アメリカで起きている黒人差別への抗議行動に、6月12日沖縄でも沖縄市内(コザ十字路)で抗議の意志表示が行われた。約300名が集まったという。実は私も前日まで行くつもりで居たのだが、12日~辺野古の工事再開と聞き、どちらを優先すべきか迷った末、やはりこっちだとなったしだい。時間はずれていたが、早朝から遅い時間まで、体力的にもたないから、ご容赦願いたい。
トランプ大統領は、ワシントンに軍隊を派遣すると息巻いていたが、さすがに軍部・国防総省の中からも異論が出て、抑制されたと報道されている(20200609沖縄タイムス)。米国では、この問題が今秋の大統領選ともダブり、政治性が高まっている。
米国における黒人差別の歴史は約400年に亘るようだ。しかしだからこそ、米国では様々なカウンター文化が発展し、差別を許さない表現が大衆的に伝えられてきている。私に馴染みな分野で言えば、モダンジャズがある。これは明確に黒人文化から生み出されてきたものだ。彼らの音楽の凄さは、強烈な個がありながら、集団性もあることだ。だから創造力が湧き出てくる。これはなかなかマネできないし、真似るものでもない。
こういうのを聴いていたら、彼ら、彼女らの不屈さがほの見えてくる。私たちは、こういう文化を未だ生み出しえていないと、私は思うのだ。
非暴力の闘いは、やはり個と集団性のハーモニーが物を言うはずだ。個々人の個性を認め合いながら共感が湧き出ていく方法が重要だろう。
ひとまず、自分の表現をもつ・拓く努力を始めれば、他人を敵視した罵詈雑言を吐く人は居なくなるはずだ(空虚な高見が好きな人は居るようだが)。しかしこれができないからこそ、あたかも高見に立って、見下し発言が飛び交うのだ。
科学というものは、あたかも客観的な世界があることを仮定して、考えているので、自分を問わずに居られる。しかし暴力と文化などは、自分をカッコに括って考えることは不可能だ。人間が犯してきた・連鎖してきた暴力の数々に対して、他人事ずらできないはずだ。
今、同時代で進んでいる世界の出来事に、もっと注目し、私は、自分に引きつけて考えたい。6月はあの沖縄戦の節目の時。75年前の暴力の最中で、何があったのか、どうしてそうなったのか、そして今があることを考え抜かない限り、沖縄の未来をつかむことはできないだろう。新基地建設を止めることは、そういう過程で起きていることなのだ。