ヤマヒデの沖縄便りⅣ 歩き続けて 歩き続ける 再び

「基地の島」沖縄を歩き、琉球諸島を巡る基地・戦争への道を問いかけ、自然を語る。●無断転載、お断り。
 

半日雷雨でぼーっとしていた(20210509)

2021年05月09日 | その日暮らし

 今日は日曜日でしたね。毎日が日曜日の私はぼけていた。12時頃から18時頃まで激しい雷雨で、那覇行きを断念。2冊の本を交互に読みながら、時間を過ごした。知的緊張と、身体的緊張を強いられる本なので、交互読みは、刺激的。

 外の雷は、このパソコンに落ちる程でないので、気にせず。沖縄にいたら、雷雨は日常茶飯事。自分は濡れてもかまわないが、カメラを濡らすなは、最重要事項。ビニールに包むと、中で水蒸気がカメラのボディーやレンズの中に入る。これは最悪。厚手のタオルをもってでて、丁寧に拭く。昨年買ったカメラの除湿機があるので帰宅したら、拭いた上で、そこにしまう。基本をきちっとやること。

 雷雨の思いでは数々あるが、無事だったから、楽しかったといえる。高山で雷雨に遭うとたまらない。前から後ろから、上から下から、危ない。雷雲の中に入ってしまったら、祈るのみ。人間の肉体はすべて電気を通してしまうから。

 雷の遭難と言えば、1967年8月Ⅰ日、松本深志高校の大量遭難(西穂高独標)が忘れられない。11名が亡くなり、13名が重軽傷を負った。当時の私は高校山岳部にいたから、同年代の子達が死んだわけだ。

 これはずっと後のことだが、北アルプスの裏銀座縦走コース中、数名が死んでいる。私もほぼ同じ時間歩いていたのだ。下りてきて山小屋のお風呂に入っていたら、裏の崖が崩れてきて、ヒヤッとしたこともある。自分(仲間)が無事だったから、語れるんだけど。

 この裏銀座縦走コース中、福岡の看護士さん3名と合流し、4名で歩いたことも忘れない。一日に何度も雷雲に包まれて動けなくなった。不用意に歩いたら、おしまい。じっとやりすごす。はじめて出会った人も、こうなったら、守らなければならない。守りあわなければならない。実にスリリングでした。

 沖縄だと命に別状があるかと危惧したことは一度だけ。2014年8月15日の海上行動で、海保の弾圧が凄かった時。一難去ってまた一難。今度は天候が急変して、濃霧と雷雨。視界が全く見えず、平島も長島も見えない。海保のやろう、港に戻りたい我々を放置しやがって。辛くもガスが晴れて、帰還できた。海保が言う「安全」など、ウソ800だ。

 一難去ってまた一難と言うことでは、1969年6月15日の富士山もそうだった。雪渓(吉田大沢)を登った(アイゼンとピッケルで)のだが、辛くも下りてきた。バスがなくなっていて、地元の山小屋のジープに乗った。5合目から下までバスで60分のとこを彼の運転だと15分。急カーブ、急な上り下りで、対向車が来たらオシマイ。雪山より怖いカーレースだった。

 1969年6月15日といえば、下界では反安保闘争で大変だったらしい。私はまだ高校生で、知らなかった。

 自然の中であれ、都会の中であれ、不本意に死にたくないものだ。コロナ禍で受け入れてくれる病院がなく、亡くなったり、入管施設で病状を訴えても無視されて亡くなった外国人。人権後進国の日本を変えなければならない。

 外国人を無視したい日本の体質は、戦前以来連綿と続いている。この分野も完全に治外法権。米国とだけベッタリと熱々なのは何故だろう。「だけ」といえば、言い過ぎだが。過去の侵略の反省をしないから、また旧情に戻ってしまう。「国民」というが、戦前の「臣民」(天皇の赤子)扱いを総括していないから、ダメダメなのだ。多様性を尊重するならば、「国民主義」を克服したいものだ。



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