本日の沖縄タイムスの社説はこうだ。「コロナと五輪-この状況での開催なぜ」と題して、「(前略)菅首相は、緊急事態宣言が切れる31日の前に、五輪の開催について明確な最終方針を示し、その理由を国民に明らかにすべきだ」と漸く重い腰を上げたようだ。沖縄の新聞は何故、五輪となると、鈍いのだろうか。
五輪はスポーツイベントの総集編のイメージがあるが、スポーツ版の国威発揚の大きな装置だろう。金儲けと政権浮揚に使える、ナショナリズムを煽れる。そこに昨年来のコロナ禍が全世界的に広がり、去年はにっちもさっちもいかず延期にした。自公政権は、この危機を活用して、停滞していた改憲を一気に推し進めたいのだ。
沖縄にとって、五輪を煽ることは、日本ナショナリズムを煽ることにしかならない。ここで発せられる「ニッポン万歳!」は、南北朝鮮や中国を敵視する「ニッポン万歳!」に重なっていく。「アメリカ万歳!」に重なっていく。「沖縄への基地押しつけ万歳!」に重なっていく。要は沖縄の目を曇らせることにしかならないのだ。
私は鮮明に思い出す。1964年の東京オリンピックのことだ。同年東京大阪間の新幹線ができた。高度成長真っ盛りのことだった。私は家族等が日本人選手を応援しているのを見て、怪訝に思った。なぜ、日本人選手を応援するのか、全く理解できなかった。日本国民は日本人選手を応援するのが義務ですか? 納得できる答えはどこからも返ってこなかった。私は天邪鬼(あまのじゃく)だと非難されたが、納得できないものはできないのだ。
当時の私はまだ子どもだったからナショナリズムも高度成長も開発政治も知らなかった。今だからこそ、国威発揚だとか、あの時代のナショナリズムは、戦後復興のナショナリズムであり、「追いつけ、追い越せ」のナショナリズムであり、再軍備のナショナリズムだった、と私は指摘できるのだ。それは日本が犯した東アジア・太平洋の島々への侵略をなかったことにするナショナリズムと重なっていたのだ。
しかし「日本人だから、日本選手(団)を応援する」事への違和感は、今日の私に染みついている。おかしいだろう。そんなことのために多額の税金を使い、コロナ禍を放置して、医療従事者を剥ぎ取る政治は、明確におかしい。オリンピックを止めるのは当然だ。
もう一点指摘しておきたい。オリンピックの開催に躍起になっている政権は、一方で演劇・コンサート・映画などの公演、美術・写真などの展覧会などについては、休業を要請するだけで、微々たる支援金しかだしていない。この差は何か?! 「スポーツ・芸術」と並び称されることが多いのに、この格差は何か。ナショナリズムを煽るのに使えるスポーツと、個性・創造性・多様性が本筋である芸術の決定的な落差が、これほど浮き彫りになった時代はなかっただろう。
私は思うのだ。沖縄は日本ナショナリズムの大合唱に加担しては、いけない。この径は、再び沖縄の道を誤ることになる。沖縄の覚悟を示すのは今だ。
政府はオリンピックを中止し、コロナ対策に本腰を入れろ。新基地建設を止めろ。世界の平和を求めるならば、「島嶼防衛」を止め、米日同盟から下りる道しかないはずだ。
夜明けは遠いが、私たちは粘り強く闘うまでだ。スカスカの表面を撫で/撫でられ、自己満足しない人間になろう。