今の世の中で、私のバックボーンは〇〇と言える人はどのくらい、いるのだろうか?もっとも〇〇に「金儲け」を当てはめる人のことを、私は考えるつもりはない。
このコロナ禍の中で、演劇や歌など具体的な場(舞台)でやってきた人たちは、大変な思いをしているだろう。「そんなものがなくても死ぬわけないじゃない」とか、一部の人達から糞味噌に言われている。私はこうした発言を看過できない。そう考えると、ここで自分のバックボーンは何かを再考しておく意味は小さくないと考えるようになった。
私のバックボーンは野鳥とのつき合いだが、これは沖縄とかかわるようになってからの31年間も、沖縄に住み始めた7年間も基本的に変っていない。
私がバックボーンというのは、単なる趣味や特技を指すのではない。私(ひとりひとり)が生きていく上での支えであり、基本を意味している。
1:幼少期の記憶から
私が育ったのは1950年代半ばから60年代前半にかけての東京都世田谷区だ。隣に家・電柱以外の構造物がない時代を記憶している(農家の農機具小屋はあった)。周囲は畑に松林に草っ原だった。小学校まで畑(畦道)を抜ければ、裏門に到着したのだ。そういえば、学校は見えた。だから外遊びに困ることはなかったし、地域に友人たちがいた。そのうち、隣に養護施設ができて、そこのこどもたちも友人になったが、本稿では省略。外遊びしており、暗くなり出すと、フクロウの仲間(アオバズク)が「ホーホー」と鳴きだしたことを鮮明に記憶している。
これが1964年の東京オリンピックを前に、一挙に変っていく。1960年の「所得倍増計画」から始まったのだろうが、64オリンピックはそのための起爆剤として仕込まれていたはずだ。1962ー63年頃、私はしばしば悪夢を見た。夢の中で大男に踏み潰される悪夢だった。私は悟った。このまま自然を壊していったら、人類は終るよねと。何かしなければと思いながらも、所詮、小学生。できることは殆どない。
2:東京オリンピック後に中西悟堂さんから教えを得る
1964年春、私は世田谷区内の私立中学校に入学した。結果的に見るとこれが幸いしたのだろう。私はいじけ虫のはぐれ雲だったから、クラスでは浮いていた。しかしここで学校図書館に出会った。たまたま担任教師が図書館の司書教員。かれはやはりはぐれ教員だったが、彼の導きで私は図書委員を3年やった。分野を問わず何でも(?)読んだ。
ここで出会った本が「ドリトル先生」、「シートン動物記」、「ファーブル昆虫記」、中西悟堂さんの「定本野鳥記」の各シリーズなどの動物ものを全巻読んだ。また当時の友人にMがいた。かれともども読み漁り、野鳥図鑑なども飽きずに見ていた。そのうち、中西悟堂さんは世田谷の砧町に住んでおり、気さくに会ってくれるという情報をえた。たまたま悟堂さんのご自宅が私のバス通学路の途中にあった。手紙だかを書いて、会いに行った。お坊さんでもある悟堂さんは、本の中の姿と同じだった。ガキである私に淡々と野鳥とのつきあいを語ってくれたのだ。確か1965年の春のことだ。野鳥保護のことをやりたいと言ったからだろうが、日本鳥類保護連盟を紹介してくださった。こうして当時の同連盟指導部長だった故高野伸二さんらと出会い、日本野鳥の会東京支部の会員となった。
こうして私は65年の秋口から探鳥会なるものに参加するようになった。若くて、物覚えが良いし、わかり出すと、どんどん面白くなっていく。同年代の鳥仲間もできた。とはいっても大概の会員はおじさん、おばさんたちだ。世代が近い人がいれば、話しを積極的にかわすようになる。
3:岡本町と新浜との出会い
私はただのバードウォッチァーに留まらなかった。野鳥とのつきあいは、自然を守る、環境との共生を求める入り口だったから。そのころ偶然、私は世田谷区内の岡本町・大蔵町・宇奈根町・鎌田町というまだ田んぼと畑と雑木林の残るエリアを発見した。1966年のことだ。ここでのセンサス調査(種別に全個体数を数える調査)を週1で始めた。1973年まで。ここでの観察が私の識別能力を急速にあっぷさせた。またアカゲラ、ヤマシギ、アオバズク、夜明け前のカモ類などとの劇的な出会いを重ねていった。
1964年に東海道新幹線が開通したが、1970年の大阪万博に向けて東名高速道路の工事が進んでいく。大蔵町にあった神社のケヤキの林に50羽単位のゴイサギのコロニー(集団営巣地)があった。この脇に東名高速道路が掛かり、ゴイサギのコロニーは押しつぶされていった。
私の新浜との出会いを書けば、一冊の本になる。ともかく私が初めて新浜に行ったのは1966年夏だった。すでに京葉工業地帯の開発が進行中であり、干潟にサンド・パイプが敷かれ、池にはブルが唸っていた。67年春にはオオバンやカルガモ、コアジサシ、シロチドリ、コチドリなどの営巣地が潰されていった。とはいえ、1000haの規模で干潟などが広がる日本列島最大の渡り鳥の渡来地だった。
新浜というのは宮内庁新浜御料場(鴨場)に由来する。昔の人ならば山本周五郎の「青べか物語」の舞台であり、今の人たちには「ディズニーランド」のあるあたりだといえば、分かるだろう。
このまま潰されていくのを見過ごすのかな、そうはいかないよねと思っていたら、血気盛んだった女子学生3名が保護運動を始めようと私にも声をかけてくださった。ここから全てが始まるのだ。1967年4月新浜を守る会結成。私が高1になったときだ。
結論だけを書く。このとき大人は動かなかった。「日本野鳥の会東京支部」ってこういうところだったのだ。若者たちと新浜カウントグループ(センサスを調査継続していた)とごく一部の大人たちが動いてくれた。
私たちの会は署名活動と宣伝活動を主に取り組んだ。新聞に、テレビに大きく取り上げられた。私が一番若い(がき)ということもあり、怖いもの知らずで、NHKの朝のニュースに生撮りで出たり、12チャンネルでは30分番組を作って下さった。読売新聞、毎日新聞、日経新聞、朝日新聞、東京新聞などなど。また故前田武彦と榊原るみのラジオ番組「ヤング・ヤング・ヤング」(ニッポン放送)にも出た。先ほど調べたらるみさんは51年生まれで私と同い年(学年は1コ上)だったのだ。
当時の私は、一に新浜、2、3がなくて、4に学校ぐらいだったが、父と勉強について言い争いになることはあっても、今思えば相当なバックアップをしてくれたのだった。学校のクラスメートにもこうしたことは知れ渡っていた。唯のはぐれ者から、ようやっているんじゃないとの評価を得たと思う。ただし、男女差は大きかった。女子は比較的素直に認めてくれたが(多分)、男子は別世界扱いするばかりだった。
ここでエピソードをひとつ追加しておく。1968年6月のことだ。高校の修学旅行は北海道だったのだ。これは野鳥ファンの私にはたまらないものがあった。往きの青函連絡船は夜便だった。甲板に私はヒクイナが泊まっているのを発見。彼らも船便かと思いながら、クラスメートにヒクイナのことや、船の上が渡り鳥の休息地になっているんだねと話したことは、特に印象に残っている。
こうした積み重ねが私の自信になっていったのだ。何しろ当時のECOLOGYには生態学という意味しか無かった時代のことだ。自然を守るなんて、奇人変人のクチだったのだ。これを一歩一歩解き明かしていくのだ。(続く)