《Ⅰ:はじめに》
突然ですが、私の少年時代から青年期を振り返ってみます。何故かと言えば、今の世相が余りにもおかしいからです。「自滅に向かっている」のに大半の人々が声をあげていないことを私は危惧しています。「昔の若者」から、今の若者へのメッセージになればと思って書いてみます。
《Ⅱ:当時の思い出》
私は1951年生まれ。戦後6年目ですね。小学校時代を思えば、薄着だった。物資がまだまだ少なかったようだ。つぎはぎだらけの服や靴下(冬)を履いていた。その他のことで、私は戦争を感じることは殆どなかった。傷痍軍人が街中に座って物乞いをしていた。横須賀(軍港)のおばさん・おじさん宅に夏休み等に何度も泊まりに行った時に見た横須賀の街の米兵の多さにたまげたものだ。
父親から聞いた戦争の話は、主に空襲を受けた話。直接やられたのではなく、B29爆撃機の高空からの爆撃にやられほうだいだったと。海軍の「飛燕」戦闘機が迎撃に飛び立っても無力、高射砲も全然届かなかったと。
父は病弱だったようだ。既に若者でなかったこともあり、運良く海外に連れて行かれなかった。私が学生時代、父と話をすると(1970年から74年)、「民主主義者だ、戦争はこりごりだ」と言っていた一方で、朝鮮人差別の言動は消えていなかった。若かりし頃の教育の恐ろしさだと思う。思想的な総括をやっていないから、差別を巡る問題を精算できなかったのだろう。こうした時代の影響は、私も被っており、自分の問題でもある。
《Ⅲ:「コンバット」ファンだった私》
小学校時代の私は、竹等の木材キットの空飛ぶ飛行機や、プラモデルで戦艦大和、海軍戦闘機「ゼロ戦」、同「飛燕」、陸軍戦闘機「隼」、米国戦闘機P―51「ムスタング」などなどもよく組み立てていた。1962年~67年テレビで「コンバット」が上映され、毎週楽しみに見ていた。米国のテレビドラマで第2次世界大戦下のヨーロッパでの対独戦線の話。同じ62年12月、映画「史上最大の作戦」を見に父の友人に連れて行ってもらったのが、私が大人の映画を観た一作目。ノルマンディ上陸作戦を舞台にした物語だ。
私は行進曲を好きだったし、「世界の飛行機」や「世界の艦船」(年刊)を好きで見ていた。「コンバット」は俳優陣がかっこよく、主題歌と共に行軍するシーンなど今でも目に浮かぶ。
当然、戦争物だから戦闘シーンは当たり前。しかし何故かメインキャストは殆ど死なない。凄いと思いながらも、それはないよねと、見るうちに思うようになっていった。銃撃戦の痛みなど全く感じていなかった。まして市民生活が破壊されているとか、市民のレジスタンス活動下の苦しみとか全く無頓着だった。それよりも、ビック・モロウ(軍曹)や、リック・ジェーソン(少尉)をかっこいいと思っていた。単純だったのだ。
しかし私は戦争屋にはならなかった。時代がまだ反戦に傾いていたからだ。
《Ⅳ:同時代の中で》
1963年11月22日深夜、私は初めてのテレビの宇宙中継を見ていた。J・Fケネディ大統領が暗殺された。これには戦慄が走った。当時のケネディ大統領のイメージは黒人問題にもリベラルで民主的な男だと聞いていたから(かなり事実に反するようだ)、なおさらだった。この一撃で私は米国のイメージをひっくり返された。米国社会に巣くう暴力の力。
米国は1965年、北ベトナムへの北爆を始め、本格的に軍事介入を強めていく。ここからは同時代史だ。私は1965年(中学2年)から野鳥観察を始め、戦争映画もプラモの世界も関心外となっていった。野鳥観察一筋に。1967(高校1年)年、新浜運動を始め、テレビやラジオ、新聞にも何度も取り上げていただいた。
私は、自然保護運動に多忙を極め、ベトナム反戦への関心は薄かった。北爆の話も聞いていたし、ベトナム農民(民族解放戦線を含む)への米軍の激しい虐殺やベトナムの僧侶の抗議の焼身自決の報も知っていた。だが私は動かなかった。
ただ忘れがたいことは、1967年10月8日の第一次羽田闘争で、山崎博昭君(当時18歳)への機動隊による虐殺事件。この国はベトナム反戦の闘いをここまで弾圧するのだと驚きを禁じ得なかった。また、68年8月21日、ソ連軍がプラハに侵攻し、武力でチェコ・スロバキアの「プラハの春」(民主化・表現の自由)を踏みにじっていったことを忘れない。たまたま私はこの第一報を長野市内の喫茶店で聴いたことも影響している。私は山に遊びに行った帰りだったので、彼・我のこの落差は身にしみた。お陰様で私は、「ソ連スターリズム批判」以上の社会主義国・圏への疑問を抱くようになったのだ。
1970年大学入学と共にベトナム反戦・反安保の闘いに自ら入っていった。今はそこを問わない。今考えておきたいことは、戦争や、国家や政治に無関心だった私がどこでどう変わったのだろうか、ということだ。
70年代の私が一番脅威に思ったことは、何だったのだろうか。ベトナム反戦で言えば、米国のジェノサイドだ。「皆殺し作戦」。ただの集団虐殺ではない。村の焼き討ちではない。ナパーム弾、枯れ葉剤を大量にまき散らし、水田や森を徹底的に破壊していったのだ。人間の生活・生存基盤の根こそぎの破壊。それでも当時のベトナム民衆は屈しなかったが、ベトナム民衆が被った痛手は甚大だっただろう。
私がこの問題をビビットに感じたのは、近代科学・技術が生み出した化学戦が自然破壊となり、人類への脅威となることだ。これは単なる戦争の問題を超えている。近代文明の問題であり、私たちを含む生物の生存を諸に脅かすからだ。
ただ70年代当時、私は民主主義について、歴史認識について十分な問題意識をもっていなかった。沖縄についても同様だった。改めて考えたいことばかりだ。
《Ⅴ:今はどうなのか? そしてこれから》
1970年代から遠く離れた今は、どうだろう。何が変わったのだろうか。反戦の軸は健全なのか? 私たちの生活基盤が戦争に傾いているが、私たちの多くは気づいていない。ボロボロの泥船に乗っているのに、気がつかない。
①過去の私たちの生活は、「高度成長」下にあった。重化学工業を中心とした産業政策。労働運動もあり、対抗する勢力が社会党―総評労働運動があった(「新左翼」もその「あだ花」だった)。だからこそ、公害や地域開発による被害が続出した。だが成長の目は、私たちの明日を信じることもできた。
②今はその基盤がなくなった。25年続く低成長とデフレ。非正規雇用の増大。「中流」基盤が解体された。農業等の第一次産業の崩壊。子どもを産み育てることすら、びびるしかなくなっている。「生産性」がないのは、自公政権が作りだしたこの社会ではないのか。米国の属国である日本国家は、米国に振り回されており、不透明になり、再び「軍事国家」の道を邁進している。
「同調圧力」といわれるが、確かにここを抜け出すことは困難だ。しかし、私たちがこのまま諦めたら、おしまいだ。どこで気がつくのか? この道の末路は自滅への道だ。孤立したままでは、出口なしだ。
私たちが生きる為に、愛を、連帯を私は追求したい。「生きたい」という心が湧いてこなければ、反戦だと考えない。原発問題にも無関心になる。イジイジとヘイトクライムにおもねるのが人間ではないはずだ。誰かへの差別は、自分に還ってくる。差別は生きたい自分を潰していくのだ。この悪循環にはまり込む。
生きることが楽しくなる、希望が持てる条件は、創造的な生き方をできてこそ。この道を一人で歩くことはできないからこそ、自分の周りに目を向けたい。遠回りに見えるが、地道に生きなければ始まらない。焦っても仕方がない。
私たち世代が残したツケを若い人々に押しやっている。私は申し訳ないと思っている。ヤマトが沖縄に押しつけ続けていることもだが、世代間の押しつけも解決していきたい。(続く)