これは大昔のことだ。1962年9月に母は病死した。このとき、わたしの身近な人がこう言った。「男の子なんだから泣くんじゃない」と。誰が言ったのか覚えていないが、このことを私は義務のようにしっかり守ってきた。母の死はもちろん、その後の友人などの死に際しても。母が死んでも泣かなかったのだから他人じゃ泣きようもなかった。
子供心という奴は凄いね。妙な一途さ。性格がひと言で変わってしまったのだから。
しかしこの心の縛りは沖縄と出会う中(1989年5月以降)で溶解していった。何度も何度も人から話を聞き、現場に立ち、本を読み、動画をみたら、全然知らない人のことでも泣けてくる。大日本帝国がやらかしたことであり、その岩盤をひっくり返せていない「日本人」の責任の問題が重なるからだ。こうなったのはあるときからではなく、積み重ねの結果だ。かくかくしかじかで殺されたというインパクトも小さくないが、私にはかくかくしかじかで生き延びたインパクトが大きかった。ここで涙が出てしまえば、殺されたことに直結しているからまた涙になってしまう。
母の死と沖縄(の涙)では確かにレベルが違う。しかしこれは同じ私という人間のことだから、実は地続きなことなのだ。私には沖縄戦で亡くなった親戚縁者はいないし、戦争で亡くなった人もいない。だからいささか直接性に欠けるかもしれないが、人の死、理不尽な死への憤り、逆に生き延びた人に対するよくぞ頑張ったねとの思いはしっかりとあるつもりだ。
しかし今や理不尽な死があちこちに広がっている。逐一向き合うことは困難だ。しかしこれを放棄したら人間失格だろう。
生きていくことは、涙と無縁ではなさそうだ。
今思い出したので付記する。私の涙には、井上ひさし作・こまつ座の舞台の影響もあるだろう。1990年代の新宿の紀伊國屋ホールなどで何度も見ていた。