ヤマヒデの沖縄便りⅣ 歩き続けて 歩き続ける 再び

「基地の島」沖縄を歩き続け34年、気ままに綴ります。自然観察大好き。琉球諸島を戦場に据える「島嶼防衛」は愚の骨頂。
 

【拡散願います】【訂正】【加筆】思い出の横須賀の今ー「みかさ」から「いずも」まで(20241018)

2024年11月02日 | 旅の記録

2024年10月18日~20日、私は神奈川・東京に行きました。私用、私用。そこは略。主会場が横浜だというので、私は最低限、横須賀と横浜をちらっと歩いてきました。

 横須賀は、神奈川県横須賀であり、米国海軍基地があります。海上自衛隊の「護衛艦」と称する戦闘艦の一大拠点でもある。私の横須賀の記憶はやや変わっています。1955年頃から1964年、私はここに度々行きました。街に米兵が溢れていた。就学後、春休み、夏休み、冬休みに横須賀のおじさん・おばさん宅にお泊まりしていました。彼らは所謂、叔父・叔母ではありません。父親の友人だったようです(詳細不明)。

 おじさんは、艦船の修理工だった。戦時中は日本軍の艦艇修理、戦後は米軍の艦艇修理。私がまだ子ども過ぎて、それって、どういうことかを聞く能力をもっていませんでした。残念至極。しかし米兵(水兵)や艦船を身近に見ていたのです。

 そして1973年に米国空母ミッドウエイのアジアにおける軍事拠点として横須賀が母港化される時に反対の運動にかけつけました。そこで横須賀が軍事拠点だと知ったわけです。ベトナム戦争末期の頃です。米国はせこい。ベトナムから軍事的に駆逐される頃、その先を見て、横須賀(日本国)を拠点にしていく。たいしたものです。

 さらに1992年からの反PKO法、PKO派兵反対の中で、横須賀の市民運動を知り、アフガン戦争、イラク戦争に海上自衛隊がインド洋にでていくなど、米軍・自衛隊の海外派兵反対の闘いに継続的に取り組むようになりました。私の自衛隊ウォッチングの走りになった場所です。

 私にとって、横須賀は反基地・反戦の街頭闘争の場でありましたが、住民というものを意識した場でもありました。

 今回、羽田から横須賀に向かったのは初めてのことでした。あの京浜急行1本で行ける。横須賀中央駅に下りたら(15時頃)、街のたたずまいに記憶ありました。ランチを食べて、まずは三笠公園へ。

(今回の歩きに活躍したのは、「でっか字マップ 横浜・川崎」(昭文社刊 2009年版))

戦艦「みかさ」の現在。三笠公園内に保管されています。基本本物で、部分的に補修されたり、まがい物を付加して、再現しています。

15:44

1961年に、ここに復活。その後、私はおじさんに連れられて、何度も来ていました。ここから猿島行きの船が出ており(ここからでていたのか、当時の記憶無し)、猿島にも何度も渡りました。

「みかさ」は日露戦争(1904~05年)時代の日本軍の旗艦でした。あの日本海海戦の旗艦です。当時の大日本海軍の主力艦は全て英国製です。対ロ戦争でしたが、日英同盟があってこそ、「大戦」ができたのです。日本のロシアとの戦いは、朝鮮を植民地にていく戦いであり、その後、「満州」ー中国の植民地化、東南アジア等に侵略の手先を伸ばしていく、帝国主義的な戦争です。日本の近代化は、軍事化・戦争と共に形作られていきました。

こうした事実を全て闇に封印していることが、大問題。

15:52 「みかさ」を横から。主砲はみえませんが、突起が出ているのは、副砲。15センチ砲。

当時の軍艦は、石炭で動いていた。石炭の時代だから当然でしょうが、なんだか凄いことです。もちろん、レーダーもない時代です。素早く敵を見いだし攻撃をしかける。戦争の時代は、次から次へと繰り返され、敗戦・破綻しても息を吹き返してきた。

三笠公園がここにできたのは1961年。高度成長の時代です。

私はこの「みかさ」を観た1960年代前期、格好よいとか一切思わなかった。戦争を想起できなかったのですが、肯定的にみていなかった。

三笠公園の中。東郷平八郎司令長官の像がある。15:54

軍事拠点には、軍事拠点の勝利の栄光が重要視されるのだろうが、それが植民地主義に連続していった歴史があり、戦争の勝敗だけに留まらない人間性の劣化が生じていきます。こうしたことは顧みられないまま。

この三笠公園を抜けると、

米国海軍横須賀基地のメインゲートがある。16:13

ここで私はひともんちゃく。歩道上でカメラで撮ろうとしていたら、通行人が「撮ってはいけない」と。昔も言われたことを思い出しました。しかし、ここは日本国の公道上。「それで何か?」 彼は米兵であるとか、軍の雇用員とも思えず、腹が立ちました。日本の市民が米国の法を援用して、「撮るな」というのか、理解しがたいことです。主権はどっちにあるのか? 私たちにあります。

ベイサイドビル。表の繁華街。横須賀港の脇です。16:18

懐かしい。1960年代、70年代、1990年代から2010年頃までのミックスした時代が思い浮かびます。

ベイサイドビル脇の2階渡り廊下から。正面が海上自衛隊基地(一部)。左が空母「いずも」。赤いのは南極観測船「しらせ」。16:22

私の子ども時代の南極観測に、海上保安庁の「そうや」が活躍していた。しばしば厚い氷に阻まれて身動きできなくなり、ニュースになっていた。いつから輸送船=砕氷船が自衛隊に所管が移ったのだろう。

砕氷艦5003「しらせ」基準排水量12650トン。デカイ。16:26

あの階段を下りてきた。16:31

「軍港めぐり」が横須賀でも呉でも名物になっている。腹立たしい。

対岸の米軍基地で米軍艦艇が修理作業中。16:33

ヴェルニー公園から米国海軍のドック群を観る。今でも使われている(一部)。16:37

正面に、日本の空母「いずも」16:37

今、同型の「かが」は米国でF-35B戦闘機を載せて、演練中。日本は再び空母を持つ時代に入っています。空母は遠洋を超えて、対艦攻撃、対地攻撃にも従事する。スタンドオフ攻撃(敵ミサイルが届かない地点からミサイルを撃ち込める能力)の「花形」になるのでしょうか?

公園の街灯が灯った。ご覧の通り「いずも」にはまだ戦闘機等は載せられていません。敵基地攻撃能力の一端を担うのがこうした空母です。

空母艦載機は宮崎県新田原(にゅうたばる)基地に置かれる予定です。

修理中の駆逐艦ラファエル・ペラルタ。16:41

この3月に石垣島に来たのです。現地石垣島で抗議集会が行なわれた時、私の神奈川の友人が駆けつけてきてくれました。

16:43 海上自衛隊横須賀地方総監部と「いずも」16:43

私が9月に呉に行ったとき、丁度、「かが」は米国に向けて出航したあとで、見ることができなかった。

いずれにしても空母をもつことは「専守防衛」を捨て、攻撃能力を前面にもたせることになる。武力こそが正義の時代にしてはなりません。

左側に回り込む。16:45

DDH183「いずも」基準排水量19950トン。当初、「ヘリ空母」と言って、造ったが、空母は空母。全長248m。

戦艦陸奥の主砲と砲弾。16:46

グロテスクな構図に気色悪くなる私。

戦艦陸奥の主砲と現代の航空母艦「いずも」。16:49

時代は繰り返すのか、繰り返させてはならない。

そこまで来ている戦争の足音を聞き取り、私たちは踏みとどまらなければならないはずだ。

今回の横浜での私の私用は、若き者たちの結婚式への参加。

若者たちを戦争に加担させてはなりません。「戦の大義」など紙くずに過ぎないのだ。否、紙くずにしなければ、なりません。

横浜へ横須賀線で向かう。懐かしい!

横須賀駅入り口にある海軍カレーの像。これは、食えないぞ! 16:51

「カモメの水兵さん」のイメージを気取っているのでしょうが、アヒル顔。否、何であれ、イメージで軍事基地を美化したらダメでしょう。

横須賀から横浜へ。今日は横浜泊り。

 

 



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