日々、詐欺メールなどに遭遇していると、私も一体どの情報なら信頼できるのか、できないのかを疑いまくっている。煩わしいこと、このうえない。余計な欲をもたない、余計な契約をしないことが、最低限の予防線だ。もっともメールだと、東京電力から支払えなどは、沖縄に住んでいる限り、ありえない。アマゾンから注文したこともないから、端から嘘だ。
疑心暗鬼になる。そうしたら、この1、2ヶ月のうちに、よく存じ上げていると思っていた人が、広島県呉で講演会をやるポスターを、私が呉で見かけたので、連絡したが、なしの礫だった。否、そのとき忙しくて、往信をかえせないことはある。それでも事後にでも連絡をくれればいいものを。こういう類いのことが重なると、めげますね。あちらは有名、こちらは無名だから、仕方がない。距離感の違いなのだろう。
せっかく、広島で会ったから、以後、連絡を取り合えるようにしたいと思った人からは、全くのなしのつぶて。そんなに忙しいのか、私のことを気にくわないのかわからない。去る者は追わず。そんなことで私が消耗しても意味がない。
疑心暗鬼の社会の度合いが一般的にも増していることは、疑いようもない。「一人キャンプ」とかが、はやっているとか。特異な体験で悦に入るのは、勝手だが、暗いね。否、「暗い」とか「明るい」という評価基準すら失われてきたのだろうか。私が若かった頃の1960年代後半から70年代の前半まで、「旅は道連れ」の機運があった。夜行列車で知り合った人(たち)と、改めて山に行ったこともある。時代がまだ前向きで、一人一人に自信があったのだろう。
信頼できない他人は、信頼できない自分がいるからこそ、よりそう思うのだろう。相互関係なのに、どうしても自分本位に考えがちだ。信頼できる関係を考えなおすとき、以前の私は、ささやかだが、いくつかの会を運営していたことを思い出す。例えば、「夢と現の読書いち」と称して、読書会をやっていた。少人数ながら文学系の読書会をやっていた1990年代。四方山話から政治の話まで。もっと以前を思い出せば、夏のキャンプファイヤーなどもずいぶん関わってきた。楽しい思い出をたくさん作ってきた。
今更、大風呂敷を広げて、信頼できる場作りを目指そうとは思わないが、何でも率直に伺える、話せる態度を身につけていくことは、死ぬまでの永遠の課題だろう。他人の非を非難する暇があったら、自分を見つめ直すべきだろう。信頼できる関係は、自分を信頼できる関係と結びついてこそありうるだろう。不得意分野も得意分野も織り交ぜながら、地道にいきていくしかないようだ。
そうだ、「愛が足りない」という言い方をする人が居る。確かに私も「愛が足りない」、その一員だろう。どうしたらできるのだろうか。難しいなぁ。
こうした問題は、戦争ではなく、平和の世の中を目指す上で、不可欠なはずだ。