老人会の敬老会で、春やんが余興にやった落語です。
室町時代、京都にあった浄土真宗興正寺の当主、蓮教という方が、本願寺の蓮如上人を助けて、熱心に南河内の村々を布教してまわり、毛人谷(えびたに)に念仏道場を開いた。「古御坊」という字が残っています。ここから信者が増え、あちこちに念仏道場が次々と建つようになる。
その後、京都・興正寺第十六世の証秀上人が、今の富田林、当時は「富田が芝」と呼んでいた荒地に目をつけた。記録では「永禄初年」とあります。こない言うてもいつやわからん。1558年から1560年ころです。というてもいつやわからん。織田信長が今川義元を倒した桶狭間の戦い(1560年)のころです。
当時、古市にあった高屋城の安見美作守(みまさかのかみ)直政に、百貫文を出して、富田が芝を買い受けました。百貫文というてもなんぼやわからん。当時流通していた永楽通宝、真ん中に穴があいてる。この永楽通宝千枚をヒモで通したのが一貫。したがって、百貫文は銅銭十万枚です。というてもようわからん。現在の金額に直すと、三百万円くらい。今あったら借金してでも買いますわなあ。昔は人口が少ないから、土地も安かった。
近隣の中野、新堂、毛人谷、山中田(やまちゅうだ)の村から庄屋株二人ずつを呼びよせる。これを富田林八人衆と呼びます。この八人衆が中心となり、信者の力によって荒地を開き、四町四面の地域を区画して、外側を堤防と竹林で囲い、その中央に御坊を建てて一大信仰都市を築こうと計画します。
ところが、その時、力をつけていたのは、永楽通報を旗印にしていた、あの織田信長。比叡山を焼き討ちし、次は大阪の石山本願寺をつぶそうとしている。当時、最も大きな宗教勢力の浄土真宗本願寺派の本願寺の顕如に、一方的に「土地を明け渡せ」と要求してきた。そうなると、富田林は本願寺と関係が深い。慌てた正秀上人と八人衆が相談し、「本願寺の味方もせんし、信長に逆らいもしない」という、早い話が「中立」の立場をとろうということになった。これが大正解で、信長から「寺内之儀、不可有別条(じないのぎ、べつじょうあるべからず)」との書状を得る。「興正寺の領地内は、何してもかまへん」ということになって一難をまぬがれた。
このとき、喜志村も富田林の開発に参加すべきなんですが、実は、喜志も一大信仰都市をつくろうとしていたんです。当時、喜志の宮さん美具久留御魂神社は、坊さんが祝詞(のりと)をあげるというほど、神仏習合の「仏」、寺の勢力が強く、「喜志寺」といわれるほどになっていた。境内に根来宗のお寺が十三もあったといいます。当時、根来宗は信長に協力的だったので、信長も許してくれるにちがいない。「よっしゃ、喜志寺内町をつくろう」というわけです。
ところが、本家和歌山の根来宗が、どんどん力をつけて大名並みの勢力になっていった。そうなると、信長にとって根来宗は、脅威になっていく。「力つけさせたら、なにしよるかわからん」というわけで、富田林のように「自由にやってくれてかまへんで」という許可を喜志にはくれない。これで計画はおじゃんになっていった。
一方の富田林。当時、河内国の守護は畠山高政。羽曳野の古市にある高屋城が本宅なんですが、管領(かんれい)という幕府№2の役職なので、京都の別宅に住んでる。高屋城は、安見美作守直政に守護職の代理、守護代を務めさせている。この安見美作守が「富田林の寺内に住む商人からは税金をとってはならぬ」と定めた。こんなん言う総理大臣いたらよろしいやろなあ。さあ、ここから富田林は寺内町として栄えていきまんねん。
近江商人の心得に「三方よし」という言葉があります。売り手良し・買い手良し・世間良しの三つの「良し」。売り手と買い手がともに満足し、世間も繫栄するのが良い商売であるという教えです。富田林は、まさにこの「三方よし」にあたる。米麦以外にも綿作りが盛んでした。綿は食べるものではないので、加工する。すると人手がいる。そこへもって、、出来た綿を売り買いする商売人や客が集まる。おまけに、門徒信者の集まりなので人のためを考える。まさに三方よしなんです。
木綿屋以外にも、金剛山の木を利用する材木屋、石川の水を利用する酒屋などが集まって、繁盛していく。中でも、酒造りが盛んで、七軒あったそうです。明治まで続いたのは長左衛門(杉山)、徳兵衛(仲村)、茂兵衛(葛原・十津川)、伊助(奥谷・岩瀬屋)、忠兵衛(橋本・別井)の五軒。河内には七十二軒の造り酒屋があった中、この五軒で大坂の売り上げの二割を占めたといいます。
「富田林の酒屋の井戸は、底に黄金(こがね)の水が湧く」
と唄われたほど商売繁盛でにぎわってました。石川の水がおいしかったんでしょうなあ。
中編につづきます
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