄やってるねん』と言いながら、刈った篠竹と縄を持って円くしよった。
又六と市助が『ハテ? ハテわかったわい!』と言うと、
三人が調子を合わせて『円も竹・縄じゃーい!』
そう言うて、村の方へ駆け出して行ったまんま帰ってきよらん。うまいこと言うて草刈りさぼってしまいよったがな。こんなんでよかったら、ぎょうさん集めたるで」
「辛い仕事や。それくらいのチョケもないとやってられん。できるだけはずましてもらうさかいに、よろしゅう頼んだで!」
※③につづきます
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