河内国喜志村覚え書き帖

大坂の東南、南河内は富田林市喜志村の歴史と文化の紹介です。
加えて、日々の思いをブログに移入しています。

その十七 室町 ―― 天下分け目の兄弟喧嘩

2022年02月25日 | 歴史

 二学期の始業式が終わり、河南町の大ケ塚の八朔市(縁日)へ、私と兄、友達二人の四人で行った。その時、「ひよこ釣り」の店があった。棒にくくりつけた糸の先のL字型の針金にウドンをつけて、ヒヨコを釣る遊びだった。金儀すくいが10円、その倍の20円だったが、初めてだし、おもしろそうなのでやってみようということになった。三匹釣ると終わりで、一匹もらえた。

 東京オリンピックの次の年だった。ひもじいとは思わなかったが、まだ飢えていた。ヒヨコも一緒だったのだろう。あっという間に三匹釣れた。金魚すくいで使うビニールの袋に一匹ずつ入れてくれた。

 「おっちゃん、これ、卵を生むか?」

 「そら、メンタ(めす)がおったら生むで!」

 いらなければ返してもよかったのだが、その言葉でもらうことにした。

 家に帰る途中、友達二人が、

 「家に一匹だけ持って帰っても親に怒られるだけや。やるわ」

 「俺もおんなじや。よう育てられへんさかいに、おまえとこ(我が兄弟)で育てて!」

 というわけで、我が家で計四匹のヒヨコを育てることになった。

親に怒られるのではないかと思っていたのだが、案外簡単に許してくれた。入院の見舞いはバナナか卵が定番の時代で、卵は高価なものだったからかもしれない。

 最初は段ボールの箱に入れて育てた。農家だったのでエサにはことかかない。菜っ葉を細かく刻んで糠(ぬか)と小米(脱穀の際に砕けた米)を混ぜてエサにした。一匹死んでしまったが、残りの三匹は元気に育った。白い羽が目立つようになると、段ボール箱では狭くなったので、家の隅にリンゴ箱を四つ組み合わせ、金網を張って鶏小屋を作ってもらった。

 年が明けた頃には、もう立派な大人になり、朝にはコケコッコーと大きな声で鳴くようになった。しかし、卵は生まなかった。鶏をたくさん飼っている男の人に見てもらうと、「みなオンタ(おす)やなあ」とすげない答えだった。それでも朝夕、エサの世話をした。

 そんなある日、学校から帰ってくると、鶏小屋が空になっていた。母に、

 「ニワトリ、どないしたん?」とたずねると、

 「前に来たおっちゃんがな、オンタのニワトリが欲しいと言わはったさかいに、持って帰ってもろうた」

 何も言えなかった。

 その日の夕食は、水菜と豆腐、こんにゃく、麩(ふ)とかしわ(鶏肉)を甘辛く煮たものだった。世の中にこんなおいしいものがあるのかと思うほどうまかった。スキヤキというものを食べた最初だった。

 それから二、三日後、漫画の本の取り合いで兄とケンカになった。ちょうどそこへ春やんがやってきた。昔の家は玄関から裏口まで土間が通じていて、出入りが簡単だった。

 「おいおい、やめとけやめとけ。ケンカしてどないすんねん。兄弟仲ようせなあかんがな。ええか、だいぶん昔のことやが、兄弟げんかが日本を真っ二つにする大げんかになったことがあるねんで!」

 そう言って春やんが話しを続けた。

 ――喜志の隣の古市(羽曳野市)に高屋城という大きなお城があった。その城に、畠山義就(よしひろ/よしなり)と畠山政長(まさなが)という兄弟が住んでいたが、どちらが家を継ぐかで大げんかになった。その時、幕府では、山名宗全(やまなそうぜん)と細川勝元(ほそかわかつもと)という大大名が権力争いをしていたので、兄の義就は山名宗全を味方につけた。弟の政長も負けてられるかと細川勝元を味方にした。

 本来なら将軍がまとめに入るのやが、将軍家でもと足利義視(よしみ)と足利義政というのが、どっちが将軍かともめてたので、兄の義就は足利義視を応援、弟の政長は足利義政を応援した。

 河内の兄弟げんかに幕府の権力争い、将軍争いが加わってえらい大ごとになった。おまけに日本全国のあちこちでもめていた大名が、決着をつけるよいチャンスと参戦してきて、京の都をはさんで東と西の大戦争になったんや。

 小さい兄弟げんかが大戦争になることがあるのや。おまえらも喧嘩せずに仲ようせんとあかん!。

 それはそうと、オトンとオカンはいてなのかいな・・・。そうか、ほな、こないだニワトリつぶした(解体した)礼やいうてタバコくれたんやが、わるいんで、その礼にタマゴ買うてきたんや。渡しておいてくれるか。カシワを食べたやろ! おいしかったか?――

 コケコッコー

 頭の中で、ニワトリの鳴き声が聞こえた。

   

【補筆】

 兄弟喧嘩(実際は義理の兄弟。年齢では政長が上になる)とはいえ、畠山家は将軍補佐をする管領(かんれい)という№2の役職だったので、次々と周りを巻き込み「応仁の乱」という大きな争いになってしまいました。「将軍の後継者争い」「細川家と山名家の対立」に「全国の守護大名の後継者争い」が加わったのが応仁の乱です。西軍11万、東軍16万人という大きな争いでした。

 しかし、細川勝元が44歳で逝去し、時をほぼ同じくして山名宗全が70歳で逝去します。将軍家では八代将軍足利義政が義尚(東軍側)に家督を譲ることを決めて隠居し、将軍家の後継者争いは終わります。これによって、1467年から10年間つづいた争いは幕を閉じます。京都は焼野原になりました。

 東軍側の義尚が将軍になったことで、畠山家の跡継ぎは弟の政長になりますが、兄の義就は戦いを続け、河内の国を支配します。幕府が追討の兵を送りますが、義就は次々と打ち破ります。弟の政長が名目上の河内守護ですが、実質支配していたのは兄の義就でした。日本の国の中に、幕府の支配を受けない「河内」という独立国家があったことになります。

 


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