時は止まってくれない。これは大変なことだ。歴史として、過去が語られるが、今どうなっているのかをみなければならない。
私が広島の地を初めて歩いたのは、1990年8月5日だった。右翼が席巻しており、驚かされた。全国から右翼が廣島の護国神社に集う8月5日と、8月6日の原爆忌は別物だ。いや、別物なのか? 私はまだこの命題を解いていない。多分大いに重なっているだろう。
2022年1月2日。比治山へ。比治山とは広島市太田川流域東側の丘だ。爆心地からこの東側は比治山の丘が爆風、熱線の盾になったのだ。その真ん中に、とある建物がある。
「放射線影響研究所」ー日米共同研究機関とある。10:24
同機関入り口。10:25
ABCCが基礎となって成立した研究機関であり、ABCCは米国が設置した「原爆死傷者研究委員会」。77年間もの時を超えて米日共同なのだ。これが米日核安保体制を支え、原発さえも支えてきたとも言えるだろう。
ここで詳しく触れられないが、これは日本占領史の一端だ。ヒロシマ・ナガサキは核人体実験を通して、占領も刻印されているのだ。だから私は、ヒロシマ・ナガサキとオキナワを占領史の視点から再考すべきだと考えている。因みに当時の日本政府・軍部は、米国の核人体実験に全面的に協力している。
10:33(再掲) 研究所を右に迂回するとここにつく。
陸軍墓地 10:34 誰もいない。
入り口左側に東京出身の兵隊のお墓。10:35
左奥にこれ。船舶砲兵部隊。10:39
対馬丸の撃沈事故死者も、ここで8月22日追悼されている。私は2019年8月にきている。兵隊と疎開しようとしていた子供たちの死を一緒にしないで頂きたいが、「疎開」とは軍事行動だから、同一線上だと規定されてしまうところにさらに悲劇が作られている。疎開と現今の「国民保護計画」は一緒だ。ただ国家責任を問われたくないようで、計画は自治体仕込み。
外国人のお墓もある。中国人、フランス人、ドイツ人らしい。椅子が向き合う方角が南・海側。10:40
こう。10:41 右奥が宮島だ。左端が安芸小富士(似島)。
電信兵の慰霊碑。10:45
私がこの慰霊碑をピックアップしたのは意味がある。2021年11月の自衛隊の八重岳の演習を阻止した相手は通信群。久里浜駐屯地(神奈川県)の通信教導隊、中央野外通信群の部隊だったらしい。
通信なくして戦争はできない。だから国内外のどこにでも真っ先に派遣される部隊だ。地味だが危険性も高い部隊だ。
1922年創立の電信第2連隊。北はアリューシャンから中国各地、ビルマ・ガダルカナル、廣島でも亡くなっている、7500余柱が眠る。10:46
陸軍墓地入り口
陸軍墓地は1872年にできた。今年で150年か。侵略戦争の犠牲者たち。よく読むと、ABCC建設のために、墓地はここに移設されたのだ(1949年、60年に改葬)。占領軍は強かったということだ。10:50
私は、知らなかった。この看板を読んでいなかった。
ということで、被服廠を探しに比治山を下りた。
ちょいと道に迷いました。私が「広島」の地形図を自宅から忘れてきたのが間違いの元だった。
迷いながら発見したのがこれ。
宇品線の沿革。12:03
1894年軍専用鉄道として設置された。そうだったんだ。宇品港が日清戦争以来の海外派兵の大軍港だったが、広島からこの鉄道で移動していたのか。なるほどね。
1906年国鉄になり、色々変節があったが、1986年廃線。だから私は知らなかった。
当時の車輪と線路。12:05
SLが行く、だったんだね。こうして兵隊が海外の戦地に運ばれ、お父さん、お兄さんが殺人鬼にされたり、餓死したり、病死してもいった。「惜別」だけで済ませてはいけないことだ。12:17
広島を歩くと、歴史に当たる。歴史のひとつひとつを組み立て直して、今に活かしていきたいものだ。