本日は2022年8月22日(月)です。晴れています。昨日は、やかんを買いに行ったが、なかったと書きましたところ、コメント欄にて教えていただきました。そうしたことを期待していませんでしたので、心にしみました。感謝です。
さて本日8月22日は、沖縄では学童疎開船対馬丸が撃沈された日(1944年8月22日)として、慰霊や記憶を新たにする日です。今朝の沖縄タイムスの一面に「弟の面影 刻銘に重ね」と那覇市若狭にある「小桜の塔」(対馬丸記念館の隣)に、前日の2022年8月21日に慰霊に来られた方の記事が掲載されています。
この対馬丸事件は、1944年8月22日夜の攻撃でもたらされました。沖縄戦(1945年3月26日)から7ヶ月前のことです。以下、沖縄公文書館のネットから要約します。「(前略)米軍は、1944年2月に日本の絶対国防圏にあるマリアナ諸島を攻撃し、7月7日にサイパンを占領しました。次の侵攻目標が南西諸島となることが予想されたことから、日本政府は南西諸島の老幼婦女子10万人の疎開(九州へ8万人、台湾へ2万人)を決定し、沖縄県知事に命令しました。7月19日に「沖縄県学童集団疎開準備要項」を発令しました。/すでに沖縄近海には米軍の潜水艦が出没する危険な状態になっており、沖縄・鹿児島間の海域では、対馬丸を含めた疎開船などが米潜水艦の攻撃で沈没し、多くの被害者がでました」とある。
この1944年8月22日、那覇港を出た対馬丸は3隻で船団を組み長崎を目指しましたが、22時頃、鹿児島県悪石島の北西10km付近で、沈められた。対馬丸の乗船者1788人のうち、疎開児童784人を含む、1484人が亡くなりました。
助かった人は、筏にしがみついていた人たちでしたが、その多くの人々は荒波により海にふり落とされていったと生存者が話しています。
問題は、疎開なるものが人の命を守るために行われるのではく、戦場となる場所から邪魔となる子どもや年寄りを追い出すためでした。だから疎開航路の安全性確保が疎かだったのです。裏返して言えば、日本国は1944年夏の段階で既に鹿児島港から南西300kmほどの悪石島周辺の制海権・制空権を失っていたと言うことです。だからこそ、当時の生き残った人や救護に携わった人に軍事機密が課せられ、事実が伝えられてきませんでした。
運を天に任せるような作戦は、必ず失敗します。住民・人間は国家の「資源」ではありません。あの日から78年が経ちますが、今再び、琉球諸島が戦場となる戦が準備されており、過去の話ではなくなってきています。同じような過ちを繰り返さないためには、海をさまよった現場でのことに留まらない記憶の蓄積と継承がますます重要になっていると、私は考えます。