おはようございます。本日2024年1月14日(日)晴れ
11日に痛めた腰がいうことをきいてくれない。歩けるけど、辛うじて。明日整骨に行くしかない。
ところで、昨日名護湾で残照を撮っていたら、ネコチャンが参入してくれました。後ろから被写体にさせていただきました(既報)。ほっこりします。問題は、動物を撮るとき、彼らを驚かせないことが肝心だと言うことです。脅威を与えないこと。安心して良いよと伝えること。このときもかのネコは、私を2度振り向いて、大丈夫かなと確認していました。安心していただけるほど、幸せなことはありません。
昔、野生動物を撮っていると、彼らは逃げていく。こちらがぽかんと油断していると、すぐそこまで来ていました。カメラを向けると逃げていく。エゾシカ、エゾリス、ニホンザルなどなど。私は気づいていなかったのです。私の存在が彼らには脅威になっていることを。脅威にならない、安心できる奴だと的確にメッセージを発することが重要なんですね。
チョウチョもそうだと私は学びました。彼らは、「お前は、安心しても大丈夫な奴か」を確かめているのです。大丈夫だと分かれば、すぐ近くまで寄ってくる。まるで私が木か岩の如く。お陰様で蝶類写真家になってしまいました。
人間は、こういうことが下手。特に国家という集団を創るとどうしょうもない。他人を見たら「泥棒」と思え、他人を見たら「テロリスト」。他国を見たら「安全保障環境が悪化している」、他国を見たら「核拡大抑止」。止らないのです。何故か? 自分が敵愾心を持っているからであり、支配欲を強化し、武装しているからです。お互いにこうだから、戦争は無くならない。人類は破滅するために産まれてきた唯一の「種」と言えるでしょう。
根本的な価値観が阿呆なのです。私たちは、こうした病につける薬をみいだせません。一方で、かって徹底的に争っていた日米関係。日本国は米国に完敗したにもかかわらず、たったひとつの「宝物」だった「天皇」をまもってくれた米国に隷従して、79年。へんな連中です、ひとりひとりの命より、天皇が大事な「奴ら」。しかし大問題はこの絶対矛盾に気がつかないできた私たちもほぼ同罪です。「皇国臣民」を「国民」といいかえただけでした。それで変わったと思ってきた。だから同じ過ちを繰り返そうとしている。
私は世界の果てまででかけていくことはできませんが、生物圏の辺りまで行くことはできます。人類も生物だとしたらそこから学ぶことができます。かく言う私も、ようやっと冒頭に述べたことに気づいたのです。昔、「シートン動物記」、「ファーブル昆虫記」、「定本野鳥記」(中西悟堂著)などを全部読んでいたけど、今頃気づいた私も、阿呆でした。生物を語るにも哲学が重要なのです。
懺悔の値打ちも無いというのではなく、検めることです。あらためて、あらたにしていきましょう。