2024年7月28日(日)晴れ
夕方、私は与那国空港に着いた。2020年1月26日~29日以来のことだ。4年と7ヶ月ぶりとなるようだ。コロナと自分の金欠病の結果であり、与那国の人々には、大変申し訳なく思っている。これだけの時間が経ってしまうと記憶がブツブツになっており、島の形が雲散霧消。前夜(27日石垣島で)与那国島の地形図を開き、島の地理と地形、環境、自衛隊基地の配置などを復習した。3日間で何処を回るかも概要を考えた。今回のようにRD24の追っかけだと、あちらの出方を見てから判断することになる。特に今回は、台風3号の通過によって、奴らの準備も遅れているだろう。民間の船の運行も止り、これは間違いあるまい。民間機の運航にも支障がでたに違いない。
こうした天候の影響は、当然日米両軍の頭に組み込まれているはずだ。28日が共同指揮所の開所式で、29日から訓練を始めるのだろうが、どうだろうか。
28日夕食のお弁当。八重山農林高校生が考えたという。1200円とお高め。石垣空港で買った。豚肉と卵と島野菜の弁当。
台風の影響下で、市販の食べ物が限られていることは、当然であって、ハンストしながら暑さの中を歩くわけにいかない(倒れる)。島の生活は、教育や医療の問題ばかりか、こうした日常も大きな影響を受けているのだ。台風一つでこうだから、戦争にでもなったら、どうなるか。軍隊が独り占めすることも何も変わっていないだろう。
今こうしてお弁当を食べれることは、旨い不味いの問題にあらず。ひとまず演習であって、軍が独り占めする事態になっていない。他の島から買ってきたのだが、ひとまず正解。与那国空港の食堂は26日~29日臨時休業だった。食材不足のためか、休業の理由を確認し損ねたが。
石垣島にある八重山農林高校は、演習林をあの石垣駐屯地の北側斜面に持っている。私にはそんな縁もあって、これを買い求めた。石垣島と与那国島の繋がりをどの視点から考えるかで、まるで違って見えてくる。私は軍の論理に立ちたくない。民の論理に立ちたい。どうしたら民として生きられるのか。そこから考えない限り、与那国島・島々に生きている人々との連帯はなりたたない。
4年余りのブランクも心配の種だった。何が変わってしまったのか、今正にどうかわろうとしているのか、ここを探っていくのは、難儀だろう。戦時避難計画が立てられているときだけに、「軍の島」にさせない闘いを、基本に据えるべきだろう。
「避難」と聞けば、国も住民を助けてくれるのかと思いたいところだが、根本的に間違っている。国は軍隊を出して戦争準備を進めているのだ。住民を軍務につけるか、邪魔だから退かすかだ。79年前のこの国は、沖縄戦では住民をスパイ扱いして斬殺してきたのだ。この国が改心しているとすれば、かくかくしかじかだったと反省の弁があればまだしも、教科書からも事実関係を切り捨ててきたのが現実だ。
因みに2011年3月11日の福島第一原発過酷事故からの「避難」はどうなっているのだろうか? 国は保障しているのだろうか。住民の有志が提訴していると承知しているが、国は国の原発推進政策から考えれば、偶発的な事故だったので、「元に戻りなさい」の対応だろう。身勝手な国を変えない限り、戦争も原発も止められないようだ。
私達は、この国が語る「沖縄のため」を疑うしかないようだ。ダマされたら、命取りになる。私は沖縄育ちではないが、石垣育ちでも与那国育ちでもないが、ダマされたら命取りになると、歴史から学んできた。沖縄島に暮らしながらも学んできた。これからも学びあいたい。